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K’sキッチン 〜恋愛感情ゼロの美味しい料理〜  作者: pp
美咲とスズキ 第一部最終章
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美咲とスズキ4 味のない秋刀魚

 結局、悩んだ末に鈴木さんの所へ足を運んだ。

 どうすればよいかなんてわからない。


 鈴木さんの部屋の扉が開くと、香ばしい匂いが立ち上っていた。秋刀魚の塩焼き。

 玄関の扉を閉める音も、鈴木さんの声も、どこか遠くに届く。

 私は無意識のまま席につき、箸先でそっと秋刀魚をついばむ。

 慣れ親しんだ味なのに、味がまったくわからない。

 香りも形も目に入るのに、舌はただの感覚の通過点にしか過ぎず、味覚が遠くへ行ってしまっている。

 目の前の食卓と私の内側との間に、静かで微妙な距離ができているようだった。


 理由ははっきりしている。


 これから鈴木さんと話をしなければいけない。


 胸の奥で、言葉にできない焦燥と不安が渦巻いている。

 いろいろ考えてはいたけれど、結局、流れに任せてしまった。自然に、ストレートな言葉として口をついて出た。


「……あの、璃子さんに会いました。幼なじみなんですよね」


 鈴木さんは箸を置き、私の方を見た。眼差しは柔らかく、まるで何でもない日常の会話のように自然だった。

 私はさらに続ける。


「璃子さんから……聞いたんです。鈴木さんは恋愛をしない人だって……本当なんですか」


 その瞬間、居間の空気が少しだけ静かになった。鈴木さんは少し考えるように眉を寄せたが、やがて、驚くほど淡々と答えた。


「うーん、そうだね。いままで恋人がいたことはないかな。それに恋人になるということもよくわからないんだ」


 言葉は軽やかで、けれど確かに重みがあった。

 胸の奥に、ぽかんと穴が開いたような感覚。信じられないほど、冷たい現実が目の前に横たわっている。


 どうしても、その真意を確かめたくて、私は思わず、身を乗り出し鈴木さんに近づく。

 そして腕に、ちょつとだけ触れてみる。

 心の中では、これで少しでも反応があれば、まだ何か希望が残ると思った。

「ん、何かついてた?」

 鈴木さんの変化は、“ゴミでも付いていたのかな”という表情を浮かべるだけだった。

 そして何事もなかったかのように箸を持ち直し、秋刀魚を口に運ぶ。


 その無関心さに、私は息を呑んだ。ま

 るで、私の感情など空気のように通り過ぎていくかのようだ。

 胸の奥のざわつきが、静かな落胆に変わる。


 そして、さらに言われた言葉が、私の心を鋭く突き刺す。


「話はかわるけど、先週も小野と食事して楽しかったんだよ」


 瞬間、箸が手から滑りそうになった。

 鈴木さんの、自然で、そしてあまりにも軽い口調。

 視界が少し霞む。

 ああ、璃子さんの言っていたことは……本当だったんだ、と、たしかに理解した。

 鈴木さんは、恋愛感情というものを持たず、ただ女性との食事を楽しむだけの人なのだ。


「小野は、大学の同級生でね。スイートポテトあげたんだけど、男だから甘い物が苦手って言っていて……」

 もう、だめだ……鈴木さんが言っていることは耳には届いているはずなのに、脳が言葉の認識を拒否している。


 私は、自分の意志とは無関係に、淡々と目の前の秋刀魚を口に運んでいる。

 香ばしく、ふっくらと焼けていて美味しそうだということはわかる。

 けれど、舌はまったく反応しない。


 ……いや、一つだけ、かすかな味を感じる。

 皮が少し焦げている苦さ――それが、今の私の胸の痛みと重なって、じんわりと染み込む。


 私は鈴木さんをじっと見つめた。

 彼の目は相変わらず穏やかで、どこか遠くを見ているような光を帯びている。

 私をこんな想いにさせているのに、鈴木さんには感情の波は一切ない。

 どんなに触れても、どんなに問いかけても、彼の心はその静けさの中に閉じ込められているのだ。


 思わず、視線を落とす。

 目の前の現実を直視するには、胸の痛みが強すぎる。

 これまで抱いていた期待も、少しずつ溶けて、ただの感覚の空虚として残るだけだ。


「……そっか」


 小さな声が漏れる。

 何を言えばいいのかも、わからない。

 ただ、理解しなければ、先に進めない。

 秋刀魚の香ばしい匂いが、やけに重く感じられた。


 それでも、心のどこかで、私は不思議とほっとしていたのかもしれない。

 鈴木さんの本当の姿を知ることで、これからどうすればいいのか、少しずつ輪郭が見えてくるはずだった。

 恋愛の対象ではないとわかれば、期待も裏切られることもない。

 けれど、それを理解するのに、胸の痛みがあまりにも大きすぎる。


 鈴木さんは箸を置き、笑顔で「美味しい?」と聞いた。

 小さな問いかけは、以前と同じように穏やかで、でも私の心はその言葉に応えられない。

 箸を握り直し、口に運ぶ動作だけを繰り返すしかできない。


 そして私は、その考えにいたった。

 鈴木さんと私は、同じ時間を共有していても、根本的に心のベクトルが違うのだと。

 恋愛の感情がゼロの人と、恋愛の可能性を求める自分。どれだけ近くにいても、そこには埋められない距離がある。


