美咲と松茸3
急に差し出された誘いに、美咲は返事をためらった。
誰かと食卓を囲む気分ではない。ましてや、恋人に別れを告げられた帰り道だ。笑顔を作る余裕なんて、かけらも残っていない。
けれど、漂ってくる松茸の香りに、空っぽだった胃が小さく鳴った。胸の奥はまだ痛むのに、身体は正直だと思った。五年間、彼と一緒に過ごしてきたせいで、ひとりで夕食を取ることすら想像できなくなっていた。
「……でも、私なんかが急に押しかけてもいいの?」
気づけば声が漏れていた。自分でも驚くほど、弱々しく。
啓介は大きなエコバッグを持ち直しながら、あっけらかんと笑った。
「むしろ来てよ。僕ひとりじゃ絶対に食べきれないぐらいあるんだ。美味しいものがいくらあっても、食べる人数が足りないのは致命的なんだよ」
軽口のようでいて、そこに下心や打算の影はまったくない。ごちそうを前にした子どものような無邪気さに、美咲は少しだけ肩の力を抜いた。
「……じゃあ、少しだけ」
囁くように答えたその声は、ほんのわずかに震えていた。
アパートの廊下に松茸の香りが漂う。沈んだ心の奥に、小さな灯がともるような気がした。
啓介の部屋に足を踏み入れると、木の香りと調味料の匂いが混ざった、どこか落ち着く空気に包まれていた。美咲の部屋と同じ間取りの台所には、使い込まれたフライパンや鍋が整然と並び、食器棚には大小さまざまな器が並んでいる。几帳面な性格がそのまま形になったような空間だった。
「ほら、こんなにあるんだよ!」
冷蔵庫から箱の一つをとり出して蓋を開けると、中にはたっぷりと松茸が詰まっていた。得意げに言いながら、一本をつまみ上げて鼻先に近づける。
「松茸はね、採れたてだと香りがまるで違うんだ。長野で採ったからこその香りで――」
美咲はその自慢げな様子に呆れながらも、無邪気な様子に少しだけホッとするのであった。
「よし、じゃあまずは土瓶蒸しだな。松茸の香りをそのまま味わうなら、土瓶蒸しが一番だ」
啓介は買ってきた食材を片付けたあと、手際よく食事の準備を始めた。深い彫りの顔立ちに、真剣な表情が重なると、まるで料理番組のシェフのように見えた。
美咲は立ったまま、少し戸惑っていた。
何か手伝うべきか、それともただ座っていればいいのか。けれど啓介は振り向きもせずに言った。
「花沢さんは座っててよ。今日はゲストだから」
ゲスト。
その言葉に、少し胸が温かくなる。彼に別れを告げられたとき、まるで世界から追い出されたような孤独を味わったばかりなのに、今こうして誰かの部屋に迎えられている。
火に掛けられた土瓶から湯気が立ち上り、部屋を満たす香りが一気に強くなった。
「いい香り……」思わず漏れた声に、啓介は嬉しそうに振り向く。
「だろ? 松茸は香りが命なんだ。このバランスが独特で――」
始まった。彼の止まらないうんちく。
けれど、不思議と今日は耳障りではなかった。むしろその饒舌さが、沈んだ心を少しずつ現実へと引き戻してくれるように感じられた。
美咲はテーブルの前に腰を下ろし、窓の外に沈みかける夕陽を見つめた。
さっきまで胸を締めつけていた痛みは消えない。けれど、ここに漂う温かい匂いと、誰かが作ってくれる食事の存在が、その痛みにほんの小さな隙間を作ってくれている――そう思えた。




