第1話:法医学室の悪役令嬢は、カビの観察に忙しい
今日から毎日21時に1章分(4~6話くらい)ずつ投稿していく予定ですので、よろしくお願いします。
魔法王国ルミナス。
高濃度の魔素に満ちたこの国では、呼吸をするように誰もが魔法を行使し、それが「絶対的な正義」とされる。
だが、ヴァレンタイン公爵家の令嬢、スカーレットにとって、魔法など「不確定なオカルト」に過ぎなかった。
彼女が信じるのは、ただ一つ。
――再現性のある「物質」だけだ。
◇
公爵邸にあるスカーレットの自室は、異様な空間だった。
壁紙はロココ調の優美な花柄、カーテンは最高級のシルク。しかし、部屋の隅には無骨な黒鉄の実験机が鎮座し、薬品の刺激臭とカビの臭いが微かに漂っている。
「……美しい」
スカーレットはドレス姿のまま、机の上に置かれた皿を凝視していた。
そこにあるのは、一週間放置され、青緑色の綿毛に覆われたブリオッシュだ。普通なら悲鳴を上げて廃棄する代物だが、彼女の瞳は恋する乙女のように潤んでいる。
「対象、ペニシリウム属。胞子の配列、菌糸の伸長速度……完璧な幾何学模様ね」
彼女は細い指で眼鏡の位置を直すと、緑色の瞳を細めた。
集中。脳の血管に糖分が巡るのを感じながら、彼女だけのユニークスキルを発動させる。
「――【微細構造解析】」
世界が変わる。
視界が急速にズームされ、パンの表面が顕微鏡レベルの倍率で映し出される。
肉眼ではただの汚れに見えるカビが、彼女の網膜には、整然と並ぶ美しい細胞の森として投影されていた。
「嘘と見栄で塗り固められた貴族社会よりも、この菌類の方がよほど理性的で誠実だわ。彼らは嘘をつかないもの」
スカーレットは独り言ちると、ピンセットでカビの一部を採取し、ガラス板に乗せた。
そして、手元の小瓶から角砂糖を一つ取り出し、ガリリと噛み砕く。
脳を酷使するこのスキルは、燃費が悪い。常に糖分を補給しなければ、思考という名のエンジンが焼き付いてしまうからだ。
コンコン、と控えめなノック音が響いたのは、ちょうど角砂糖を飲み込んだ時だった。
「お嬢様。入ってもよろしいですか」
「ええ、入ってちょうだい。レイブン」
静かに入室してきたのは、侍女のレイブンだ。
目立たない焦げ茶色の髪をきっちりと結い上げ、足音一つ立てずに歩く彼女は、ただの侍女ではない。元は裏社会で名を馳せた暗殺ギルドの掃除屋だ。ある事件でスカーレットが命を救って以来、絶対の忠誠を誓う腹心となっていた。
レイブンは部屋に入った瞬間、パンの腐臭に眉一つ動かさず、無表情で窓を開けた。
「換気を。それと、そのパンはもう捨ててもよろしいですか? これ以上胞子が舞うと、お嬢様のドレスにカビが生えます」
「待ちなさいレイブン。この子はまだ成長期を迎えていないのよ。湿度管理を怠らないで」
「……カビに『この子』と言うのはおやめください。狂気を感じます」
淡々としたやり取り。だが、今日のレイブンの瞳には、いつもの冷徹さとは違う、僅かな憂いの色が混じっていた。
スカーレットは顕微鏡から目を離し、椅子を回転させて彼女に向き直る。
「……何かあったのね? 私の悪評に関する報告かしら」
レイブンは一瞬ためらった後、重々しく口を開いた。
「はい。……情報の裏が取れました。明日の学園卒業パーティにて、第一王子ブラッドリー様と、男爵令嬢ミエルが『ある発表』を行うそうです」
「発表?」
「『真実の愛』の宣言。……そして、スカーレット様との婚約破棄です」
それは、貴族令嬢にとっては死刑宣告にも等しい言葉だった。
筆頭公爵家の娘として、王太子の婚約者として、幼い頃から厳しく教育されてきた未来が、明日、理不尽に奪われる。
