美咲とニジマス3 曇り空の下の小さな青空
鈴木さんは、自分の竿を軽やかに持ち上げると、長年慣れた手つきで糸を投げた。
ぴん、と空気を切るかすかな音がして、仕掛けは水面にすーっと落ちていく。
水面に軽く着水した瞬間、わずかに立つ波紋が、すぐに静かな輪に変わる。
その動作の中で垣間見える鈴木さんの横顔には、いつもの穏やかさとは異なる、ほんの少しの集中の気配があった。
目の奥が光を帯び、指先の微妙な動きに力が籠る。
日常の穏やかな彼とは違う、一瞬だけの戦闘モードのような空気。けれど、鋭すぎず、あくまで静かで優雅な緊張感が漂う。
その様子を横目で見ながら、私は思わず息を呑んだ。
(……すごい、同じ人でも、こんなに違う表情があるんだ)
見よう見まねで、私も竿を構えて糸を垂らしてみる。
呼吸を整え、指先に少し力を込め、心の中で小さな声をかけながら――えいっ、と糸を放った。
しかし、思ったほどの勢いはなく、餌は目の前の水面にぽちゃん、と落ちるだけだった。
水面は軽く波紋を描くものの、すぐに元の静けさに戻っていく。
(……なんか、全然、決まらない)
苛立ちでもなく、むしろちょっとした戸惑いの感覚が胸に広がる。
釣り竿を握る手は緊張で少し汗ばんでいるのに、結果は水面に消え、虚空を突いているだけのようだ。
体勢を整え、腰を少し前に倒して視線を水面に落とす。浮きは静かに漂い、風も波もない水面は、まるで止まった鏡のようだった。
そこに映る自分の顔は少し赤らみ、期待と不安が混ざり合っている。
(……これ、やっぱり釣りって、待つ時間があるんだ)
当たり前のことなのに、今さら思い出す。
糸を垂らした瞬間から、水面に反応があるわけではなく、忍耐の時間が流れていることを体感する。
……しかし、待てど暮らせど、浮きは微動だにしない。反応はゼロ。
(魚、ほんとに釣れるのかな……)
心の中で小さな不安が膨らむ。
水の底でじっとしている魚の気配を想像するが、目に見えるものは、ただ静かな水面だけだ。
波紋が立たない水は、まるで息をひそめて待つ私を見透かすように、微動だにせずに存在している。
隣を見れば、鈴木さんは静かに糸を見つめている。口元はわずかに引き締まり、眉間に軽い影が落ちている。
けれど彼は一言も発せず、指先の微かな動きだけで糸の緊張を感じ取り、視線だけで状況を把握しているようだった。
その背中から伝わる穏やかな空気が、妙に安心感を与えるのも確かだった。
時間だけが、ゆっくりと流れていく。
循環ポンプの唸る音や、周囲で子どもたちが笑い声、バーベキューの匂いが漂っているにもかかわらず、視界の中心には水面と糸、そして竿を握る自分だけが存在する。
やがて、私はそっとため息をついた。小さな音が水面に吸い込まれる。
肩の力を抜き、竿を軽く支え直す。
心臓はまだ少し早鐘を打っているけれど、それ以上に、待つことの静かさが心を落ち着かせる。
糸の先にある見えない世界を想像し、少しずつ自分の呼吸を水面と合わせていく。
(……焦らなくてもいい、きっと、魚は来る)
そう小さく心の中でつぶやき、じっと浮きを見つめ続ける。
時間はゆっくり、けれど確かに流れていく。
水面に映る自分の姿を見つめながら、静かに息を整え、次の瞬間に起こる小さな奇跡を待つ。
手に伝わる竿の重み、糸の微かな張り、空気の重みすらも、すべてが釣りという体験の一部であることを、静かな時間が少しずつ私に教えてくれるのだった。
――そんなことを考えていた、まさに次の瞬間だった。
水面が、ピチッ、と跳ねた。
「ギョ!?」
思わず声が出る。体が反射的に竿に力を込める。
ググッ――竿先に伝わる手応えは、これまでの不安や緊張を一瞬で吹き飛ばす、確かな重みだった。
水の中で何かが暴れる感触が、まさに生き物そのものの意思を私に伝えてくるように、ずっしりと手に伝わる。
(……え、釣れた!? 本当に!?)
