表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/57

璃子とラーメン8 二つの心、黄昏に揺れて

――千春は、店を出たあとしばらく街を歩き続けていた。


 太陽の光はすでに傾き、アスファルトの上に長く伸びた影が、まるで誰かの気配のように彼女の後ろを追いかけてくる。

千春はマフラーを首に巻き、淡い黄昏の中を歩きながら、思考の糸を手繰っていた。

街路樹の影が長く伸びる歩道で、彼女の足取りはゆっくりと、しかし確かに前へと進んでいた。

考えごとの中で、啓介の無垢な微笑みや、璃子の揺るがぬ決意が交錯する。

そのひとつひとつが、胸の奥で静かに、しかし確実に波紋を広げていくのを感じながら、千春は歩みを止めることなく、自分の心の道を確かめていた。


――璃子、という子について、いろいろ考えてしまう。

 無表情に見えて、心の奥では複雑な思いをもっているのはわかった。

 あの静かな瞳の中にあったのは、敵意ではなく、むしろ決意。

 それが、かえって恐ろしい。


 千春は自分の胸の奥に、微かなざわめきを感じていた。

 啓介と一緒にいる時間――その何気ない日常が、あの少女にとって「守るべきもの」だというなら、自分の存在はどう映っているのだろう。

 もしも彼女の信念を揺るがすようなことをしてしまえば、その矛先は――自分に向くかもしれない。


 けれど、それでも。

 それでも千春は、啓介のそばにいたいと思った。

 彼の姿を見ていると、心がふっと和らぐ。

 言葉にしなくても、そこに流れる空気が好きだった。


 璃子は言った。問題を検知したとき「まずは、説得してみる」と。

 ならば、今は――このままでいい。

 恋人でなくとも、千春にとって啓介はかけがえのない人。

 その事実だけは、誰に脅かされようとも変わらない。


 黄昏の風が、頬をやさしく撫でていった。

 街のざわめきが遠のき、どこかで犬の鳴く声が一瞬、風に紛れる。

 千春は、璃子が返してくれたマフラーの温もりが肩に触れるたび、言葉にならない感情が微かに波打った。

 そのひとひらの布は、ただの防寒具ではない。啓介の存在、そして無垢な笑顔――守りたいものを静かに思い出させる、柔らかくも確かな印だった。

 恐れはまだ消えない。けれど、それ以上に確かな温もりが、心の底でひそやかに灯っていた。

 街路樹の影が長く伸びる歩道で、千春の足取りはゆっくりと、しかし迷いなく前へと進む。

 風がマフラーをそっと揺らすたび、胸の奥に眠る不安と期待が静かに呼応し、彼女の心の道を確かめさせる。

 それは、誰かを想うことの痛みと優しさが、ひとつに溶け合うような感覚だった。




――そのころ、璃子は一人、駅前のベンチに腰を下ろしていた。

 オレンジ色に染まる空が、街の輪郭を柔らかく滲ませている。

 人の流れは絶え間なく、笑い声や話し声が遠くに溶けていく。

 けれど、璃子の世界だけはどこか無音のようだった。


――千春さん。

 璃子は、指先で髪をいじりながら、ふと考える。

――千春さんは、いい人だ。

 それは間違いない。

 人当たりが柔らかく、空気を読むのも上手い。表情ひとつで相手の緊張を解き、冗談で場を軽くする術も心得ている。


 そして何より、啓介のことを“正しく”理解している。

 彼の優しさの根にある、無自覚な鈍さも。

 誰かを傷つけるつもりなどなく、それでも気づかぬうちに踏み込んでしまう――あの不器用な優しさの本質を。


 千春さんは、啓介にとって「都合のいい関係」を、これからも選ぶのだろう。

 それは恋人でも、赤の他人でもない。

 姉弟のように近く、けれど決して越えない境界線。

 心地よく、穏やかで、しかし曖昧な距離感。


……あの人なら、それを保ち続ける覚悟がある。

 璃子はそう確信していた。


 先ほどの会話の中で、少しだけ“試した”結果だ。

 髪飾りの話。

 それから、過去に啓介に少し強引なことをしたのではないか――そんな風に、カマをかけた。

 その瞬間の千春さんの表情。わずかに目が泳ぎ、声のトーンから揺らぎが漏れていた。

 あれは、紛れもない黒。

 啓介に対して特別な感情を持っているのは間違いない。

 けれど同時に、その反応からは「それでも守りたい覚悟」が滲んでいた。


――たぶん、大丈夫。

 千春さんはとても表情に出やすい人だ。

 少なくとも、今のところは。


 だがもし、あれすらも演技で、すべて計算された表情だったのだとしたら――。

 璃子は、そっと息を吐く。

 その時には、もう私の手には負えない。

 だから、その時は――私も、覚悟を決める。


 けれどまあ、それはないだろう。

 彼女が啓介を思うときの、あの笑顔を思い出しながら、璃子はそう結論づけた。

 そして、胸の奥のわずかな緊張を指先でほどくように、軽く息を吐いた。


 璃子は自分の膝の上で手を組み、ぎゅっと指を絡めた。

 啓介を守ると決めたのは、誰に言われたからでもない。

 あの人が誰かに踏みにじられるのを、二度と見たくなかったからだ。

 彼の無防備な笑顔を壊された瞬間――あの胸の痛みを。


 風が、彼女の髪を揺らす。

 その細い肩が一瞬だけ震えた。

 璃子はそっと目を閉じ、吐息のように小さく呟く。


「……私、間違ってないよね」


 返事はない。沈黙が、言葉よりも重く、静かに彼女の胸に落ちる。

 遠くの地平で、夕陽がゆっくりと沈んでいく。光は淡く、頬をかすめ、確かにそこにいる自分をそっと知らせるようだった。


 風が髪を撫でるたび、璃子の黒い瞳はわずかに揺れた。硬質な決意が揺るがぬ中に、不安という淡い影が入り込み、まだ名前のない感情が微かに震えている。


 胸の奥で、ざわめきが蠢く。迷い、恐れ、期待、そして守るべきものへの思い。互いに絡まり合った感情は、言葉にはならずとも、光と影の間で自ずと整理されていく。


 沈黙は言葉より雄弁で、光は祈りより優しい。

 心の中で、かすかな波紋が丸く収まり、夜の静けさが包み込む。呼吸を整えるたびに、心の奥の緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。


 微かな温もりが胸に残る。

 それは決意の硬さでありながら、同時に静かな優しさだった。

 璃子はゆっくりと目を閉じ、風と光の中で、自分の心が静かに形を変え、夜に溶けていくのを感じる。


 不安も迷いも、名前のない感情も、すべてがひとつの塊となり、夜の(とばり)に包まれる。

 胸の奥で、ささやかな灯火がともったように、心はようやく穏やかに落ち着いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