美咲とスズキ3 その優しさの行方
店を出たとき、璃子の背中は、まっすぐだった。
ためらいもなく、何かを守るためだけに歩く人の、まっすぐな姿だった。
その後ろ姿を見つめながら、私は胸の奥で、何かが静かに崩れていくのを感じた。
――私は、何を求めていたんだろう。
言葉にならない問いが、心の奥で渦を巻いた。
歩き出したはずの足が、ふと止まる。
信号が青に変わっても、動けなかった。
通り過ぎる人々が肩をかすめても、その存在が自分の世界とは別の場所の出来事のように思えた。
何も考えられなかった。
ただ、耳の奥で璃子の言葉が何度も繰り返される。
――鈴木さんには、あなたみたいに“彼の料理を食べに行く”女の子が何人かいる。
――彼は誰にでも同じように接してる。
――それは彼にとって恋じゃないの。
そのたびに、心臓の奥を誰かに掴まれるような痛みが走った。
現実が、ゆっくりと、けれど確実に自分を締めつけてくる。
「そんなはずない」と否定したくても、璃子のあの目が、静かにすべてを封じていた。
どれくらい歩いたのか覚えていない。
気づけば電車のホームに立っていた。
改札を通った記憶もない。
人の流れに押されるようにして電車に乗り、ドアが閉まる音にようやく現実が戻る。
窓の外を、街の灯が流れていく。
その光のひとつひとつが、ぼやけて滲んだ。
涙が出ていることに気づいたのは、頬を伝う冷たさを感じてからだった。
拭おうとしても止まらない。
静かな嗚咽が喉の奥で震え、息を整えるたび、胸が苦しくなった。
――私だけが、特別だと思ってた。
――彼の笑顔は、私にだけに向けられたものだと思ってた。
あの日の食卓の光景が、次々と頭に浮かぶ。
湯気の立つ皿、柔らかな声、笑い合った時間。
それらすべてが、特別ではなかったなんて。
電車が最寄り駅に着いても、体は動かなかった。
アナウンスが繰り返され、人々が降りていく。
ようやく立ち上がり、ふらつきながらホームを歩く。
足取りは重く、視界の端が白く霞む。
夜風が吹き抜ける改札を抜けると、街灯の光が滲んで見えた。
スマートフォンがポケットの中で震えたが、取り出す気にもなれなかった。
もしそれが鈴木さんからだったとしても――今の自分には、どう返せばいいのかわからなかった。
アパートのドアを開けると、部屋の空気が冷たく感じた。
靴を脱いで、鞄を床に落とす。
灯りをつけることも忘れて、そのままベッドに腰を下ろした。
静寂が耳を塞ぐ。時計の秒針の音が、やけに大きく響いた。
思考がまとまらない。
涙はもう出なかった。代わりに、胸の奥に残ったのは、深い空洞のような虚しさだった。
「……どうして、泣いてたんだろう」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟いた。
声が空気を震わせ、すぐに消える。
天井を見上げると、街灯の明かりがカーテンの隙間から細く差し込んでいた。
その光が、ぼんやりと揺れている。
まるで、心の奥で揺らめく未練みたいに。
――鈴木さんは、誰にでも優しい。
――でも、それは恋じゃない。
璃子の声が、もう一度頭の中で再生された。
“恋じゃない”という言葉が、何度も何度も、胸の奥に刺さる。
それでも、完全に手放すことはできなかった。
だって、自分が惹かれたのは、あの優しさそのものだったから。
「……ずるいよ、鈴木さん」
唇からこぼれたその言葉は、かすかに震えていた。
けれど、その声を聞いた瞬間、ほんの少しだけ心が軽くなった。
感情の輪郭を確かめたことで、ようやく息ができるようになった気がした。
部屋の隅のカップに、飲みかけのコーヒーが目に付いた。
手に取る気力もなく、ただ見つめる。
その琥珀色の液体が、まるで自分の心の温度みたいに、静かに冷えていた。
夜は深まっていく。
けれど、私の時間は止まったままだった。
誰かの笑顔の中で、自分が特別でいられると信じていた時間だけが、遠い夢のように霞んでいった。
――もう戻れない。
その確信だけが、静かに胸の奥に沈んでいた。
翌朝。
私は、ほとんど眠れぬまま、白んだ天井を見つめていた。
カーテンの隙間から差し込む光はやけに冷たく、現実の輪郭を無理やり押しつけてくる。
頭の奥に残るのは、璃子の言葉の残響。
――恋じゃないの。
――恋愛感情を持ち続けたまま、彼に近づくなら、私は止める。
枕元のスマートフォンを見つめる。
鈴木さんの名前が、そこにある。
たったそれだけで、胸の奥がざわめいた。
指先が少し震える。
「……直接、聞いてみようか」
口に出してみた言葉は、思っていたよりも頼りなかった。
けれど、このまま何も知らないふりをしてはいられない。
璃子の言葉だけで判断するのは、ずるい気がした。
鈴木さんが本当に「恋を理解しない人」なのか。
それとも、ただ璃子がそう“決めつけている”だけなのか。
「……聞かなきゃ」
そう呟いたものの、すぐに胸が痛む。
もし、璃子の言っていたことが本当だったら――。
“恋愛対象じゃない”って、はっきり言われたら。
その瞬間、今の関係は壊れてしまうかもしれない。
それでも、確かめずにはいられない。
曖昧な希望のままでは、もう息ができなかった。
キッチンの椅子に腰を下ろし、スマートフォンを前に置いた。
画面に映る自分の顔は、どこか他人のようだった。
ぼんやりした目、腫れたまぶた、乾いた唇。
鏡よりも残酷な現実が、そこにあった。
「……もし、“恋愛感情はない”って言われたら?」
自分に問いかける。
そのあと、どうする?
