第11話:第二王子レオンハルトの憂鬱
重厚な鉄扉が閉ざされ、地下室に再び静寂が戻った。
王宮地下三階、特別捜査局第零班――通称「ゴミ拾い班」の執務室。
かつては異端審問官が罪人をねじ伏せていたこの場所は、今や山積みの書類と、未解決事件の墓場となっていた。
レオンハルトは、執務机に積み上げられた羊皮紙の塔を忌々しげに睨みつけた。
そのすべてに、魔法警察の判子が押されている。
『魔力反応なし』『事件性なし』『事故死』『病死』――。
(……無能どもめ)
彼は奥歯を噛みしめる。
この国、ルミナス王国は魔法に侵されている。
生活の利便性だけではない。司法、警察、そして人々の倫理観に至るまで、「魔法」が絶対的な基準となりすぎていた。
現場に魔力の残滓がなければ、どれほど不審な死に方をしていても「事件」とは認められない。逆に、誰かが魔法で偽装すれば、無実の人間が容易に犯人に仕立て上げられる。
レオンハルトは知っていた。この歪んだシステムによって、どれだけの真実が闇に葬られてきたかを。
かつて、彼の母が謎の死を遂げた時もそうだった。「魔力反応がない」という理由だけで、病死として処理されたあの日の絶望が、今も彼の胸に氷のように張り付いている。
(俺には力がない。魔法を見破る目はあっても、それ以外の『見えない真実』を証明する術がない)
だからこそ、彼は探していたのだ。
魔力という色眼鏡を通さず、世界をありのままに見通せる「異端の目」を持つ者を。
「……ようこそ、スカーレット嬢」
レオンハルトは顔を上げ、部屋の中央に佇む公爵令嬢に声をかけた。
彼女は部屋の空気を胸いっぱいに吸い込み、うっとりと目を細めている。
「カビと古紙、そして微かなホルマリンの香り……。落ち着きますね。地上の香水臭い空気より、よほど清潔です」
「皮肉か? ここは王宮の掃き溜めだぞ」
「いいえ、本心です。光が届かない場所には、カビ以外の『不純物(嘘)』も育ちませんから」
スカーレットは白衣の裾を翻し、躊躇なく部屋の奥へと歩みを進める。
その足取りには、令嬢らしい慎み深さは微塵もない。あるのは、未知の狩場に足を踏み入れた狩人のような、不敵な自信だけだった。
「昨夜の『青い光』は見事だった。魔法を使わずに血痕を暴き、言葉巧みに嘘を暴く手腕……確かに感服した」
レオンハルトは手元のクッキーを放り出し、代わりに一冊のファイルを手に取った。
黒い革表紙の、薄汚れた捜査資料だ。
「だが、あれが一発芸でないと証明してもらおうか」
「テストですか?」
「採用試験だと思え」
彼はファイルを机の上に滑らせた。それはスカーレットの手元でピタリと止まる。
「三ヶ月前の事件だ。魔法省の元高官が、自宅の寝室で急死した」
「……ほう」
「現場は密室。荒らされた形跡も、外傷もなし。魔力反応もゼロ。公式発表は『過労による急性心不全』だ」
レオンハルトは試すような視線を彼女に向ける。
「警察も、検死官も、魔法省の調査団も、全員が『病死』で合意した案件だ。……だが、俺は他殺を疑っている」
「根拠は?」
「勘だ。……あの男は死の直前まで、政敵を追い落とすための画策をしていた。そんな執念深い男が、ぽっくり逝くとは思えん」
論理的ではない。だが、スカーレットは否定しなかった。
彼女は懐から白綿の手袋を取り出し、恭しくファイルを手に取った。
「拝見します」
ページが開かれる。
中には、現場の見取り図と、魔法によって精巧に複写された遺体のスケッチが挟まれているだけだった。
情報量は極めて少ない。普通の捜査官なら、ここから新たな事実を見つけ出すことなど不可能だろう。
しかし。
スカーレットの瞳孔が、猫のようにきゅっと収縮した。
彼女はわずか数秒、遺体の顔のスケッチを凝視し――そして、深くため息をついた。
「……殿下。この国の検死官は、眼球の構造も知らない素人ですか?」
「何?」
「あるいは、節穴か。……呆れました。死体がこんなに大声で『殺された』と叫んでいるのに」
彼女は手袋をした指先で、スケッチの一点を指し示した。
それは、遺体の「目」だった。
「ここを見てください。『瞳孔』です」
「目がどうした?」
「死後、肉体の筋肉が弛緩すれば、瞳孔は散大(開く)するのが一般的です。特に心不全のような循環器系の停止であれば、その傾向は顕著になります」
スカーレットは淡々と、しかし力強く解説する。
