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璃子とラーメン7 絹に包まれた刃

 ここで終わるかとおもっていたのだが、璃子はぽつりと口を開いた。

「千春さんが、啓介に無理矢理迫ったりする人でなくて良かった。理性的ですし。感情に任せて動くタイプじゃないでしょう?」


 彼女は柔らかく微笑みを帯びながらも、どこか冷たい光をまとっていた。

 ――まるで絹に包まれた刃。

 音もなく胸の奥に触れ、痛みよりも先に、ひやりとした静寂が広がる。


 璃子の言葉は、穏やかで、礼儀正しく、しかし確実に――その瞳はこちらの反応を逃さぬように静かに光っていた。

 追及でも敵意でもなく、ただ“確かめる”ための視線――

 けれどそこに、獲物の動きを見極めようとする捕食者のような、研ぎ澄まされた静けさがあった。

 千春の肌の下を小さな電流が走り、息が浅くなる。


 千春は返す言葉を探すが、喉が乾き、舌が思うように動かない。

 頬の筋肉がわずかに引きつき、笑みとも硬直ともつかぬ表情が浮かぶ。

 その小さな歪みが、まるで心の奥の秘密を一瞬だけ照らし出すかのようだった。


――二年前、あの出来事を思い出す。

 半ば強引に啓介に歩み寄り、結果、女性として見られていないことを突きつけられた、あの日の自分。


――そう、知らない。知らないはずだ。

 そうでなければ、あんな穏やかな顔で私の前に座っていられるはずがない。

 もし知っていたら、髪留めの話ではなくあのことを責めてくるはずだ。

 それをしなかったのは、璃子が知らないからだ。


 千春は、そっと指先でマグカップの縁をなぞった。

 湯気はもうほとんど消えかけていて、冷めたコーヒーの苦味が喉の奥に残る。

 璃子のまっすぐな視線が、まだ自分の頬のあたりに残っている気がして、思わず目を伏せた。


 (落ち着け。……落ち着くのよ)


 自分にそう言い聞かせながら、千春はわざと深呼吸をした。

 心臓の音が、まるで机の下でこっそり暴れている小動物のようだった。


――あの日のことは、終わったこと。

――啓介だって、もう覚えていないはず。

――璃子さんも、知らないはず。


 そう、何度も心の中で唱える。

 だが、言葉にするたび、かえって記憶の奥底が掘り起こされていく。

 薄暗い部屋。

 現実を突きつけられて呆然となり動く事すらできなくなっていた自分。

 そして、どこまでも無防備に、しかし、ただ優しく、微笑んでいた啓介。


 (あれが、どれほど恥ずかしく、愚かだったか……)


 頬の内側を噛んで、かろうじて表情を保つ。

 璃子の前で動揺の欠片を見せるわけにはいかない。彼女の目は、油断ならない。

 柔らかく笑いながらも、心の奥を覗き込むような鋭さを持っている。


 「千春さん、どうかしました?」

 ふいに璃子の声が、すぐ目の前で響いた。


 反射的に顔を上げる。

 その瞬間、微笑を貼りつけたままの自分に気づき、引きつった唇の感覚が、どうしようもなく痛々しい。


 千春は、かろうじて言葉を絞り出す。

「ううん、なんでもないの。ただ、少し思い出してただけ」

「そうですか」

 璃子はふっと微笑み、小さくうなずいた。だが、その瞳に映る光が、どこか探るようにきらめいた気がした。


 千春は、視線を逸らす。

 冷めたコーヒーを口に含み、苦味で思考をごまかす。


(落ち着け。動揺を見せたら終わりだ。……でも、もしあのことまで知られたら――この子が、どう動くか分からない)


 視線は璃子の黒い瞳に釘付けになり、呼吸を整えようとしても、心臓の高鳴りは収まらない。

脳内ではあの出来事の光景がちらつき、身体の奥で小さな警鐘が鳴り続ける。

 まるで無数の針が胸の内側に刺さっているかのような感覚――それが千春の全身を微かに震わせ、心の奥の緊張を現実の感覚として浮かび上がらせていた。



 一方、璃子は千春の様子をじっと見つめていた。

 眉ひとつ動かさず、口元にも微かな感情の揺れはなく、ただ静かに観察している。

 黒い瞳の奥には計り知れぬ深さがあり、その視線の重さに千春は自然と背筋を伸ばす思いだった。

 身体の奥で、先ほどから張り詰めていた緊張が小さく揺れ、息遣いがわずかに乱れている。


 だが、璃子の静かな観察は攻撃でも指摘でもなく、ただ存在を確かめるようなものだった。

 その微妙な視線のやり取りの間、千春は心の内側で小さな波紋を感じつつも、次第に落ち着きを取り戻す。


 その場は結局、何事もなく過ぎていった。

 窓から差し込む黄昏の光が、柔らかく二人の影を長く伸ばす。カップの縁に反射する光や、テーブルに落ちる影の輪郭が微かに揺れ、沈黙の中に静かで柔らかな時間が流れる。

 千春はその光景をぼんやりと見つめながら、緊張の余韻を胸に残しつつも、目の前の璃子の存在が思ったよりも穏やかであることに、ほのかな安堵を覚えていた。




 千春にとって、この璃子との初めての対面は、想像以上に精神を削られる体験だった。

 視線の一つひとつ、言葉の端々に宿る確信、そして何よりも、微動だにせず揺るがない意志の存在が、胸の奥に重くのしかかる。

 手に残るカップの冷たさや、肩先にうっすら残る緊張の震えが、心の疲労を身体全体で知らせる。


 言葉少ない沈黙の間にも、千春の神経は細やかに張り詰め、目の前の小柄な女性に対する警戒心と畏怖が入り混じり、頭の奥で思考がぐるぐると巡っていた。

 この静かな喫茶店の空間は穏やかに見えて、しかし千春にとっては、精神の緊張を試される小さな戦場のように感じられたのだった。


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