美咲と松茸2
足取りは重く、アパートへ向かう道がいつもより長く感じられた。頭の中では、彼の声が繰り返し響き鼓膜を叩くたびに、胸の奥が痛んだ。別れを告げられた現実をまだ受け入れられず、ただ身体だけが惰性で帰り道を進んでいる。
階段を上がり、いつものように二階の通路を歩いたときだった。
前方に大きなエコバッグをぶら下げて、背の高い男性が立っていた。アパートの住人、鈴木啓介さんだ。
「……あ、花沢さん」
振り返った彼は、深い彫りの顔立ちを明るく緩めた。イケメンと呼ぶにふさわしいその表情に、しかし美咲の心は動かなかった。ただ、大きなエコバッグをもつ、その姿に足が止まった。
「いい匂いがするだろ。長野の知り合いの山で松茸狩りしてきたんだ。いやあ、今年は豊作でね、早速料理をしているところだよ」
そう言って、彼は自分の部屋の扉を指さしている。換気扇からふわりと漂ってきた独特の香りに、美咲は思わず瞬きをした。気付かなかったが松茸のいい香りがアパートの通路を満たしていた。
「今年は質も量も申し分ないんだよ。夏の気候とか土壌の酸性度とかが、ちょうど合わないと、全く取れない年もあるんだ。こんな豊作の年はなかなかなくて……」
始まった、と美咲は思う。彼の話は一度スイッチが入ると止まらない。けれど、その調子に乗った声は、不思議と耳に重くなかった。沈んでいた心の底に、ほんの少しだけ温度が戻っていくのを感じる。
「でさ、料理したんだよ。土瓶蒸とか、炊き込みご飯とか……。で、足りない材料があったから買い物に行ってきたんだ。あっ、そうだ花沢さん、ちょうど帰ってきたとこだろ? よかったら一緒に食べないか?」
啓介はエコバッグを持ち上げながら言っているが、あの中にも松茸が入っているのだろうか。
何の含みもなく、ただ純粋に「美味しいものを分けたい」という善意の響き。その申し出に、美咲は胸の奥にたまっていた冷たい空気が、少しだけ和らぐのを感じた。




