美咲とスズキ5 元気でいるよ。あなたもね
朝の空気には、まだわずかに冬の名残があった。
アパートの前の通りを、冷たくも柔らかい風が通り抜け、屋根や歩道に残る雪の粒をゆっくりと舞い上げる。
陽射しは穏やかで、街角や建物の陰を淡く照らし、どこか懐かしい匂いを運んでくる。
段ボール箱をいくつか積んだトラックの荷台には、生活の名残が静かに詰め込まれている。
カップや食器は、何度も手に取った形のまま収まり、読みかけの本は表紙が少し擦れている。
着なくなった服も、畳まれたまま時の記憶を閉じ込めていた。
それぞれの小さな品々が、あの部屋で鈴木さんと過ごした日々を静かに物語っていた。
二人で笑い合った時間、夜遅くまで語り合った些細なこと、料理を一緒に楽しんだひととき。
――そんな気配が、まだ段ボールの中に残っているかのようだった。
朝の光に照らされ、過ぎ去った思い出がふんわりと溶け出し、胸の奥にそっと響いてくる。
私は最後の荷物を運び終えると、玄関前でゆっくり深呼吸した。
肩の力を少し抜き、軽く伸ばす。
すると、通路の向こうから、鈴木さんが出てきた。
白いシャツの袖を軽くまくり、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
まるで、今日もいつもと同じ特別な日でも何でもないかのように、自然体で、そこに立っていた。
私は一瞬立ち止まり、胸の奥に小さな温かさが広がるのを感じた。日常の中の何気ない瞬間が、なぜか特別に思えた。
「いよいよだね」
鈴木さんの声は、春風のように柔らかかった。
「うん。…色々お世話になりました」
私は笑おうとしたが、唇の端が少し震えた。
しばらくの沈黙が続く。
風が二人の間を静かに抜け、通りを走る車の音や、遠くで鳴く鳥の声が微かに混ざる。
世界はいつもどおりに動いているのに、なぜか私の心だけが取り残されたように感じられた。
胸の奥で、言葉にできないざわめきが渦巻き、時間の流れがゆっくりすぎるかのように思えた。
目の前の景色は鮮やかで、空気は冷たく澄んでいるのに、心はひとりぼっちのままだった。
やがて鈴木さんが思い出したように、少し照れくさそうに言った。
「そういえば、シーバスの約束、忘れてないから。夏になったら釣りに行って、捕れたら連絡するよ」
その声に触れた瞬間、過去のすべてが静かに波打つように胸の奥で広がった。
あの日の笑い声、一緒に釣り堀に行ったときの記憶、何気ない会話のひとつひとつ。
――そのすべてが鮮やかに蘇るのに、同時に、もう二度と戻れないことを痛感する。
目の前にいる彼は、本当に変わっていない。そのことが、嬉しかった。
けれど、変わらないままでいてくれるからこそ、心の奥に小さな棘が刺さるようだ。
彼の声の柔らかさ、仕草の自然さ、笑ったときの温かさ。
――それはまるで時が止まっていたかのようで、私だけが過ぎ去った時間を背負っている気がした。
胸がぎゅっと締めつけられ、言葉にできない痛みがじわりと広がる。
懐かしさと切なさが入り混じり、心の奥で小さな波紋が広がっていく。
思わず目を伏せ、息を整えるが、胸のざわめきは消えず、過去と今が交錯する。
彼が変わらずそこにいるという事実が、こんなにも胸を締めつけるなんて。
――私は改めて、自分の感情の深さを実感したのだった。
私はそっと息を吸い、できるだけ明るい声で答えた。
「あっ、ごめんなさい。ついこの前……私、鱸・アレルギーがあるってわかったんです」
一瞬、風が止まった。
鈴木さんは俯いたあと、少し残念そうに笑った。
「えっ、そうなんだ。友達も一緒にって言ってくれてたのに……それは残念だなぁ」
それだけ。なんの疑いもしない。
私はその無垢な反応に、心の奥が締め付けられる。
もちろん、それは真っ赤な嘘だった。
鈴木さんが優しく差し出す思いに、もう応えられない自分を守るための……。
――小さな嘘。
「だから、最高の鈴木さん……まいは、璃子さんに譲ります」
(さようなら、鈴木さん)
その名前を出すのに、ほんの少し勇気がいった。
けれど、口にしてしまえば、不思議と心が静かになっていく。
