璃子とラーメン6 揺るぎない瞳
「というわけで、私は啓介を守ることにしたんです」
璃子は啓介との昔話がおわると、静かにカップをテーブルの上に置いた。置かれたカップは微かに触れ合う音を立て、沈黙を際立たせる。
その動作はあくまで穏やかで柔らかいのに、なぜか場の空気に緊張が漂う。
千春の視線が自然と璃子の顔に吸い寄せられた。
黒い瞳は揺るぎなく、真っ直ぐに千春を見据えている。その目には、言葉以上の力が宿っているようで、胸の奥がひりつくように熱くなる。
声には柔らかさがありつつも、揺らぐことのない決意が含まれ、言葉を聞く千春の心に確かな重みを落とした。
「啓介は、恋愛という概念以前に、男女の違いすら実感として持っていないんです。自然に身につくような『男とはこう、女とはこう』という感情の輪郭が、彼の中にはない。だから、他人との距離や心の機微を本能で掴むことができないんです」
まるで黒い瞳の奥に、啓介という存在の輪郭を一手一手描き出すかのような語り口だ。
言葉のひとつひとつが丁寧に選ばれ、空気の中でゆっくりと落ちていく。千春は耳を澄まさずにはいられなかった。
胸の奥で、理解と同時に少しの驚きが広がる。――そんな人物が本当に実在するのか、と。
璃子は頷く千春の表情を確かめるように、言葉を続けた。
「生活の中で困らないのは、彼がルールやマナーを知識として身につけたから。『こうすれば失礼にならない』『これはしてはいけない』ということは学んでいるんです。でも、本当に誰かの気持ちを『感じる』ということとは別なんです」
璃子はカップの縁を軽く撫でながら言う。夕暮れの光がそこを淡く照らした。
その仕草には威圧はないが、静かな力が宿っていて、千春は思わず背筋を伸ばす。
「啓介は、人が喜ぶ顔を見るのが何より好きなんです。その純粋さが、周囲には特別な優しさとして映る。異性から見れば、それは時に『特別な好意』に見えてしまう。しかし、どれほど好意を示されても、啓介はそれに応える恋愛感情を持たない。期待が裏切られ、誤解が積み重なったとき――彼は深く傷つくんです」
千春の顔に、小さな影が落ちる。璃子はその胸の動きを見逃さなかった。
「……それを放っておけないんです。だから私は、誤解しながら啓介に近づく人を減らしたい。彼が不用意に傷つかないように、彼の周りを整えたいんです」
言葉は柔らかいが、そこには揺るがぬ覚悟があった。千春はその言葉の重みを胸で受け止めながら、静かに頷いた。
「それが、私のやり方なんです」
璃子は、静かに言葉を継いだ。端々から滲む確信と、啓介を守ろうとする意志の強さだけは、千春の心に確かに伝わったのだった。
「話して分かるなら、それで十分です。言葉で誤解を解けるのなら、もうそれで事は収まる。だけど、言葉が届かない人もいるでしょう」
璃子は、千春の目をじっと見据えたまま、指先でテーブルの縁を軽く押す。その仕草に、ためらいはない。
「分かってくれないなら、私は──少し、追い詰めます。精神的に揺さぶってでも、啓介から距離を置かせる。傷つけるつもりは毛頭ない。ただ、誤解の芽を摘みたいだけなんです」
千春は、璃子の微かに震える手を見つめる。――この人の覚悟は、言葉の端々から胸の奥まで重く響く。
言葉は穏やかで、口調は落ち着いている。だがその柔らかさの裏には、冷徹に意思を貫く力が潜んでいた。千春の胸はぎゅっと締め付けられ、思わず窓の外を見る。夕暮れの光がガラスを朱色に染め、二人の影をゆっくりと伸ばしている。
「それでも、それでも駄目なときには、私にはその覚悟があります」
最後の一言には血の通った冷たさが宿り、微かに瞳が煌めいた。その光に、千春は息を飲む。言葉にできない重みが胸に落ち、しばらく体の中で震えが止まらなかった。
千春は唇を噛み、わずかに肩をすくめた。
――この人は、ただの小柄な女性じゃない。目の奥に、揺るぎない決意がある。
璃子に宿る圧倒的な覚悟を、千春は否応なく感じ取っていた。
「……璃子さん……」
思わず呼びかける声も、震えが混じる。千春の胸の奥では、驚きと少しの怖さが入り混じった感情が渦巻いていた。言葉に詰まる自分に気づき、手でカップを握りしめる。
璃子の姿は小さいが、その存在感はまるで空間全体を支配しているかのようだった。
「啓介くんを……守る……ために」
千春はその言葉を胸の奥で何度も反芻した。ひとつひとつの音が、まるで重い鐘のように心に響く。
璃子の言う“守る”の意味が、単なる優しさや思いやりではないことは、すぐに分かった。
言葉で理解できる相手には、言葉で届くように。
それでも届かない相手には、精神的に揺さぶり、場合によっては強引にでも、啓介を傷つけないために手を打つ──その覚悟が、言葉の隙間からじんわりと伝わってくる。
啓介が傷つかないように……
「……それを、本当に……啓介くんを守るためだけに……」
千春の声はかすかで、震えが混じる。胸の奥で、驚きと恐れと、少しの敬意が絡まり合った。
心の中で、璃子が背負っている覚悟の重みを理解し、息が一瞬止まる。視界の端で、カップの縁に指先を絡める手がわずかに硬直するのを感じた。
璃子はゆっくりと頷いた。
その動作は小さく、あくまで穏やかだが、力強さを宿している。視線を決して逸らさず、黒い瞳は千春を真っ直ぐに捉えた。そこには問いも迷いもなく、ただ一つ、揺るぎない意志が静かに輝いている。
千春は、自然と肩の力を抜きながらも、背筋がすっと伸びるのを感じた。
胸の奥で、なぜか心臓がゆるやかに早鐘を打つ。
言葉にされなくとも、瞳から伝わるその覚悟の深さは、重く、温かく、同時に圧倒的だった。
――これは、啓介を守るための戦いであり、言葉以上の重みを伴った覚悟なのだ、と。
千春の胸に、その事実が静かに落ち、心の奥で波紋を広げる。
言葉ではなく、目と視線で伝わる力。
それを受け止めた瞬間、璃子の存在の大きさと、啓介への思いの深さの一端を、千春は体全体で理解した気がした。
単なる過保護ではない。啓介のために、己の心の限界まで背負い、誤解も、葛藤も引き受ける覚悟。
「……わかりました」
千春は小さく息を吐き、肩の力を抜く。胸の奥でざわついていた思いが、少しだけ静まった。
璃子の存在の重さを感じながらも、彼女の決意が正しいことを、心のどこかで信じたいと思った。
そして、二人の間に落ちた静寂は、次第に穏やかさを帯びるのであった。




