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千春とほおるもん

 鉄板の上で、油がはぜる音がした。

 そのたびに、焦げた味噌と脂の香りが部屋いっぱいに広がる。

 狭いはずのアパートのキッチンが、まるで別の世界みたいに温かく見えた。

 小さな蛍光灯の光が、湯気に霞んでやわらかく滲んでいる。


「これ、ちょっと焦げてるけど、うまいんです」

 啓介が、菜箸でホルモンをひと切れ皿に移す。

 その手つきは、いつも通り穏やかで、迷いがなかった。

 手首の動きまでが、どこか音楽的に見える。

 火の前に立つ啓介の姿は、どうしてこんなにも美しいのだろう。


 ひと口、口に運ぶ。

 噛むたびに、味噌の甘みと内臓特有の深いコクが滲み出てくる。

 歯ごたえがあって、ほんの少し苦味もある。

 でも、その苦味が、かえって懐かしい。

 舌の上に残る“生きもの”の気配――それが、私の知らない土地の、素朴な生活の温度を連れてきた。


「これ、猟師さんの手伝いでもらったんだって?」

「はい。狩りのあと、イノシシの解体を手伝ったら、あげるって言われたんです。その人は腸とか捨てることも多いからって」

「捨てる……のに、こんなに美味しいの?」

「大阪じゃ“ほおるもん”って言うんだって言ってました。“ほおる”は“捨てる”って意味。ダジャレみたいなものらしいですけどね」

 そう言って笑う彼の声が、いつもより少し柔らかかった。


 “捨てるもの”。

 なのに、こんなに滋味深い。

 その言葉の響きが、ふっと胸の奥をくすぐる。

 私は箸を止め、湯気の向こうを見つめた。


 啓介が台所のほうで次の皿を準備している。

 油のはぜる音、湯気、調味料の香り――

 そのすべてが、どこか遠い記憶を呼び覚ます。


――あの夏。

 曾祖母の家で、ご馳走になったメロンのことを思い出す。

 後で知った話だが、曾祖母と言っても血のつながりはなく、実は曾祖父の後妻だった。

 けれど、私にとっては、優しくて不思議なほど静かな笑顔の大好きな“おばあちゃん”だった。


 みんなが果肉を頬ばっていたとき、曾祖母だけは、種のまわりをスプーンで掬っていた。


「私は昔からこれが好きなんだよね」

 そう言って、笑っていた。


 そんなに美味しいのだろうかと、子どもだった私は真似をしてみた。

 香りはある。甘みもある。けれど、ジュルッとした食感と種の異物感が、どうにも馴染まない。

 父が笑いながら言った。

「それは捨てるところだよ」

 でも、曾祖母はゆっくりと噛みしめていた。

 まるで、何かを確かめるように。


――今になって思う。

 あれは、私たちに果肉を譲るための方便だったのかもしれない。


 曾祖母は、みんなが嬉しそうに食べる顔を見ているときが、いちばん幸せそうだった。

 自分が食べるより、みんなが笑っている方が、きっと幸せだと信じていたのかもしれない。

 その根底には、彼女の容姿が関わっていたことは想像に難くない。

 具体的に言うつもりは毛頭ないが、それは、確実に彼女の人生に暗い影を落としていた。

 人に喜んでもらうことの中にしか、自分を許せる場所を見つけられなかったのかもしれない。

 だから、自分は残りの部分を「好きだ」と言い、人が美味しそうにしていることを、なによりのご馳走にしていたのだ。


 そのとき感じた小さな違和感が、今ようやく言葉になる。

 “もったいない”という気持ちの奥には、きっと“自分よりも、あなたに”という、世間の価値から少し離れた、静かで切実な祈りがあるのだと思う。

 大好きだった曾祖母の記憶。



 私は鉄板の向こうで、忙しそうに動く啓介の背中を見た。

 あのときの曾祖母と、同じ温度の背中だった。

 料理が好きな人の動きには、祈りのような静けさがある。

