表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
52/57

啓介と無垢な愛

啓介と無垢な愛


 啓介にとって、花はただの「植物」だった。

 色と形はわかる。香りも区別できる。だが――そこに“生の価値”を見いだすことは、できなかった。


 「花って、どうしてみんな好きなんだろうね」

 そう言って首をかしげる啓介の声には、興味でも、否定でもなく、ただ純粋な疑問だけがあった。

 ロマンチックな気分になれないというより、そもそも“実感”がないのだ。


 花は、誰かに見せるために咲く。

 誘い、触れ、命を渡しあうために咲く。

 その“目的”が、啓介にはどうしても遠くの出来事のように思えた。


 中学の頃、男子同士で盛り上がる話題にも加わらなかった。

 「男ってさ、そういうもんだろ?」と肩を叩かれても、啓介にはピンとこなかった。

 代わりに、淡々と理屈を返す。

「脳内物質のドーパミンとテストステロンの話だよね。……生物的な反応で説明できることじゃないの?」

 その瞬間、笑いが引き、空気が静まる……

 啓介は、その瞬間の教室の空気が理科室のように冷え込むのを、不思議そうに眺めていた。


 彼にとって“性”とは、衝動でも欲望でもなく、ただの生理的現象。

 教科書の中の一項目にすぎない。


 花を見ても、まず理屈が先に立つ。

「繁殖戦略として理にかなっている」――そう思う。

 だが、そこで終わってしまう。

 美しさを“情熱”に変換する回路が、どこかで断線しているのだ。


 そんな啓介が、なぜ人のために料理を作るのか。

 なぜ、恋愛感情をまったく抜きにしても、誰かの「おいしい」の一言に微笑むのか。


 ――それは彼の“愛”が、形のない場所に咲いているからだ。



 そんな啓介にも――心を動かされたものがあった。


 それは、ある春の日、北陸の日本庭園を訪れたときのことだった。

 友人に誘われ、半ば気乗りしないままついていったその庭には、広大な池と、手入れの行き届いた松の木々が並んでいた。

 枝ぶりはどれも見事で、緑の影が静かに水面を揺らしている。


 枝の一本一本が計算されたように伸び、幹の曲がり方までもが、まるで誰かの意志で形づくられたかのようだった。

 風雪に耐え、枝を折られ、それでも新しい芽を伸ばしてきた結果が、いま目の前にある姿なのだと知ったとき、啓介の胸の奥に、これまでにない感情が生まれた。


 ――この松は、生きてきた時間をそのまま“形”にしている。


 幹の皺も、ねじれも、欠けた枝も、そのまま“生”の記録だった。

 それは人が装飾する花とは違う。咲く瞬間にすべてを燃やし尽くす命ではなく、ただ生き延びることそのものが、彼の中では“美”そのものであった。


 その姿に、啓介は言葉を失った。

 「……すごいな。あの姿には“意志”を感じる。生きてきた時間が、枝や幹に刻まれているみたいだ。まるで巨大な盆栽のようだ。」

 傍らの友人が笑って、「盆栽って言うなよ」と返したが、啓介の目は真剣だった。


 あの松は、ただ“生きてきた”のだ。

 誰かに見せるためでも、評価されるためでもない。

 風を受け、雪に押され、日差しに焼かれながら、それでも幹を太くし、枝を広げてきた。

 その生の積み重ねが、何よりも雄弁だった。


 そのとき、彼は初めて“命の美しさ”というものを実感したのかもしれない。

 花のように一瞬で咲き、散る儚さではなく――

 時間を内に抱き、長い歳月を生き抜くことで形を得る尊さ。


 それは、彼自身のあり方ともどこか重なっていた。

 一人を強く愛することも、燃えるような情熱に突き動かされることも理解できない。

 けれど、確かに誰かの笑顔を支え、少しずつ日々を積み重ねていく。

 啓介は、その松の前に立ちながら、自分の中の何かが静かに呼吸を始めるのを感じていた。


 ――花のように散ることはなくても、長く生きることで美しくなれるのかもしれない。


 この感覚が、後の啓介にとって、料理を作る意味を少しだけ変えた。

 それから啓介の料理には、あの松のような静かな“時間”の温度が、ほんのりと宿るようになっていった。




 あの日、そんな思いを語る啓介に――「あなたも、育ててみたら?」と千春が言ったのは、冗談半分の一言だった。

 それがまさか、彼の生活の一部になるとは、千春自身も思っていなかっただろう。


 「何十年かしたら……千春さん、見てくれますか?」

 そう言ったとき、千春は一瞬だけ、何か言いかけてやめた。

 千春の表情は柔らかかったが、かすかな切なさが混じっていたことに、啓介は気付くことはなかった。


 盆栽が“立派になる”その何十年後に、一緒に見てほしい――その言葉がどんな意味を持つのか。

 それが遠い未来を共に過ごしたいという願いを含む――ほとんど“プロポーズ”に等しい言葉だとは、啓介は気づいていなかった。


 周囲の人間と違い、彼にとって時間とは、誰かと共有するものではなく、静かに積み重ねていくものだった。

 彼が感じる“愛”は、情熱ではなく、忍耐の形をしている。


 それから啓介は、小さな鉢で松を種から育てた。

 種は園芸店では売っていなかったので、松ぼっくりから採取した。

 最初は、ただの観察対象だった。

 水をやり、陽に当て、乾燥しすぎないよう気を配る。その単純な行為の中に、啓介はなぜか静かな安心を見出した。

 生きものを愛でるのではなく、その“時間”を見守ること――それこそが、美の形だと思うようになった。


 朝、霧吹きで鉢の土を軽く湿らせる。

 日光の量、風通しなど居心地のよい環境を用意する。

 根の張り具合を確かめ、少しずつ鉢を替える。

 そのひとつひとつに、淡々とした優しさが宿っている。

 その成長の遅さが、彼には心地よかった。


 その枝の伸び、土の湿り、すべてが息づくかのように――盆栽が静かに呼吸している。


 そんな錯覚すら覚えるほど、啓介はその小さな命を見守った。

 花のように一瞬で咲くこともない。

 恋のように燃え上がることもない。

 ただ、季節を越え、少しずつ枝を伸ばし、根を張らせ、幹を太らせていく。


 その過程が、啓介にはたまらなく愛おしかった。

 「育てる」という行為に、彼は“時間と共にある幸福”を見ていたのだ。


 恋愛の意味は、相変わらず啓介の理解を超えていた。

 けれど――愛情に似た忍耐を、誰よりも誠実に続けている。

 それが、啓介という人間だった。


 千春がその意味に気づいていることも、啓介がまったく気づいていないことも――

 きっと、鉢の中でゆっくりと時を刻むあの松だけが、静かに見守っている。

 まるで彼の“知らない愛”の形を知っているかのように、――静かに、変わらぬ呼吸のままで。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