 静かな秋の夜、居間に立ち込める塩焼きの香りだけが、私の心に残った。

 味はわからない。それでも、すべてを知った現実の重さだけは、確かに感じられるのだった。



 私は俯いたまま、しばらく動けずにいた。

 肩の力が抜けきらず、胸の奥で小さな痛みが波のように揺れる。鈴木さんがいつの間にか、静かに私を見つめていることに気づく。


「花沢さん、元気ないね」


 鈴木さんの声が、そっと背中を撫でるように届く。

 いつもの落ち着いた笑顔ですわっていた。

 だけど、その笑顔の裏に心配が透けて見え、胸の奥がじんと痛んだ。

 どうして私は、こんなにも彼のことを気にしてしまうのだろう。


「うん……ちょっとね」


 うわの空で答えながら、私は視線を床に落とす。

 鈴木さんは何も言わず、少し考えるように眉を寄せていたが、やがて口を開いた。


「じゃあ、こんどシーバス料理を作るよ。元気出ると思う」


 その言葉に、初めて、鈴木さんに松茸ご飯をご馳走になった日のことが思い出される。


「でも、旬は夏だから、もう少し待ってね」


 鈴木さんはそう付け加える。

 私の心の中で、ふっと、ある疑問が頭をもたげた。


――本当に、鈴木さんは私を異性として見ていないのだろうか。


 どうしても、それを確かめずにはいられなかった。

 私は、最後に残った微かな期待を賭ける、小さな悪戯じみた試みを思いつく。


「あのね、この前、友達に話したら、そのシーバス料理、食べたいって言ってたんだ。男の子なんだけど、一緒に来ても良いかな……?」


 言葉はかすれていた。口にした瞬間、心臓が早鐘のように打つのを感じる。

 胸の奥では、期待と不安が激しく交錯し、思わず膝を抱えたくなるほどの緊張感が走った。


 目の前の鈴木さんは、にこりと微笑みながら、まるで天気の話でもするかのように、何も気にする様子もなく答えた。


「もちろん、いいよ。楽しみにしていてね」


 その無邪気で無頓着な返答に、私の最後に残った微かな希望は、音もなく打ち砕かれた。


 鈴木さんは、私を特別な女性としては見ていない。


 異性としての意識は、寸毫(すんごう)も持っていないのだ、と。


 口の端に小さな笑みが浮かぶと同時に、胸の奥からぽろぽろと涙がこぼれた。

 男友達に話したというのは、全くの嘘。

 けれど、この小さな嘘で、私は真実を確認できた。


 涙が頬を伝う。

 どうしてこんなにも切ないのだろう。

 鈴木さんが、恋人としての愛情を返してくれないなら――私はそうするしかないのだろう。


「鈴木さん、は……悪く、ないん、です。ごめん、なさい、ごめんな、さい」


 声は小さく震え、呼吸も乱れる。肩が細かく震え、体全体が涙で緩んでいく。

 手で顔を覆うが、もう止められない。

 鈴木さんは慌てて手を伸ばすが、どう触れていいかわからない様子でオロオロしている。

 その姿を見て、私は少し落ち着いた。

 泣いている自分と、慌てる彼のギャップが、なぜか心を少しだけ和らげる。


――ここで未練を見せたら、鈴木さんに申し訳ない。


 涙で視界が滲む中、深呼吸をして体を起こす。

 肩の力をぎゅっと込め、ゆっくりと息を吐く。

 心の中で自分に言い聞かせる。

 私は強くならなければならない。

 泣き続けるだけでは、前に進めない。


「もう、大丈夫、です。多分、一晩、寝れば、落ち込んだのも、治ると、思います」


 そう言って、私は立ち上がる。

 声はかすかに震えながらも、さきほどより確かな響きを持っていた。

 膝の力をぎゅっと込め、靴を履きながら深呼吸をする。

 鈴木さんはまだ心配そうに見つめているが、口を開こうとはしない。

 鈴木さんは黙って見送ってくれる。

 無言の優しさが胸に刺さり、再び涙がこみ上げそうになる。

 けれど、必死に堪える。

 泣き続けたままでは、自分も鈴木さんも辛くなるから。


 玄関を出て、夜風に頬をなでられると、涙で湿った頬がひりつく。

 だけど、それでも前を向こうとする自分がいた。

 背中を丸めず、足をしっかりと地に着けて歩く。


 自分の部屋に戻り、ベッドに体を沈めると、体中の力が抜け、やっと泣くことが許されたような気がした。

 枕に顔を埋め、涙を止めることなく流す。

 震える肩を感じながら、胸の痛みをひとつずつ受け止める。

 だけど、この涙は、少しずつ自分を整理するためのものなのだと、心のどこかで理解していた。

 時折すすり泣きの音が部屋にこだましていた。


 時計の針は静かに進み、部屋は夜の静けさに包まれていく。

 涙で湿った髪が顔に貼りつくが、それも構わない。

 痛みも、涙も、すべて自分のものとして抱きしめる時間なのだ。

 鈴木さんを恨む気持ちはなく、ただ、自分の弱さと向き合い、少しずつ整理するための時間。



 ベッドの中で小さく震えながらも、深く息を吸い、吐く。涙はまだ止まらないが、少しずつ落ち着きが戻ってくるのを感じる。

 明日になれば、きっとこの胸の痛みも少しは和らぐだろう。

 だけど、今はまだ、静かに涙と向き合い、自分を強くするための夜なのだ――。

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