 自分のためではなく、誰かの満足を想像している人の手つき。


「千春さん、これ、うどん入れていい?」

「うどん……? はい」

「最後に絡めるんです。肉と味噌のうまみが、もったいないから」


 ――もったいない。

 その言葉に、また胸がきゅっと締めつけられる。

 曾祖母もきっと、そう思っていた。

 自分には不釣り合いでも、誰かのためなら生かせる。

 そう信じていた。


 やがて、うどんが鉄板の上に落とされる。

 味噌と油を吸い込みながら、ふつふつと音を立てる。

 湯気の向こうで、啓介の指先が光を受けて淡く照っていた。

 その動きを見ていると、不思議と心が落ち着いていく。


「……本当に、なんでも美味しくしてしまうのね」

「手間をかければ、たいていのもんは美味しくなりますね」

「でも、その“手間”をかけるのが難しいのよね」

「好きじゃなきゃね」


 “好き”。

 その言葉が、胸の中でゆっくりと溶けていく。

 “好き”って、料理のこと? それとも――。

 啓介のことは、よくわかっている。

 彼は、食材や料理のことを言っていて、その他の意図はないはず。

 けれど、なぜか心臓の奥が、かすかに熱を帯びた。


 うどんを口に運ぶ。

 味噌の甘辛さが舌に広がり、歯の裏に少しだけ焦げの苦味が残る。

 その小さな苦味が、不思議と涙腺を刺激した。


「おいしい?」

「……はい。なんか、懐かしい味だわ」

「懐かしい?」

「うまく言えないけど……“誰かが自分のために作ってくれた味”みたいで」


 啓介は箸を止め、ほんの少しだけ笑った。

「それなら、成功ですね」


 その笑顔を見た瞬間、胸の奥でなにかが静かにほどけた。

 この人は、きっと――曾祖母と同じ種類の優しさを持っている。

 見返りを求めず、ただ“誰かが笑っている”ことを喜ぶ人。


 私は、そんな優しさを長いあいだ忘れていた。

 効率とか、成果とか、そういう言葉に追われるうちに、

 “無駄な手間”を避けることが、いつしか正しさになっていた。


 でも、本当にそうだろうか?

 人の心を満たすのは、たぶん“効率”の反対側にあるものだ。

 誰かのために時間を使うこと。

 見えないところで、手をかけること。

 その“手間”こそが、ぬくもりの正体なんだと思えた。


「人間、うまいとこばっかり食ってると、心が痩せるって、昔ばあちゃんが言ってました」

 啓介がぽつりと呟いた。

 その声が、油のはぜる音に混じって、柔らかく耳に届く。


「……それ、いい言葉ね」

「以前なら意味わからなかったけど。今は、ちょっとだけわかる気がします」


 私も、わかる気がした。

 苦味のあるものを食べてこそ、甘さがわかる。

 捨てられるはずのものを拾ってこそ、命の重みがわかる。


――“ほおるもん”。

 捨てるもの、なんて呼ばれているけれど。

 本当は、誰かが拾ってくれるから、そこに温かさが生まれる。


 曾祖母がそうしてくれたように。

 そして、いま啓介が、私にしてくれているように。


 食べ終わったあと、湯気の残る鉄板を見つめながら、私は小さく息を吐いた。

 外は冷たい夜風。けれど部屋の中は、まだ温かかった。

 その温かさの理由を、もう説明する必要もない気がした。


 啓介が片づけを始める音が、静かに響く。

 私は湯呑みを両手で包みながら、目を閉じた。

 湯気の残り香の中に、味噌と脂の匂いが溶けている。

 思い出の中の曾祖母と、いま隣にいる彼の姿が、ゆっくりと重なっていった。


 ――捨てられるものなんて、本当は、どこにもない。

 心のどこかで、そう呟いた。

 そして、鉄板の向こうに立つ彼の背中を見ながら、

 その言葉を、もう一度噛みしめた。

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