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太輝の生チョコレート2 恋の特訓、スイーツ地獄篇

 太輝の部屋は、普段の居心地の良さとは打って変わって、妙に張りつめた空気に包まれていた。

 机の上にはチョコレート、生クリーム、ココアパウダー、低糖質甘味料、バター、粉類。

――まるで化学実験でも始めるかのように材料が並び、見ているだけで頭がくらくらしてくる。


「よし……これで、あの笑顔を……!」

 深呼吸をし、鍋をコンロに置いた。

 胸の奥が高鳴る。手元が震え、指先に力を入れる。

 勝負はここからだ。恋の特訓、スイーツ地獄篇――開始である。


 まずは生クリームを温め、チョコレートを溶かす。

 ここまでは簡単……のはずだった。

 だが、火にかけた瞬間、鍋の中でチョコ入りの生クリームが泡立ち、突然の勢いでボコボコと音を立て始めた。

 焦げ臭さが部屋に立ちこめる。


「……えっ、これ、大丈夫?」

 慌てて鍋を揺らす。

 湯気の向こうで啓介が眉をひそめ、冷静に見下ろしていた。


「お前、火力全開でやるのは“溶かす”じゃなくて“焼く”だな」

「えっ、チョコって香ばしくなるもんじゃないの!? 香ばしさはプラスじゃないの!?」

「……普通は素材の香ばしさだ。しかもどう考えても、これは焦がしすぎだ」


 啓介の言葉に、思わず笑いそうになる。

 でも、笑ってはいけない。

 これは恋のための戦いだ。

 笑ったら負けだ、負けたら沙織さんの笑顔は遠のく。


「やれやれ、これじゃ『天使のささやき』ならぬ『悪魔のざわめき』だな」

 啓介は半分呆れ、半分楽しそうな顔でそう言う。

 思わず吹き出しそうになるが、口元を手で押さえた。

 ここで笑ったら、全ての努力が無駄になる気がする。


 焦げ茶色のチョコが鍋底にへばりつき、小さな炭の塊のようになっている。

 香ばしさなんてもはや通り越し、部屋は焦げ臭と甘い香りが混じる異様な状況。


「……これ、食べられるのかな」

「うーん、食べられなくはないが、食べると口の中が地獄になるぞ」

「……やばい、生チョコが焦げ臭いって、恋の告白以前の問題じゃん!……もう無理かも」

 そう呟いた瞬間、啓介が静かに言った。

「じゃあ、そのまま渡すのか? 落ち着け。まだ材料と時間はある。まだ何とかなる!」

 その一言が、焦げたチョコより熱く胸に残った。


 啓介は真顔でそうは言ったが、その目の奥には、どこか楽しげな光がある。

 どうやら僕のパニックを密かに楽しんでいるらしい。

 なんだ、これは作戦か? ちがう、気のせいだ、そう信じたい。

 彼は料理だけでなく、僕の不安も上手く扱ってくれるのだろう、多分。


 開け放っていた台所の窓の外、通路を歩いていた隣の女子学生となぜか視線が合う。

「あの……ケーキ焼いてるんですか?」

 思わず顔を真っ赤にして、「いや、ちょっと、違うんです……」と答える。

 穴があったら入りたいとはこのことだ。

 夜の厨房で恋の試練に挑む青年の恥ずかしさは、比喩ではなく本物である。


 それでも、諦めるわけにはいかなかった。

 あの笑顔のために、再び立ち上がった。


「なぁ、太輝、俺が代わりに作ってやろうか」

 初めは面白がっていた啓介も、あまりの下手っぷりを目の当たりにして、つい本気の提案をしてくる。


「だめだろ。自分で作ったから意味があるんだよ。啓介が作ったら、買ってきたのと同じじゃないか」

 そう言いながら、思わず首を振った。

 心の中で、小さな意地がプクッと膨らむ。

 誰よりも自分の手で、あの笑顔を作りたい。


 啓介は顎に手を当て、少し考え込むように視線を下に落とす。

「でもなぁ、まだまだ失敗する所もあるかもしれないぞ」

 その言葉は冗談めいているけれど、どこか真剣な響きがあった。


「啓介……俺、本当にやりたいんだ。失敗しても、何とかして……」

 胸の奥から、熱い想いが込み上げる。

 焦げたチョコも、粉まみれの手も、全部ひっくるめて、伝えたい気持ちがある。


「分かった。ちゃんと教えるから、落ち着け」

 その目には、微かに含まれる励ましの光。


 深く息を吸い、手元をもう一度見つめた。