普通なら泣き崩れるか、激昂して花瓶の一つでも投げつける場面だろう。
しかし、スカーレットは「ふうん」と鼻を鳴らし、再び角砂糖に手を伸ばしただけだった。
「真実の愛、ね。……滑稽だわ。彼らの状態は、ただの『フェニルエチルアミン中毒』よ」
彼女はスケッチブックにさらさらとカビの絵を描きながら、冷ややかな分析を口にする。
「最近のブラッドリー殿下は異常でした。判断力の低下、衝動的な行動、瞳孔の散大、異常な発汗……。あれは恋というよりは、脳内麻薬の過剰分泌による一時的な錯乱状態です」
「錯乱、ですか」
「ええ。おそらく、あの男爵令嬢……ミエルによる外部からの精神干渉、あるいは何らかの薬物が関与している可能性が高いわね」
スカーレットの脳裏に、ミエル・キャンディという少女の顔が浮かぶ。
蜂蜜色の髪に、潤んだ瞳。すぐに涙を見せ、男性の庇護欲をそそる可憐な少女。
しかし、スカーレットの「目」は誤魔化せない。彼女の微細な表情筋の動きは、それが計算された演技であることを告げていた。
「ミエル嬢は、典型的な『演技性パーソナリティ障害』の傾向があるわ。自分が悲劇のヒロインになることで、周囲の注目と承認を貪るタイプ。……殿下は、ハニートラップに引っかかったただの『検体』に過ぎない」
レイブンは小さく息を吐いた。主人があまりに冷静すぎることに、安堵と呆れが半々といった様子だ。
「……医学的な見解は分かりましたが、社会的抹殺の危機であることに変わりはありません。どうされますか? 仮病を使って欠席し、領地へ引きこもる手もありますが」
逃亡。それは合理的な選択肢の一つだ。
このまま断罪の場に出れば、公衆の面前で恥をかかされ、あらぬ罪を着せられることは明白だ。
だが。
スカーレットはスケッチの手を止めた。
顔を上げる。そのエメラルドグリーンの瞳が、先ほどのカビを見る時よりも遥かに鋭く、冷たい光を宿していた。
「逃げる? まさか」
彼女は口の端を吊り上げ、捕食者のような笑みを浮かべる。
「科学者は、提示された『誤った仮説』を看過できません」
「誤った仮説、ですか」
「ええ。彼らは婚約破棄を正当化するために、私を悪役に仕立て上げる『冤罪』のシナリオを用意しているはずよ。たとえば……『スカーレットがミエルをいじめた』とか、『階段から突き落とした』とかね」
感情論と魔法が支配するこの国では、「被害者が泣いて訴えれば、それが真実になる」。証拠など誰も気にしない。
それが、この国の腐った常識だ。
「ならば、それを原子レベルで論破するのが私の義務です」
スカーレットは立ち上がり、パーティ用の華やかなクラッチバッグを手に取った。
中身をすべて机の上にぶちまける。口紅、手鏡、香水……「令嬢の必需品」が転がり落ちる。
そして彼女は、代わりに棚から「科学者の必需品」を詰め込み始めた。
薄手だが強靭な、ニトリル製のゴム手袋。
目を保護するゴーグル。
ピンセット。
そして――遮光性のスプレーボトルに入った、無色透明な液体。
「お嬢様、それは?」
「錬金薬よ。この世界では『死霊の粉』なんて呼ばれて忌避されているけれど……成分を調整すれば、嘘つきをあぶり出す最高のスポットライトになるわ」
最後に、予備の角砂糖と数枚のガラス板を胸ポケットに忍ばせる。
準備は整った。
スカーレットは鏡に向かい、完璧な淑女のカーテシー(礼)をしてみせた。
その優雅な所作とは裏腹に、鏡に映る瞳は、これから解剖台に乗せられるカエルを見るような、冷徹な好奇心に満ちていた。
「行きましょう、レイブン。明日はダンスの時間はありません」
彼女は白衣のような白のショールを羽織り、高らかに宣言する。
「――愚か者たちの『公開解剖』の時間よ」




