璃子とラーメン8 二つの心、黄昏に揺れて
――千春は、店を出たあとしばらく街を歩き続けていた。
太陽の光はすでに傾き、アスファルトの上に長く伸びた影が、まるで誰かの気配のように彼女の後ろを追いかけてくる。
千春はマフラーを首に巻き、淡い黄昏の中を歩きながら、思考の糸を手繰っていた。
街路樹の影が長く伸びる歩道で、彼女の足取りはゆっくりと、しかし確かに前へと進んでいた。
考えごとの中で、啓介の無垢な微笑みや、璃子の揺るがぬ決意が交錯する。
そのひとつひとつが、胸の奥で静かに、しかし確実に波紋を広げていくのを感じながら、千春は歩みを止めることなく、自分の心の道を確かめていた。
――璃子、という子について、いろいろ考えてしまう。
無表情に見えて、心の奥では複雑な思いをもっているのはわかった。
あの静かな瞳の中にあったのは、敵意ではなく、むしろ決意。
それが、かえって恐ろしい。
千春は自分の胸の奥に、微かなざわめきを感じていた。
啓介と一緒にいる時間――その何気ない日常が、あの少女にとって「守るべきもの」だというなら、自分の存在はどう映っているのだろう。
もしも彼女の信念を揺るがすようなことをしてしまえば、その矛先は――自分に向くかもしれない。
けれど、それでも。
それでも千春は、啓介のそばにいたいと思った。
彼の姿を見ていると、心がふっと和らぐ。
言葉にしなくても、そこに流れる空気が好きだった。
璃子は言った。問題を検知したとき「まずは、説得してみる」と。
ならば、今は――このままでいい。
恋人でなくとも、千春にとって啓介はかけがえのない人。
その事実だけは、誰に脅かされようとも変わらない。
黄昏の風が、頬をやさしく撫でていった。
街のざわめきが遠のき、どこかで犬の鳴く声が一瞬、風に紛れる。
千春は、璃子が返してくれたマフラーの温もりが肩に触れるたび、言葉にならない感情が微かに波打った。
そのひとひらの布は、ただの防寒具ではない。啓介の存在、そして無垢な笑顔――守りたいものを静かに思い出させる、柔らかくも確かな印だった。
恐れはまだ消えない。けれど、それ以上に確かな温もりが、心の底でひそやかに灯っていた。
街路樹の影が長く伸びる歩道で、千春の足取りはゆっくりと、しかし迷いなく前へと進む。
風がマフラーをそっと揺らすたび、胸の奥に眠る不安と期待が静かに呼応し、彼女の心の道を確かめさせる。
それは、誰かを想うことの痛みと優しさが、ひとつに溶け合うような感覚だった。
――そのころ、璃子は一人、駅前のベンチに腰を下ろしていた。
オレンジ色に染まる空が、街の輪郭を柔らかく滲ませている。
人の流れは絶え間なく、笑い声や話し声が遠くに溶けていく。
けれど、璃子の世界だけはどこか無音のようだった。
――千春さん。
璃子は、指先で髪をいじりながら、ふと考える。
――千春さんは、いい人だ。
それは間違いない。
人当たりが柔らかく、空気を読むのも上手い。表情ひとつで相手の緊張を解き、冗談で場を軽くする術も心得ている。
そして何より、啓介のことを“正しく”理解している。
彼の優しさの根にある、無自覚な鈍さも。
誰かを傷つけるつもりなどなく、それでも気づかぬうちに踏み込んでしまう――あの不器用な優しさの本質を。
千春さんは、啓介にとって「都合のいい関係」を、これからも選ぶのだろう。
それは恋人でも、赤の他人でもない。
姉弟のように近く、けれど決して越えない境界線。
心地よく、穏やかで、しかし曖昧な距離感。
……あの人なら、それを保ち続ける覚悟がある。
璃子はそう確信していた。
先ほどの会話の中で、少しだけ“試した”結果だ。
髪飾りの話。
それから、過去に啓介に少し強引なことをしたのではないか――そんな風に、カマをかけた。
その瞬間の千春さんの表情。わずかに目が泳ぎ、声のトーンから揺らぎが漏れていた。
あれは、紛れもない黒。
啓介に対して特別な感情を持っているのは間違いない。
けれど同時に、その反応からは「それでも守りたい覚悟」が滲んでいた。
――たぶん、大丈夫。
千春さんはとても表情に出やすい人だ。
少なくとも、今のところは。
だがもし、あれすらも演技で、すべて計算された表情だったのだとしたら――。
璃子は、そっと息を吐く。
その時には、もう私の手には負えない。
だから、その時は――私も、覚悟を決める。
けれどまあ、それはないだろう。
彼女が啓介を思うときの、あの笑顔を思い出しながら、璃子はそう結論づけた。
そして、胸の奥のわずかな緊張を指先でほどくように、軽く息を吐いた。
璃子は自分の膝の上で手を組み、ぎゅっと指を絡めた。
啓介を守ると決めたのは、誰に言われたからでもない。
あの人が誰かに踏みにじられるのを、二度と見たくなかったからだ。
彼の無防備な笑顔を壊された瞬間――あの胸の痛みを。
風が、彼女の髪を揺らす。
その細い肩が一瞬だけ震えた。
璃子はそっと目を閉じ、吐息のように小さく呟く。
「……私、間違ってないよね」
返事はない。沈黙が、言葉よりも重く、静かに彼女の胸に落ちる。
遠くの地平で、夕陽がゆっくりと沈んでいく。光は淡く、頬をかすめ、確かにそこにいる自分をそっと知らせるようだった。
風が髪を撫でるたび、璃子の黒い瞳はわずかに揺れた。硬質な決意が揺るがぬ中に、不安という淡い影が入り込み、まだ名前のない感情が微かに震えている。
胸の奥で、ざわめきが蠢く。迷い、恐れ、期待、そして守るべきものへの思い。互いに絡まり合った感情は、言葉にはならずとも、光と影の間で自ずと整理されていく。
沈黙は言葉より雄弁で、光は祈りより優しい。
心の中で、かすかな波紋が丸く収まり、夜の静けさが包み込む。呼吸を整えるたびに、心の奥の緊張が少しずつ溶けていくのを感じた。
微かな温もりが胸に残る。
それは決意の硬さでありながら、同時に静かな優しさだった。
璃子はゆっくりと目を閉じ、風と光の中で、自分の心が静かに形を変え、夜に溶けていくのを感じる。
不安も迷いも、名前のない感情も、すべてがひとつの塊となり、夜の帳に包まれる。
胸の奥で、ささやかな灯火がともったように、心はようやく穏やかに落ち着いた。




