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K’sキッチン 〜恋愛感情ゼロの美味しい料理〜  作者: pp
美咲とスズキ 第一部最終章
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美咲とスズキ1 微笑の裏側

 晩秋の午後、街路樹の葉が風に揺れる中、私はひとりゆっくりと歩いていた。冷たく澄んだ空気が頬をなで、吐く息が白く立ち上る。人々の足音や自転車のベルの音が、透明感のある空気に軽く溶けていく。


 そんな穏やかな街並みに、突然、声が差し込んだ。

「花沢美咲さんですよね」


 振り返ると、小柄な女性が立っていた。肩までの黒髪をさらりと垂らし、柔らかな光を帯びた瞳で、まるで懐かしい旧友に出会ったように微笑んでいる。いや、私にとって初対面のはずなのだが。その笑みは、人懐っこく、温かく、裏表のない素直さを感じさせた。


「え……ハイ、そうですけど」

 思わず口ごもった私に、女性は少しももたつかずに続けた。


「私、幼神璃子と申します。鈴木啓介についてお話がしたいのですが、よろしいですか」


 鈴木さんの話と聞いて、ドキリとした。

 璃子の声の調子は、あくまで許可を求めるように柔らかい。だが、その目は鋭く、無言の圧力を帯びている。言葉の向こうに、問いに対する拒否の余地はない、とでも言いたげな意思が透けて見える。


 私はしばらく迷ったが、言葉を返すより早く頷くしかなかった。

「……わかりました。じゃあ、喫茶店でお話しましょう」


 二人は、少し離れた喫茶店へと歩みを進めた。

 手袋の指先をぎゅっと握りしめながら、心臓が少し早鐘を打つのを感じた。何か、予想もしない展開が待っている気配があった。


喫茶店に入ると、暖かい空気とコーヒーの香りにほっと息をついた。璃子は椅子に静かに腰を下ろし、私を見やる。その視線は変わらずまっすぐで、少しも揺らがない。


私は自然と目を細め、彼女を観察せずにはいられなかった。小柄な体つきは華奢で、手や膝の置き方ひとつに無駄がなく、見ているだけで計算されたような美しさを感じさせる。その微笑みは軟らかいが、その下に潜む鋭さが見え隠れし、胸の奥を軽くざわつかせる。


呼吸を整えようとするが、自然と肩に力が入る。指先はテーブルの縁に触れたまま微かに震え、耳に届くカップの音や周囲のささやきが、急に大きく響くように感じられた。まるで、静かな表情の奥に潜む何かに、心を読まれそうな気配がする。


私は自分の視線をそらそうとしたが、璃子の瞳からは目が離せない。視線を交わすたび、じわりと背筋に冷たい感覚が走る。まだ会話は始まっていないのに、なぜか心がざわつく。この人は、ただ話を聞きたいだけじゃない――何かを見抜こうとしている。私は無意識に、自分の言葉や表情を慎重に選ばなければ、と身構えるのだった。



「私、啓介とは幼なじみなんです」


 最初の言葉は、彼女自身の自己紹介と、鈴木さんとの関係の説明だった。その一言で、私の心は軽くなるどころか、少し緊張した。どれほどの情報を知っているのか。

 璃子はゆっくりと頷き、さらに口を開く。

「美咲さん、この前、啓介と釣りに行ったんですよね」


 私は一瞬、目を見開いた。

「ええ、そうだけど……そんなことまで聞いたの?鈴木さんから?」


「はい、詳しくは聞いていませんが、釣りに行ったことは聞きました」


 その言葉に、私は戸惑いを覚えた。自分のことが知らない間に、他人に知られてしまったことへの違和感。だが、璃子は眉ひとつ動かさず、まるで自然の事実を淡々と述べるように話し続けた。


「それって、釣り堀ですよね。しかもそのとき、キャッチアンドリリースの話、されませんでした?」


 問いに、私は咄嗟に目を見開いた。たしかに釣り堀だったし、鈴木さんは大物はリリースしないといけないといっていた。

「ええ、そうだけど……」


「啓介が自然のなかでの釣りを選ばずに釣り堀で、しかも、キャッチアンドリリースの話をするとは。別に何かを匂わせているってことはないはずですが、啓介の事を的確にあらわしているようで、皮肉なものですよね」


「それってどういう意味? それよりも、なぜ、そんなことがわかるの?それも聞いたの?」

 璃子は首を振る。

「そのままの意味ですよ。私は、釣りに行ったとしか聞いていません。でも、わかるんです。啓介は、女の子と自然の中での釣りはしない。だって、私と啓介は小学6年のときに、一緒に釣りに行っていますから」


私は、その言葉に小さく息を飲む。

「釣り船で海に出たんですが、最悪でした……」

 璃子は、鈴木さんとの思い出話をとつとつと語り始めた。


――あのときのことを思い出すと、もう二度と行きたくないと心の底から誓ったほどです。

――太陽は容赦なく照りつけ、顔も腕もジリジリと焼けていく。

――風があるとはいえ、船の上は蒸し暑く、汗がすぐにシャツに染みました。

――さらに、大きな虫が飛び交い、ぱちんと手で追い払っても、次から次へと現れる。

――船酔いは酷く、波に揺られるたびに胃の奥がぎゅっと締め付けられる。

――しかも、雨が急にぱらつき、簡易トイレしかない船上では逃げ場もない。

――そんな散々な状況の中でした。

――啓介はきっとそのときの私の辛さを覚えているはず。

――あの経験があるからこそ、今の釣り堀での出来事も納得がいくのです。

――女の子が安心して楽しめる場所を選ぶだろうな……

「……という簡単な推理です」


 私は静かに頷く。幼い頃の記憶を聞き、鈴木さんの行動原理が理解できることに、少し安堵する自分を感じた。

「それも鈴木さんから聞いた話ですか」

「いいえ、言いましたよね。これは私自身の経験からです」


 その返答の意味を、すぐには咀嚼できなかった。

 “経験から”――その一言だけが、妙に引っかかる。

 けれど、何がどう引っかかっているのか、自分でもわからなかった。


 二人の会話は、表面上は穏やかだが、その奥に張りつめた緊張感がある。私は問う。

「それで……鈴木さんについて、どういうご用件ですか」


 その瞬間、璃子の表情が変わった。人なつこい微笑みは消え、一段と真剣な、冷たさを帯びた瞳で私を見据えた。

 空気がほんの少し、きゅっと引き締まる。

 喫茶店の柔らかい照明の下で、璃子の視線は冷たく、じっと見つめられているだけで少し背筋がざわつくようだった。


 私は思わず息を呑んだ。言葉に出すべきか、ただ黙って見つめ返すべきか。頭の中で考えが巡るが、答えは出ない。ただ、璃子の瞳の奥に潜む意思の強さに、心の奥がざわつく。


――この人は、ただ話を聞きたいだけではない。


 私は直感的にそう感じた。問いかける前の微笑みも、最初の柔らかい声も、すべては装いだったのだと。これから始まる会話には、戦略も計算もある。自分の本心を見透かされてしまうかもしれない。


 私はそっと息を整え、カップに残る熱いコーヒーの香りを吸い込む。外の冷たさとは違う、暖かいが緊張感を含む空気の中で、二人の時間は静かに動き出した。

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