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美咲とニジマス4 明日からもこんなふうに

 最終的に、私は10匹のニジマスを釣ることができた。

 初めて触れたあの小さな魚から始まり、少しずつコツをつかみ、手に伝わる感触にも慣れてきた頃には、もう夢中になって糸を垂らしていた。

 水面に反射する曇り空の光、池の端で泳ぐニジマスたちの小さな波紋、遠くから漂う焼きそばの甘く香ばしい香り……あらゆる感覚が重なり、現実の世界がまるで優しい舞台のように感じられた。


 釣ったニジマスは、その場で串に刺され、塩をふられて炭火で焼かれる。

 じゅうっと小さな音を立てると、香ばしい匂いがふわりと立ち上り、視界の端でゆらゆら揺れる煙が、私の胸まで温めてくれるようだった。

 周囲では家族連れの子どもたちが楽しそうにしている笑い声も混ざってくる。

 それでも、私の意識は完全に、焼かれるニジマスの香りに集中していた。


 焼き上がったニジマスを目の前にした瞬間、私は言い知れぬ感動を覚えた。

 自分の手で釣った魚が、こうして食べられる形になる――想像以上の達成感と幸福感が胸いっぱいに広がる。

 塩をふられた皮は光を反射し、ほんのり焦げた香ばしい香りが鼻をくすぐる。

 はて、どうやって食べればいいのだろう――目の前の鈴木さんをちらりと見ると、彼は迷いなく背中からかぶりついている。

 皮がパリッと音を立て、身がほろほろと崩れていく。

――なるほど、こうやって食べるのか。


 思わず真似をして、私もそのままかぶりついた。

 口に入ると同時に、皮の香ばしさとパリッとした感触が広がる。

 身はふんわりとほぐれ、塩気と共に淡泊で優しい魚の味が口いっぱいに広がった。

 美味しい――思わず小さく声にならない感嘆を漏らす。

 自然と笑みがこぼれ、しばし無言で味わう。


 釣った魚をその場で食べる――こんなに贅沢で、心が満たされる体験があるだろうか。

 夢中で次の一口を運ぶたびに、胸の奥が小さく震える。

 口の中でほぐれる身の感触、炭火の香ばしさ、塩の微かな刺激――口の中すべてで味わう喜びが、私を満たしていく。


 思わず目を閉じる。

 その瞬間、周囲の世界が消え、ただ魚と自分の味覚だけが存在しているようだった。

 手に伝わる魚の重み、ぴくぴく動く感触に心臓が高鳴り、そういった記憶の中で、口の中に広がる淡泊で優しい味に心が満たされる。

 釣る楽しさと食べる喜びが、あっという間に私を包み込み、心の中に小さな幸福をぎゅっと蓄えてくれた。


 気づけば、私は夢中になって食べてしまっていた。

 小さな釣り堀デート――曇り空、人工的な池、周囲に漂うバーベキューの匂い、子どもたちの笑い声――

 そんな“現実”も、釣る楽しさと食べる喜びの前には霞んでしまう。

 魚の重みを感じ、口に広がる味に心が満たされる。

 釣り堀という小さな世界が、私にとって完璧な舞台になった瞬間だった。


――思い描いていた“青空の湖”はなくても、今ここにある、この瞬間だけで、十分すぎるほど楽しいデートだった。

 皮の香ばしい感触、身のほろほろと崩れる音、塩の香り、炭火の熱、魚のぴくぴくした感触――五感がすべて刺激されるこの体験によって、私にとって忘れられない特別な一日になった。




 帰りの道、夕暮れの光が街路樹の間からやわらかく差し込む中、私はそっと鈴木さんに声をかけた。

「今日はありがとうございました。本当は、湖とか川の上流とか、海での釣りを想像していたんです。でも……釣り堀だったので、最初はちょっとがっかりしてしまって……」


 言いかけて、少し照れくさくなる。口元が緩むのを感じながらも、思い切って続けた。

「でも、実際にやってみたら、本当にすごく楽しくて、とっても良かったです。鈴木さんのおかげです。今日は、ありがとうございました」


 言い終わると、自然と口の端に笑みが浮かぶのを自分でも感じた。指先や胸の奥が、ほんのり温かくなる。

 鈴木さんは少し微笑み、落ち着いた声で返す。

「喜んでもらえてよかったよ」


 その穏やかな笑顔に、私はまた少し胸がきゅんとした。

「自然の中での釣りももちろんいいんだけど、実はハードルが高いんだよね」と、彼は続ける。

「暑かったり寒かったり、場合によっては雨が降ることもある。手や服は汚れるし、でっかい虫もいる、トイレだってない。女の子が行って後悔することも、結構あるんだ」


 私はうなずきながら聞いた。なるほど、ただ“自然の中で釣ること”が楽しいだけじゃなく、いろんなリスクや不便さがあるのか、と腑に落ちる。

「しかも、頑張っても全然釣れないことも珍しくないんだよ」

 少し俯いて話す鈴木さんの表情は、淡々としているけれど誠実さがにじんでいた。

「でも、ここならそういう不安も少ないし、何より全く釣れない可能性も低くなる」


 今日の釣り堀は偶然じゃなく、私が楽しめるように考えてくれた結果だったんだ――胸の奥がじんわりと温かくなる。


 今日、私が初めて釣ったニジマスの重み。

 竿がググッと引かれた瞬間の心臓の高鳴り。

「大丈夫、持っててあげる」――思わず耳まで熱くなる言葉。

 手を添えてくれる鈴木さんの指先の温もり。

 魚が水面に出てくる瞬間、思わず笑いが止まらなくなったこと。

 私が大騒ぎしている間も、鈴木さんは淡々と、でも確実に支えてくれていた。


 釣った魚をその場で串に刺して塩焼きにしたときの香り。

 皮がパリッとして、身がホロッとほぐれる食感。口の中いっぱいに広がる淡泊で優しい味。

 思わず夢中になって食べてしまったあの瞬間――釣る楽しさと食べる喜びが、互いに絡み合って心を満たしていた。


 夕暮れの街路を歩きながら、私は足元の影に目を落とす。

 鈴木さんは横で、何気ない足取りで歩いているだけなのに、その背中に安心感を覚え、心の奥で小さくほっと息をつく。


「そうか……自然の中での釣りは、やっぱり大変なんですね。今日は、私が楽しめるように考えてくれて、ありがとうございます」

 鈴木さんは少し笑い、少し肩をすくめて言った。

「僕としては、ただ楽しく釣ってもらえればいいだけだから。難しいことは考えなくていいんだよ」


 その言葉に、胸の奥がふわっと軽くなる。

 ただ楽しむだけでいい――そう思える瞬間が、こんなにも安心で温かいなんて。


 曇り空の下での小さな釣り堀デート――予想とは違ったけれど、確かに心に残る、温かくて幸せな一日だった。

 今日のすべてが私の中で鮮やかに息づいている。


「また、機会があれば……」

 言葉にならない思いを胸に秘めつつ、私は自然と笑顔になった。

 今日という日が、私にとって特別な思い出として、ずっと残ることを感じながら、ゆっくりと歩を進める。

 遠くに見える街灯が次々とオレンジ色に灯り、沈みかけの夕陽が建物の隙間に柔らかく差し込み、今日の思い出をさらに優しく包み込む。


 心の奥で、そっとつぶやいた。

――ああ、今日は本当に、楽しかった。


 後日、その日食べなかったニジマスは、鈴木さんが、干物と燻製とルイベにして、別の日にご馳走になったのだった。

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