「ですが、この遺体はどうでしょう? 瞳孔が針の穴のように、極限まで収縮(縮瞳)しています」
「……確かに。点のようだな」
「さらに、口元の泡。そして顔面の赤黒い変色……チアノーゼ。これらは単なる酸欠の兆候ではありません」
彼女はファイルを閉じた。
その動作は、裁判官が判決を下す木槌のように重く、決定的だった。
「副交感神経の異常な過剰刺激。分泌腺の暴走。そして縮瞳。……これらは典型的な『コリン作動性クリーゼ』の症状です」
「こりん……なんだって?」
「医学用語です。要するに、神経伝達物質のバランスが崩壊した状態」
スカーレットは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷徹に結論を告げた。
「これは病死ではありません。何者かによる、『神経毒』を用いた毒殺です」
所要時間、わずか一分。
現場に行きもせず、死体に触れもせず、ただ数枚の紙切れを見ただけで、彼女は国の公式発表を覆してみせた。
それも、推測ではなく断定として。
レオンハルトは息を呑んだ。
毒殺。やはり、そうだったのか。
だが、すぐに疑問が湧き上がる。
「待て。だとしたらおかしいぞ。当時の捜査では、最高位の神官が『毒検知魔法』をかけたはずだ。だが、反応はなかった」
「ええ、なかったのでしょうね」
「毒があるのに反応しない? そんな馬鹿なことが……」
「ありますよ」
スカーレットは薄く笑った。それは、無知な子供に真実を教える教師のような、あるいは世界の理不尽を嘲笑うような笑みだった。
「殿下。貴方たちが絶対視している『魔法』は、万能ではありません。魔法のセンサーは、あくまで『魔法的な定義』に基づいて反応しているに過ぎない」
「どういう意味だ?」
「今はまだ、仮説の段階ですので明言は避けますが……。この世界には、『魔法の網をすり抜ける毒』が存在するということです」
彼女は黒板にチョークで大きな円を描き、その外側に点を打った。
「警察は、この円(魔法の常識)の中だけで犯人を探している。ですが、犯人は円の外側にいます。金属探知機を持って、プラスチックのナイフを探しているようなものです。見つかるわけがありません」
金属探知機で、プラスチックを。
その比喩を聞いた瞬間、レオンハルトの頭の中で、長年の霧が晴れるような感覚が走った。
なぜ、母の死因が分からなかったのか。なぜ、明らかな殺人が事故として処理されるのか。
警察が無能だったからではない。彼らの持っている「定規」そのものが、最初から間違っていたのだ。
「……ククッ、ハハハハ!」
レオンハルトは、堪えきれずに笑い声を上げた。
狂気ではない。それは、暗闇の中でようやく出口を見つけた者の、歓喜の笑いだった。
「そうか! そういうことか! 俺たちは、見当違いの場所を掘り続けていたわけか!」
「お分かりいただけたようで何よりです。……少し静かにしていただけますか? 鼓膜が共鳴して不快です」
「すまん、すまん。……いや、痛快だ」
レオンハルトは笑い涙を拭い、椅子から立ち上がった。
そして、スカーレットの前に立つ。
そのアイスブルーの瞳には、もはや値踏みするような色はなく、純粋な敬意と熱情が宿っていた。
「スカーレット・ヴァレンタイン。君は、魔法使いには見えない『死神の足跡』が見えるのだな」
「見えます。物質は嘘をつきませんから」
「合格だ。……いや、俺の方から頼みたい」
レオンハルトは右手を差し出した。
それは王族としての形式的なものではなく、一人の男として、共犯者を求める手だった。
「この腐った国を、君の『科学』で解剖してくれ。俺がそのメスになろう。権力も、金も、必要なものはすべて用意する」
「……」
スカーレットは、差し出された手を見つめた。
そして、彼女もまた、白衣のポケットから手を出して握り返す。
その手は華奢だが、力強かった。
「契約成立ですね、殿下(スポンサー様)。……では、早速ですが」
「なんだ? 追加の予算か?」
「いいえ。この部屋のレイアウト変更の許可を。ここを私の『城』にするには、設備が前時代的すぎます」
スカーレットは既に、部屋の隅々を値踏みするように見回していた。
「まずは、あの錆びた拷問器具を撤去して、最新の遠心分離機を置くスペースを確保しましょう」
地下室の淀んだ空気が、ふわりと動いた気がした。
魔法が支配するこの国で、たった二人だけの「科学」という反逆が、今ここから始まる。




