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美咲とニジマス1 彼と釣りに行く日

――空は、まるで磨き上げたガラスのように澄みきっていた。


 湖の水面は、陽射しを受けてきらきらと輝き、風が通るたびに細やかな光の粒が踊る。青と銀が溶け合うように揺れながら、遠くの山々の緑をやさしく映していた。


 美咲は帽子のつばを押さえ、風に髪をさらわれながら笑う。

 隣では、啓介が釣竿を手に、真剣な顔で糸を湖へ投げている。


 水の音、鳥の声、風の匂い――すべてがやさしく混ざり合い、世界が静かに息づいていた。時間の流れさえ、ふたりのまわりだけゆっくりに流れていく……



……はずだった。




 現実の、私、花沢美咲の目の前に広がっていたのは、人工の壁に囲まれた小さな釣り堀だった。

 湖どころか、風すらほとんど通らない。水面は落ち葉が浮いていて灰色に近く、光を反射するでもなく、ただ静かに鈍い波紋を描いている。

 空気はどこか湿っぽく、コンクリートの匂いが鼻をくすぐった。冷たく、無機質で、どこか息苦しい。ここが“自然”の釣り体験の舞台だとは、到底思えなかった。


 思わず眉をひそめる私の隣で、鈴木啓介さんはすっかり満足そうにパイプ椅子を広げていた。

「ここ、初心者でも釣りやすいんだよ」

 そう言って、背もたれの低い椅子に腰を下ろす鈴木さんは、まるで家にいるかのようにリラックスしている。

 その姿を眺めながら、私の頭の中にあったイメージは、少しずつ音を立てて崩れていった。湖の青、木々の香り、そよぐ風、きらめく水面――そういう幻想は、今ここにはなかった。


「……うん、ありがとう。すごく……整備されてるわね」

 どうにか作った笑顔は、わずかにこわばっていた。

 耳に入るのは、風のそよぐ音ではなく、ポンプの低くうなるブーンという機械音。

 水を循環させるための機械のリズムが、釣り堀全体に不自然な静けさと規則正しい低音を与えている。


――ふと、鼻をくすぐる香ばしい匂いに気づいた。

 焼きそば。

 油の焦げる香り、ソースの甘辛い香りが、風のない空気の中でふんわりと漂っている。

 その先を見やれば、鉄板の前でおじさんが無言でコテを動かしていた。額には汗、背中は黙々とした職人のよう。無言の集中が、どこか祭りの屋台を思わせる光景を作り出している。


 パイプ椅子の列の向こうでは、小学生の男の子が「釣れたー!」と叫び、家族連れが拍手する。

 水面に跳ね返る声、子どもたちの笑い声、鉄板の油が跳ねる音……ささやかな音の洪水が、午後の釣り堀ににぎやかさを添えていた。

 でもその賑やかさは、私の想像していたデート感とは正反対だった。むしろ、これは完全に“夏祭りの余韻”である。


――それでも、鈴木さんの楽しそうな姿を見ると、文句を言う気にはなれなかった。

 彼にとっては、この小さな釣り堀での安全で確実な体験こそが、相手を楽しませるベストの方法なのだろう。

 私は作り笑いをさらに強くして、心の中で小さく頷いた。

「そう、ここから始めるんですね。初心者は」

 と、自分に言い聞かせるように。


 曇り空の下、人工的な釣り堀――自然とは違うけれど、それでも、確かに今、この場所で釣りの一歩目を踏み出すことができる。

 それだけでも、心のどこかで小さな期待が芽生えた……はずだった。





――どうしてこうなったか、説明しよう。


 数日前のことだ。私は、鈴木さんの作った料理をいつものように堪能していた。

 テーブルの上には、香ばしく焼かれた魚のソテー。皮はパリッとして、身はほろほろにほぐれ、レモンとバターの香りがほんのり漂う。口に入れると、淡泊でありながら旨味が広がり、思わず目を閉じて幸せをかみしめてしまう。

――こういう瞬間が、私にとっての小さな至福だった。


「これ、どこで買ったんですか?」と、何気なく聞いた私に、鈴木さんはいつもの穏やかな笑顔で答えた。

「買ったんじゃないよ。釣ってきたんだ」


――その一言が、すべての始まりだった。


 まさか、彼が自分で釣っていたなんて。しかも、魚の種類や調理法まで理路整然と語るその姿が、妙にかっこよく見えてしまった。

 彼の言葉は柔らかく、でもひとつひとつが確かで、目の前で話す姿はまるで物語の一場面のようだった。


「……私も釣りをしてみたいな」


 気づくと、私はつい、ぼそっと口にしていた。自然に出た声に、自分でも少し驚いた。


 鈴木さんは、そのとき少し真剣な顔をして考え込んだ。

 普段は柔らかく微笑むその表情が、一瞬、沈黙に変わる。

 目線を少し落とし、静かに思案するその姿――時間が数秒止まったような感覚だった。


「ウーン……それじゃ、今度、一緒に釣りに行こうか」


 その声は穏やかでやわらかく、でも胸の奥に小さな灯をともすように響いた。

 その一言で、心の中の何かがぱっと明るくなる。

(……え、私、鈴木さんと釣り? 二人で?)


 その瞬間、頭の中で光景が一気に広がった。

 青く澄んだ空。

 湖面に反射する陽光がきらきらと揺れる。

 水面に跳ねる魚のしぶきが陽光を受けて七色に光る。

 柔らかな風が髪をなで、湖畔の草の匂いがふわりと鼻をくすぐる。

 鈴木さんが穏やかに微笑みながら釣竿を握る姿。

 私も隣で糸を垂らす。

 手元に伝わるわずかな振動に心臓がドキリと跳ね、思わず声を上げそうになる。


 想像するだけで胸が熱くなる。

 あんなに淡々と料理の話ばかりしていた彼と、まさか外で一緒に過ごすなんて。

 小説やテレビの世界を飛び出して、突然現実に物語が降りてきたような気分だった。


「はい……行きたいです!」

 思わず即答してしまう自分に、心臓がちくりと跳ねる。

 胸の奥が高鳴り、手のひらがわずかに汗ばんでいるのがわかる。



 布団に入っても、私はその光景を何度も反芻した。

 胸の奥の高鳴りは止まらず、心臓がじんわり痛いくらいに跳ねているのがわかる。

 湖のほとりで、穏やかな笑顔の鈴木さんと、魚が跳ねる瞬間の小さな歓声をあげる自分。

 想像するだけで、頬が赤くなり、呼吸が少し速くなる。


――思い描いた光景は、現実か妄想か分からないほど鮮明で、でも確かに私の心を満たしていた。

 どんな釣り場でも、どんな場所でも、鈴木さんと一緒なら、特別でキラキラした時間になるのだと、胸の奥で確信する。

 心の奥が小さな幸福で満たされ、自然と笑みがこぼれる。


 そして、私は布団の中で小さくつぶやいた。

「……楽しみ、だな」


 世界のすべてが静まり、湖面の光、そよぐ風、跳ねる魚、そして鈴木さんの微笑だけが、頭の中でゆっくりと輝いている。

 この瞬間、私は確信していた――次の一日が、きっと特別で、心に残る一日になるだろうと。

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