――離れる。
それが一番簡単、でも一番苦しい選択。
でも、璃子は言っていた。
「友情なら認める」と。
つまり、“恋愛を求めない”なら、そばにいることは許されるのだ。
恋愛なしの友情。
男女の友情なんて、ありえるのだろうか。
私はスマートフォンで検索画面を開いた。
「男女の友情 成立する?」
記事がずらりと並ぶ。
“できる派”と“できない派”。
そのどちらの言葉も、現実味を持って胸に刺さる。
「できる」と言う人たちは、理性的で、互いを“人”として見られる関係だという。
一方で「できない」と言う人は、どこかで恋愛を意識してしまうからだと。
特に男性は、相手を“異性として見ない”ことが難しい――そんな意見も多い。
私は、思わず消え入りそうな笑みを浮かべた。
「鈴木さんなら、できちゃうかも」
彼の顔を思い出す。
優しいけれど、どこか無頓着で、女性といても、緊張したり、照れたりすることがない。
むしろ純粋に、人として向き合っている。
――鈴木さんは、きっと“できる人”なんだ。
友情を保ったまま、誰とでも自然に接することができる人。
だったら、自分もそうなればいい。
恋愛感情を隠して、友達としてそばにいられたら――。
誰にも迷惑をかけずに、鈴木さんのそばにいられる。
でも。
その“でも”が、すぐに喉の奥を塞いだ。
そんな器用なこと、自分にできるだろうか。
好きな人を、好きじゃないふりをして。
優しく笑いかけられても、胸が高鳴るのを押さえ続けるなんて。
「……無理だよ」
声に出した瞬間、涙がにじんだ。
机の上で、指先がかすかに震える。
嘘をついたままで、そばにいることができるとは思えなかった。
彼に誠実でいたいと思うほど、偽ることが罪のように感じられた。
けれど、どうしても諦められない。
彼の笑顔を、声を、あの食卓のぬくもりを――全部忘れられなかった。
“恋じゃない”と切り捨てられても、あれがただの友情だなんて思えなかった。
「……確認しよう」
涙を拭いながら、静かに決意する。
たとえ怖くても、逃げずに確かめなきゃいけない。
自分がどこに立っているのかを、知るために。
でも、どうやって切り出せばいい?
唐突に「私のこと、恋愛対象じゃないの?」なんて聞けるはずもない。
食事の流れで、さりげなく――?
けれど、そんな器用なこともできそうにない。
そのときだスマートフォンが、手の中で震えた。
画面を開くと、鈴木さんからのメッセージが届いていた。
『秋刀魚の塩焼き作ったんだ。もしよかったら食べにおいで』
たった一文。
そこに、恋の匂いはない。
けれど、私の指は、無意識に返信欄を開いていた。
『行きたい。……その秋刀魚、あなたと食べたいです』
そう打ちかけて、指が止まる。
璃子の言葉が、頭をよぎる。
――応えてもらえない恋は、やがてあなたを壊す。
文字を消す。
指先が震える。
胸の奥が、静かに痛い。
ふと漂う秋刀魚の香ばしい匂いが思い起こされ、彼の笑顔を思い出した。
優しく、無邪気で、無自覚な残酷さを持った笑顔。
「ねえ、鈴木さん……あなたの優しさって、誰のものなの?」
その呟きは、冷たい夜風に溶けて消えた。
答えは、どこにもなかった。