パイプ椅子に座ったままの体が、思わず前のめりになる。
水面に揺れる浮きは、まるで私の心臓とシンクロするように跳ねているのだった。
(……落ち着け、落ち着けって……でも落ち着けない!)
心の中で叫ぶ私をよそに、鈴木さんは普段通りの柔らかい表情を浮かべながらも、手はさりげなく私の竿に添え、角度を調整してくれる。
手に触れる彼の指先から伝わるわずかな温もりに、胸がぎゅっと締め付けられ、自然と顔が熱くなる。
(……ドキドキが止まらない……!)
その瞬間、魚が水面に顔を出す。
銀色に光る体が、水面の光を反射してピカリと光った瞬間、笑いがこみ上げてくる。
(釣れた! すごい! あたし、釣った! しかも、鈴木さんが手伝ってくれた! いや、鈴木さんいなきゃ絶対無理だけど!)
浮きの揺れに合わせて手元の竿を動かし、少しずつ魚を引き寄せる。
手に伝わる振動と重みの間で、思わず息をのむ。
全身が緊張で固まりながらも、心は喜びで震えている。
そして、魚を取り上げる瞬間、思わず一歩後ずさる。
「ギョギョ! うわぁ、触れない! でも、もう誰かの手が出てる……!?」
鈴木さんは、静かに、しかし的確に手を添えて魚を持ち上げ、私の手元にそっと渡す。
「ほら、こうすれば大丈夫」
……ああ、これだ。
私が必死でドタバタしている間、彼はそれこそ普通に釣りを楽しんでいるかのように振る舞い、さりげなくサポートしてくれる。
無駄な力は入れず、必要な手だけを差し伸べるその姿が、何というか……かっこよすぎる。
水面から上がったニジマスを前に、思わず胸が高鳴る。
手の中で魚がぴくりと動くたびに、心臓もぴくりと反応する。
ムードもないような釣り堀で、まさかこんなに心が躍るとは思わなかった。
(……やっぱり、鈴木さんってすごい。すべてが自然に、楽しくなるんだ)
魚と竿と、そして鈴木さん。
心の中で小さく叫ぶ。
(なんで、こんなに冷静なのに、どうしてこんなにカッコいいの!)
あっという間に、落胆していた気持ちはどこかへ吹き飛んだ。
「私まだ心臓がバクバクいっている。……心臓まで釣れた気がする」
「じゃあ今日は大漁だね」
二人して顔を見合わせ、思わず吹き出した。
笑いながら、竿を持つ手が震えて、糸がまた水面にちゃぽんと落ちる。
その音さえおかしくて、また笑ってしまう。
周りの子どもたちに負けないくらい、声をあげて笑ったのなんて、いつぶりだろう。
そんなやりとりが、とても心地良かった。
(……楽しい。最高に楽しい。やっぱり、鈴木さんと一緒なら、どこでも幸せになれるんだ)
魚より先に、私の心が釣り上げられてしまったのかもしれない。
私は満面の笑みを浮かべた。
魚の重み、手元に伝わる震え、跳ねる水面、そして隣で静かに手を添えてくれる彼の存在――すべてが私の心を満たす宝物のように感じられた。
気づけば、釣り堀の時間はあっという間に過ぎていた。
最初は手のひらで跳ねていた魚も、鈴木さんのさりげないサポートのおかげで、少しずつ自分で扱えるようになった。
緊張と笑いが交錯する中で、釣れるたびに心臓がドキドキし、手元が震える。
それでも、釣り上げた瞬間の歓喜は何度味わっても飽きることはなかった。
その一匹一匹が、私にとってかけがえのない思い出となり、笑顔をつなぐひとときとなった。
曇り空の下、焼きそばの匂い、子どもたちの笑い声、揺れる浮き、跳ねる魚――すべてが、私にとっての“小さな青空”になったのだった。




