美咲とスズキ2 想う人と守る人
璃子は、指先でストローをくるくる回しながら、私をまっすぐ見ていた。その瞳は澄んでいるのに、どこか底の見えない深さがあった。
「……美咲さん、あなた、啓介のこと好きなんでしょ」
唐突な言葉だった。
その瞬間、心臓が一拍、痛みのように跳ねる。
口の中のカフェラテが少し苦く感じた。
「え……」
初対面の人には、いつも通りの「よそ行き」の顔をしていればいい。
笑顔も、会話も、すべては演じるもの――自分を守るための仮面だ。
でも、今この瞬間、その仮面が熱く、重く、ぎしぎしと軋むように感じられた。
目の前の人に向けるべき「普通の笑顔」が、どうしても作れない。
私は一瞬、自分の心があまりにも正直すぎて、怖くなるのを覚えた。
もしこの想いを認めたら、きっと後戻りはできない――そんな予感が、胸を重く締めつける。
でも、否定することはできない。
言葉にすれば、嘘になってしまう。
――だって、本当のことだから。
思考と感情が交差する中で、私は目を伏せる。
仮面を外したその瞬間、彼女の心は震え、でも一筋の光を見たような気がした――
慌てるでも、動揺でもない、ただ「自分の本心を認める」という小さな確かさの光。
璃子はそんな私の表情を見て、ため息をひとつ落とした。
「やっぱり。……でも、それ、やめた方がいい」
「どうして?」
自分でも驚くほど、声が強く出ていた。
胸の奥で、何かがざわめいていた。
「啓介と恋人同士になることなんて、絶対にないから」
静かな、けれど冷徹な断言。
カフェのBGMが、急に遠くなった気がした。
「どうして……そんなこと言うの?」
問いかけながらも、声は震えていた。
璃子は答えるまでに少し間を置き、低く息を吐いた。
「啓介はね、恋愛感情っていうものを理解してないの」
理解していない――その言葉が、頭の中で何度も反響した。
「誰かを好きになるとか、誰かを独り占めしたいとか、そういう感情が、彼の中にはないの。彼は“人を好きになる”ってどういうことなのか、本当にわからないのよ。本人もそれを自覚してる」
「……そんな、こと……」
私は唇をかすかに噛んだ。
鈴木さんはいつだって優しかった。
さりげなくコーヒーを差し出してくれたり、寒い日にマフラーを貸してくれたり。
その優しさに触れるたび、胸が温かくなって――
「でも、私……」
私は小さく息を吸い込み、かすれる声で続けた。
「鈴木さんといるとき、少し違う感じがするの。たとえば、笑い方とか。私のことをちゃんと見てくれてる気がして……」
璃子は微かに微笑んだ。
その笑みは、あまりにも静かで、痛みを含んでいた。
「そう思ってる人、今まで何人もいたのよ」
璃子の言葉が、カップの底に落ちた氷のように、鈍い音を立てて沈んだ。
その瞬間、空気がふっと変わった気がした。
カフェのざわめきが遠のき、外を走る車の音さえも、まるで別の世界の出来事のように聞こえる。
沈黙が流れる。
私は、息をすることさえ忘れていた。
――今、なんて言われたの?
心の中で繰り返すたび、意味だけが静かに広がっていく。
“今まで何人もいた”
それはつまり、彼が他の誰かにも、同じように微笑み、同じように優しくしていたということ。
胸の奥が、じんわりと冷えていくようだった。
「え……?」
「啓介には、あなたみたいに“彼の料理を食べに行く”女の子が何人かいる。そして彼は誰にでも同じように接してる。料理を振る舞って、楽しそうに会話して、相手が笑えばそれで満足する。……でもね、それは恋じゃないの」
言葉の意味は、すぐには私の中に入ってこなかった。
――何人かいる?
今、そう言った?
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。
私はカップを見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
冷めかけたカフェラテの表面に、さっきまで立っていた泡がひとつ、静かに弾ける。
まるで、その音が現実への合図のように。
心がざわめく。
“自分だけが特別”だと思っていた。
あの笑顔は、自分だけに向けられたものだと信じていた。
料理を作ってくれる時間、一緒に座ったあの距離、何気ない会話のひとつひとつ――
それらはすべて、ほんの少しの奇跡のように思っていたのに。
知らなかった事実。
いや、違う。
知ろうとしなかっただけだ。
“他にもいるかもしれない”という予感は、どこかで薄々感じていた。
けれど、その可能性を見ようとすれば、せっかくの幸せが崩れてしまう気がして、目を逸らしてきた。
視界が少しにじんだ。
窓の外では、街路樹の葉が風に揺れている。
ざわざわと音を立てるその黄色い葉が、今はやけに遠くに感じた。
璃子は黙って私を見ている。
追い打ちをかけるような口調ではない。
ただ、真実を静かに差し出すような、そのまなざしだった。
「彼にとって、それは“友情”なの。人を喜ばせたい、ただそれだけ。恋人とか、そういう関係に興味がないのよ」
「でも……そんなの、寂しくない?」
思わずこぼれた。
「誰かに好かれても、返せないなんて。そんなの、鈴木さん自身が……かわいそうだよ」
璃子は目を伏せた。
「たぶん、彼は寂しいとも思ってない。彼にとって“人を好きになる”っていう感情が、そもそもないんだから」
そのとき、混乱する私の心に、ふと疑問が浮かんだ。
「……璃子さんは、どうしてそんなにわかるの?」
璃子は一瞬だけ目を閉じた。
その表情には、どこか遠い痛みが滲んでいた。
「私もね、啓介のことが好きだったの」
その言葉に、私の呼吸が止まった。
「璃子さんが……?」
「でもね、気づいたの。どんなに想っても、彼の目の中には“恋”というものが映らないって。彼は私をとてもとても大切にしてくれた。でも、それは幼なじみとしてってだけ。それ以上には、絶対にならない。確信したときは私もつらかったわ。でもね私、愛とか恋とか返してくれないってわかっていても、そんな啓介を、今でも愛している」
彼女は、ふっと小さく笑ってから、手の中のカップに視線を落とした。
「でも、彼を好きになった人が、みんなそのことを受け入れられるわけじゃないの。想いが届かないと知ったとき、彼女たちは深く傷ついて……どうしようもなくなり、啓介を責めてしまう。そうして、啓介が傷つく――そんなことが、今までに何度もあったわ。そんな啓介を私は二度と見たくない。私は彼を守ると心に決めているの」
そして言葉を区切り、静かに息を吐いた。
淡々とした声の奥に、かすかな痛みが滲んでいた。
「だからね、美咲さん。もしあなたが啓介と“友達”として付き合うなら、私は何も言わない。むしろ歓迎する。啓介にとって、あなたはきっと良い刺激になると思うから
この前も、千春さんっていう人と話をしてきたの。年は30ちょっとくらい。一瞬見たときにわかったわ、彼女は啓介に恋愛感情を持っている、正直ちょっと警戒した。
でも、話してみれば、彼女は啓介のことを正しく理解していて、恋人として付き合うつもりはないってこともわかった。だから、彼女が啓介と友達でいるのは認めているんです」
「でも――」
そのとき璃子を取り巻く空気が変わった。
上げた視線は、柔らかさのかけらもなく、まるで敵を見据える猛獣のように真っ直ぐに私を射抜いた。
「恋愛への期待を持ち続けたまま、彼に近づくなら、私は阻止する。どんな手を使ってでも」
その声に、怒りではなく決意のような響きがあった。
“彼を守りたい”という一念。
その強さに、私は言葉を失った。