鈴木さんはいつものように、にこやかにうなずいた。
「そっか。じゃあ、スズキ三昧は璃子と食べることにするよ。でも、花沢さんも、何か食べたいものがあったら言ってね。いつでも最高の料理を用意するから」
その優しさが、あまりにも自然で、私は胸がいっぱいになった。
――変わらない人。
いつでも誰にでも、同じ笑顔で、同じように手を差し伸べる人。
――それが鈴木さん。
そして、自分が恋をした理由も、まさにそこにあったんだと思う。
(やっぱり、変わらないんだね…鈴木さんは)
私は笑おうとした。
だが、笑顔の形のまま、言葉にならない何かが喉に詰まった。
彼は、私がさっき告げた“別れ”には気づいていない。
いや、気づいたとしても、鈴木さんはきっと同じように優しくしてくれるだろう。
それが、彼のやさしさであり、そして――彼の
「残酷さ」
でもある。
私は最後に、まっすぐ鈴木さんを見つめた。
「ありがとう、鈴木さん。…本当に、ありがとう」
「え?」
「ううん、なんでもないの」
風がふわりと二人の間を抜け、髪を揺らした。
遠くでトラックのエンジンがかかる音がする。
私は振り返らずに、ゆっくりと歩き出した。
足音がアスファルトに吸い込まれていく。
一歩進むごとに、胸の奥に小さな痛みが走る。
それでも足を止めなかった。
背後から、鈴木さんの声が追いかけてくる。
「またね、花沢さん、元気でね!」
その声に、私は立ち止まりかけたが、振り向かなかった。
ただ、かすかに微笑み、空に向かって小さくつぶやいた。
(うん、元気でいるよ。あなたもね)
その瞬間、涙がこぼれそうになったが、ぐっと唇を噛みしめた。
(私はもう、泣かない。そう決めたのだ)
通りを抜ける風は少し暖かくなっていた。
見上げた空には、春の光がやわらかく広がっている。
どこか遠くで、子どもたちの笑い声が聞こえた。
――こんなにも、いい人だから、私は好きになったんだと思う。
歩きながら、静かに目を閉じる。
心の奥に、淡い感謝と、ほんの少しの痛みが溶けていく。
(これでいい。これでよかったんだ)
最後にもう一度、誰にも聞こえないぐらいの声でつぶやく。
「ありがとう、啓介さん。どうかこれからも、幸せでいてください」
その祈りのような言葉が、風に乗って消えていく。
まだ少し切なさは残るけれど、風が髪をなで、陽射しが肩に触れるたびに、未来への希望が少しずつ膨らんでいく。
私は、過去と今をそっと抱きしめながら、これからの自分に向かって歩き出した。
――数年後、一人の女性が小さな町の「子ども食堂」で働いている。
そこには、居場所を探してやって来る子どもたちが集う。
その一人ひとりに、料理とともに笑顔を渡していく。
話を聞き、心をすすぐことで、閉ざされた心が、啓くのを介けている。
「この味、なんか優しいね」
「うん。優しい人に教わったんだ。
この料理には千年の物語が詰まっていてね――」
彼女の原点は、あの頃の食卓にあった。
誰かの幸せを願って料理を作る――その優しさを、彼が教えてくれたのだ。
別れは終止符じゃなかった。
想いの和音になった。
その日もまた、誰かの笑顔が静かにキッチンに灯るだろう。
食堂の入り口には、白い看板が掛かっている。
そこに書かれた名前は、今も心に残る、たったひとつの言葉。
―― K’s キッチン。
第一部 完
このたびは、「K’s キッチン」を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
美咲の話は、ここで一旦の区切りとなります。 彼女の歩んだ日々を温かく見守ってくださった皆さまに、深く御礼申し上げます。
現在、待望の続編の構想を温め、新たな物語の執筆を始めております。 再び彼らの姿をお届けできる日まで、どうぞ心待ちにしていただけましたら幸いです。
また、本編では日の目を見なかったエピソードや、登場人物たちの秘められた想いを描くスピンオフ作品も鋭意準備中です。そちらも合わせてお楽しみいただけますと幸いです。
これからも―― 主人公、啓介が織りなす感動の物語に、どうぞご期待ください。




