太輝の生チョコレート1 一目惚れは甘い声の後に
僕は太輝、大学三年生。今日もいつものように、食堂のざわめきの中で昼食を取ろうとしていた。
昼休みの食堂は、まるでひとつの生き物みたいに息づいている。
トレーを手にした学生たちが行き交い、笑い声や箸の音、スープの湯気が入り混じって、昼という時間を形づくっていた。
その喧騒の中に溶け込もうとした――
その瞬間、ふと、時間が止まったように感じた。
視線の先に、一人の女の子が立っていた。
その髪は、一つに結われた三つ編み。細く黒く、まだどこか頼りなげだ。
髪をまとめたせいで首筋があらわになり、肌とのコントラストが黒髪を際立たせていた。
その対比があまりにも強く、息をのむ。
胸の奥で、何かが小さく跳ねた。
彼女が口を開いた瞬間――
その声は澄みきっていて、僕の鼓膜をやさしく震わせた。
食堂のざわめきが遠ざかる。
音も光も、彼女を中心に静まり返るような錯覚。
まるで、現実の中にひとしずくだけ落とされた夢。
――これ、奇跡だろ……
天使のささやきだ。
まさに令嬢、現実離れしてる……
冷静になろうとすればするほど、目はその彼女を追ってしまう。
心臓が少し速くなる。
手にした箸の重さも、食べ物の感触も、まるで無意味なものに感じる。
耳に届かなくなった喧騒のなか、僕の視線は完全に彼女への羨望を帯びていた。
名前すら知らないのに、なぜか気になって仕方ない。
何か特別な人に出会った瞬間の、あの奇妙な胸の高鳴り。
それが「一目惚れ」というものだと、初めて理解したような気がした。
数日後、思わぬ光景に出くわした。
食堂で、あの彼女――小早川沙織――が元気いっぱいに叫んでいた。
「焼きそばパンください! あと学食カレー大盛りで!」
思わず心の中で叫んでいた――庶民的!?
その瞬間、僕の中で築き上げていた「お嬢様像」は、音を立てて崩れ落ちた。
けれど、不思議なことに幻滅はしなかった。
むしろ、胸が高鳴った。
――勝手に遠くに置いてただけなんだ。
無防備に笑うその姿を見ていると、守りたくなる気持ちさえ湧き上がる。
心の中で決意が固まった。
――自分が、彼女の笑顔の理由を作りたい。
その思いを胸に、頭の中で計画を巡らせた。
どうすれば、彼女を喜ばせることができるだろう。
思い浮かぶのは、僕の作った料理を前に、うっとりと目を細めて「おいしい」と呟く彼女の笑顔。
その姿を想像するだけで、胸の奥がじんわりと熱くなった。
けれど、現実はそう甘くない。僕の料理スキルといえば、せいぜい“カップ麺達人レベル”だ。
お湯の温度を正確に測ることには妙な自信があるし、カップ焼きそばの湯切りも完璧だと思う。
卵を混ぜるのも得意だし、冷凍チャーハンの仕上げに胡椒を一振りするセンスには自負がある。
――だが、そこまでだ。
フライパンを持てば焦がし、包丁を握れば指を切る。
そんな自分が、まともな料理を作れるとは到底思えなかった。
「それでも、やってみたい」
そう思う気持ちは、不思議なほど強かった。
彼女の笑顔を見たい。その一心が、弱気になりかけた僕の背中を押した。
失敗したっていい。
焦げても、形が悪くても、気持ちが伝わればそれでいいじゃないか。
そう思えた瞬間、胸の奥に小さな火が灯ったような気がした。
とはいえ、現実的な問題は山積みだ。
レシピも道具も分からないまま突っ走れば、キッチンが戦場と化すのは目に見えている。
ふと、頭をよぎったのは――啓介の顔だった。
料理上手で、いつも落ち着いていて、少し不器用だけど頼りになる友人。
彼の作る料理はどれも丁寧で、味に無駄がない。
以前、夜遅くまで課題に追われていたとき、啓介が作ってくれた卵スープの優しい味をいまだに覚えている。
「そうだ、啓介に相談してみよう」
その考えが浮かんだ瞬間、胸の中の霧が少し晴れた。
料理なんてやったことがなくても、手順を教えてもらえばなんとかなるかもしれない。
彼なら、きっと真面目に付き合ってくれる。いいや、多少文句を言いながらでも、最後まで面倒を見てくれるだろう。
キッチンに立つ自分の姿を思い描く。
エプロンをつけ、慣れない手つきで泡立て器を動かす。
途中で小麦粉を床にぶちまけたり、砂糖と塩を間違えたりするかもしれない。
それでも、そんな失敗を笑い話にできたら、それはもう“思い出”になる。
スマホを取り出し、啓介の連絡先を開いた。
親指が送信ボタンの上で一瞬ためらう。だけど、すぐに決心した。
――よし、やってみよう。
送信音が小さく鳴る。
画面に映る文字は、短くて率直だった。
「なあ啓介、ちょっと料理、教えてくれないか?」
こうして、拳を小さく握った。
「よし、絶対に笑顔を見せてもらうんだ……!」
その言葉が心の中で反響する。
食堂のざわめき、笑い声、湯気に包まれた空間――それらすべてが、まるで僕の決意を応援しているかのように感じられた。
――啓介が教えてくれれば大丈夫だ。
その思いを胸に、ゆっくりと立ち上がった。
食堂の扉を押し開けると、未知の世界へ踏み出すような不安と、そこにあるかもしれない希望とが、胸の奥でせめぎ合う。
心臓の鼓動がやけに大きく響いているのは、恐れだけのせいではない。
だが、あの笑顔を思い出すたび、胸の奥が熱くなり、躊躇する理由がひとつずつ消えていくのを感じていた。




