美咲とニジマス2 パイプ椅子の上の恋
――と、まあ。そんなキラキラした想像をしていたのだが、実際に来てみたら、目の前に広がっていたのは、想像とはあまりにもかけ離れた光景だった。
パイプ椅子がずらりと並び、貸し竿は年季の入った古いものばかり。グリップのテープはほつれ、先端はわずかに曲がり、どこか現実感を強める。
見渡せば、同じような椅子に腰かけた人たちが、黙々と水面を見つめていた。
水面を覗けば、沈んだ影がじっとしている。ニジマスらしいその魚は、底の砂利に体をひそめ、ほとんど動かない。生命の輝き……というよりも、静かな緊張感すらなく、静止したオブジェのようだ。
(……これ、本当に“釣り”って言っていいんだろうか)
小さな疑問が頭をよぎる。しかし、そんな考えも意味はないのだ。いや、思うのは仕方ない。
けれど、ここで不機嫌になってしまうのは子どもっぽい。だって、せっかく鈴木さんが連れてきてくれたのだ。
――“彼なりに考えてくれた結果”なのだ、と心の中で何度も繰り返す。
少しの不便や期待外れも、彼の優しさの前では取るに足らないものに思える。
――ああ、夢の釣りデートは、まだ遥か彼方。
でも、隣で静かに微笑む鈴木さんを見ていると、思わず胸の奥がじんわり温かくなる。
何もかもが完璧ではなくても、こうして二人で向き合い、同じ時間を共有できることが、少し誇らしく、嬉しい。
その現実と理想の隙間に、私の胸は小さな期待とわくわくでいっぱいになっていた。
――もしかすると、理想の景色や完璧な湖はなくても、今ここで過ごすこの時間こそが、私の心に残る“特別な日”なのかもしれない。
そして、私は小さな声でつぶやく。
「よし、楽しもう……」
現実と理想のギャップを笑顔で包み込み、今日という時間を存分に味わう覚悟を胸に、私は小さな釣り堀での一歩を踏み出したのだった。
「はい、花沢さんの分」
鈴木さんは、貸し釣り竿をそっと私の手に渡してくれた。
受け取った瞬間、思ったよりもずっしりと重い。手に伝わる冷たさは、ただの道具以上の存在感を放っていた。
まるで無言のまま、私に「本気で釣るぞ」と言っているような気がして、心臓が少し高鳴る。指先に力を込めて竿を握りしめると、その冷たさが骨の奥までじんわりと伝わり、自然と背筋がぴんと伸びる。
手に重みがあるだけで、こんなにも心が引き締まるなんて、不思議だった。
「先に言っておくけど、この釣り堀ではね、50センチ以上の大物はリリースしないといけないんだ」
「リリース、ですか?」
「うん。キャッチ・アンド・リリースっていってね、大きい魚は大切にしてあげるんだよ。だから釣り針も、“返し”のない、魚にやさしいタイプを使ってる」
「わかりました」
50センチって、どれくらいなんだろう。
でも、そんな大物、私に釣れる気がしなかった。
私の中では、小さな期待と少しの緊張が混ざり合い、手にした竿の重さがまるで心の中をあらわしている気がした。
鈴木さんはそんな私をよそに、淡々と準備を進める。
椅子の上に腰を下ろすと、手元の仕掛けを確認しながら、竿先の糸を指でつまみ、軽く引いては張り具合を確かめる。
その静けさの中に、彼の釣りへの愛情が、確かに息づいているように見えた。
「じゃあ、餌つけるね」
そう言って彼は、足元のクーラーボックスの蓋を開けた。
カチリという音とともに、ひんやりした空気がふわりと広がる。中には飲み物や保冷剤に混じって、小さなプラスチックの容器が一つ。
彼がそれを取り出した瞬間、私はなぜだか胸騒ぎを覚えた。
蓋が開き、容器の中を軽くかき回す。
そして――見た。見てしまった。
――もぞもぞ。
(……な、なんか動いた!? え? これ、虫?)
息が止まった。
茶色く細長いそれは、確かに生きている。
ちいさな体をくねらせ、容器の中で微妙に動くその姿を見て、思わず息をのむ。
……え、動いてる。え、これ、まさか――生きてる!?
まさか、これが“餌”だなんて――。
(これを……? この私が……?)
脳裏に浮かぶのは、指先でつかんで針に刺す、地獄のような光景。
小さな姿とその動きが、恐怖心と嫌悪感を同時に呼び起こす。
ぷにっとした感触、動く体、そして「ごめんね」と言いながら刺す自分。……無理。絶対無理。
恋の始まりみたいにドキドキしていた心臓が、今やホラー映画みたいにバクバクいってる!?
思わず体が後ろにのけぞり、パイプ椅子がギシッと鳴った。
鈴木さんは微動だにせず、手際よく作業を続ける。
「ちょっ、ちょっと待って鈴木さん、それって――」
半泣きで言いかけた私の声を遮るように、鈴木さんの手がすっと動いた。
滑らかな手つきで、虫をつまみ、針にきゅっと刺す。
迷いも、ためらいも、一切ない。静かで正確な手つきに、思わず目を奪われる。
鈴木さんは、刺し終えた針を軽く持ち上げ、餌の位置を確認するように光にかざした。
その横顔には、釣り人特有の静かな集中と、どこか誇らしげな落ち着きがあった。
「はい、これで完璧。あとは、ここに投げるだけ」
そう言って差し出された釣竿。思わず手を止め、目を見張る。
彼の指先は穏やかで、どこか丁寧で、まるで料理をするときの手の動きと同じだった。
小さな体ひとつひとつに気を配るその手の動きに、自然と心が吸い寄せられる。
(……鈴木さん、何もかもが自然すぎる……)
初めて触れる道具に緊張し、初めて触れる生き物にためらう私の隣で、彼は何もかも当たり前のようにこなしてしまう。
見ているだけで、焦っていた心が落ち着くと同時に、ちょっと羨ましくもなる。
こんな風に、何事も自然に、そして確実にこなせる人がいるんだ――と、胸の奥で尊敬の念が湧き上がる。
私は手にした釣竿をぎゅっと握りしめる。
冷たさが心地よく、鼓動を少し早め、そして、これから始まる釣りという未知の体験に胸を高鳴らせる。
――ああ、この瞬間から、何か特別な時間が始まるのだ。
鈴木さんが自然に微笑み、手際よく準備を整える姿を見て、私は思わず心の中でつぶやいた。
(……今日一日、きっと忘れられない時間になる)
手にした竿の重みが、ただの道具ではなく、私たちのこれからの時間をつなぐ小さな鍵のように感じられた。
小さな小さな釣り堀の一角で、私は初めて釣りに挑む勇気と、隣にいる鈴木さんの優しさを噛みしめるのだった。