 焦げそうなチョコも、飛び跳ねる生地も、失敗を恐れていた自分も、すべてここから始めるための材料だった。


 それから、啓介は優しくも厳しい目で、僕の手元を見守る。

 まずは火力を弱め、ゆっくり溶かすことから始めた。

 ヘラで丁寧に混ぜる。

 少しずつ焦げ臭さではなく、甘い香りが部屋を満たしていく。


「おお……なんとか形になってきたか」

「まだまだ! でも……ちょっと嬉しいかも」


 僕の心臓は、とろりとした質感に負けず劣らずドキドキしていた。

 混ぜる度に生地が飛び跳ね、指先につく。

 慌てて拭くも、すぐに新たな飛沫が襲いかかる。

 指先がチョコだらけになる。


「……ああ、手が真っ黒……」

「それくらい気にするな。お前、指なめたら完全にアウトだぞ」

「わかってる、でも……我慢できない!」


 しかし安心も束の間。

 次は型に流し込む作業。

 勢いよく流しすぎると、生地があふれ出す恐れがある。

 案の定、少し勢いをつけすぎ、テーブルにこぼしてしまった。


「やばい、これ、絶対に失敗……!」

「これくらいはリカバリーできる。」


 部屋に笑いがこだまし、再び手を震わせながらヘラを握る。

 だが、少しずつ艶のある生地が滑らかになり、形が整っていくのがわかる。

 やっと光が見えてきた――。



 次の工程は冷蔵庫での冷却。

 型に流し込んだ生地をラップで覆い、冷蔵庫へ。待つのは苦行だ。


 冷蔵庫の中で生地が固まり始める。甘い香りが広がるように感じる。

 僕は鼻をすりすりさせ、思わず目を閉じて深呼吸する。

「……もしかして、告白もうまくいくかも」

 啓介は静かにうなずいた。

「失敗しても、気持ちは伝わる」

 その言葉に、胸が熱くなる。

 そうだ、料理は結果だけじゃない。こ

 こに込めた気持ちを、沙織さんに伝えたい――その一心だ。



「次はココアパウダーだな……豪快に入れすぎるなよ」

 袋を開けると、ふわりと粉が宙に舞った。

 光に照らされ、舞う粉はまるで雪のよう――幻想的、と一瞬思うも、すぐに現実が襲いかかる。


「……これ、どれくらい入れればいいんだ?」

「振りかけるぐらいだよ。豪快に入れるなよ」


 心の中で「わかった!」と叫ぶ。

 だが、つい勢いよくドバッと振りかけてしまう。

 粉が宙に舞い、目の前が一瞬霞む。

 咳き込む。


「ちょ、ちょっと待って! チョコが粉の中に消えた!?」

「消えてなくなったわけではないが、迫力はある。手ごわいな……」


 啓介は冷静で、だけどどこか楽しげに大騒ぎを眺めている。

 煙も香りも、心臓の高鳴りも、すべてが混ざり合い、まるで甘くて少し苦い異次元空間だ。



 そして、ようやく形のある生チョコが完成した。

 焦げの痕跡はほとんど見えず、見た目もなんとか及第点。


 そのうちの一つを、恐る恐る口に運んだ。

……次の瞬間、思わず目を見開いた。


 見た目は確かに不格好だった。

 舌に触れた瞬間、焦げの苦味が先に来る。

 けれど、その奥からじわりと甘みが滲み出す。

 まるで、未熟さごと受け入れてくれるような味だった。


――美味い。

 そう確信したとき、体の奥底から熱いものがこみ上げてきた。


 「これは失敗作じゃない。ちゃんと、誰かのために作った味になったんだ」


 達成感で全身がぐったりしながらも、心臓は熱く高鳴り続けていた。


 焦げた鍋も、散らかった台所も、すべてはこのため――あの笑顔を見るための試練だったのだ。



 深夜のキッチンに漂う甘くて少し苦い香りと、高鳴る胸。

 これこそが、恋の特訓の報酬なのかもしれない。

 そして思った――次はもっと上手くなる、と。

 沙織さんの笑顔を守るため、焦げることも、粉だらけになることも、すべて受け入れる覚悟を。


 太輝は息を整え、包み紙で生チョコを丁寧に包む。

 明日の昼、食堂で沙織さんに渡すために。

 手が震えるのは、緊張と期待、そして少しの恐れが入り混じっているからだ。


 こうして、太輝の甘くて少し苦い、笑いあり焦りありの恋のスイーツ地獄は、夜更けまで続いたのだった。

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