璃子とラーメン5 陽だまりの刃
午後の柔らかな日差しが、図書館の大きな窓からゆっくりと差し込んでいた。木の長椅子に落ちる光は温かく、世界を少しだけ優しく見せてくれる時間帯だ。私はその光の中で、無意識に啓介の姿を探していた。
空気に混じる本の匂い、ページをめくる音――何でもない音がひとつずつ染み込んで、いつもより五感が研ぎ澄まされているように感じる。
啓介はいつものように、女子生徒と肩を並べて笑っている。話し方は肩の力が抜けていて、笑顔もあの頃と変わらない。女子生徒もまんざらではない表情を浮かべている。周りの声がざわついても、彼だけはいつも通りの安定した波を立てているように見えた。その無防備さが、胸の奥を熱くする。まるで何も知らずに外に立つ白い花のように、風に揺れている。
本の匂いが混ざった空気が、どこか非現実的に感じられて、心臓の鼓動が一つ鳴るたびに現実が近づいてくる。彼女たちの会話の断片が耳に入る。「今度一緒に映画行かない?」とか「休日、どこ行くの?」とか、軽やかで無邪気だ。そこに悪意は見えない。けれど、好意はしばしば道を間違える。若さは理性より感情を早く走らせるから。
啓介は恋や複雑な感情に疎い。善悪や善意と悪意の違いはわかるだろうけれど、惹かれてしまった相手の繊細なサインや、執着の芽を見抜くことはきっとできない。誰かが執着し、誰かが傷つき、啓介自身が知らずに巻き込まれていく――そういう絵が、私には鮮明に見えてしまうのだ。その想像は、いつも薄い氷の上を歩いているような不安を連れてくる。軽い衝突が、大きな亀裂に変わる瞬間を私は何度も見てきた。
啓介と離れるのを確認し、私は椅子から立ち上がり、女子生徒へとゆっくり歩み寄った。歩幅はいつもより小さく、心臓の音が耳の奥で反響する。肩越しに見た彼の後ろ姿は、安心そのものを体現している。私が守りたいのは、あの無邪気さだけなのだと再確認する。手に握ったバッグの革の感触が、じんわりと頼りになる。
「ねえ、ちょっといいかしら。啓介に近づくの、やめてくれない? 彼のこと、よくわかってないんじゃないかな」
私の声は柔らかく、目は真っ直ぐ相手の目を見た。言葉は優しく、表情もできるだけ和らげる。ここで事を荒立てたくない。相手が理解してくれたら、それで終わるのならどれだけ楽だろう。だけど、私の内側で芽生えたものは、もう後戻りできない形になっていた。守るということは、ときに誰かの不快を引き受けることだと知っている。
女子生徒は一瞬目を泳がせ、眉をわずかに寄せた。小さく肩をすくめて、舌打ちにも似た不満をちらりと見せる。だが、その不満の向こうに、まだ消えない好奇心と――私には危うく見える執着の影がある。彼女の指先がバッグの紐をぎゅっと握るのが見えた。小さな仕草が、何かを決めかねている瞬間を示している。言葉で止められるか、それともそれでも進むか。分岐は、紙一重だった。
止めてくれれば私はそこで微笑み、小さく会釈して引き下がる。啓介に何事もなかったかのように戻ってほしい。だが、もし彼女がなお続けるなら、私の顔は変わる。違う種類の冷たさが表に出るだろう。感情に任せて罵るのでもなく、必要な圧力を静かにかけるのだ。精神的に追い詰める――と聞くと暴力的に響くかもしれないが、私のやり方はもっと微妙で確実だ。言葉の選び方、距離の取り方、周囲の目を計算に入れた振る舞い。相手が進められない道筋を巧みに作る。
私はそのためなら手段を選ばない覚悟を持っていた。決意は炎のように熱くはない。むしろ冷たい刃のように鋭く、無駄のない重みがある。啓介が傷つくことだけは、決して許せない。
啓介の笑顔を思い浮かべる。あの無邪気さを失わせたくはない。だからこそ、私の手は震えない。守るべきものを守るために、私は強くなるしかないのだ。
陽だまりは変わらず穏やかで、風が木の葉を揺らした。私は一度深く息を吸い、そして静かに、しかし確かな声で言った。
「ごめんね、でもこれ以上はやめておいて。彼には、そういう気持ちはないから」
言葉は柔らかく、だがその内側には揺るがぬ意志が宿っていた。彼女は一瞬驚いた顔をしたが、やがて唇を噛んで、ぎこちなく目をそらした。小さな衝突はそこで消えかけた。周囲の時間が少しだけずれて、私たちの間に静寂が戻る。私は息を止める必要はなく、ただ静かにその場を後にした。
こんなふうに動けば、きっと噂は立つだろう。私はそれを承知していた。以前の私なら、心がやわになって耐え難かったかもしれない。けれど今は違う。周囲の視線や陰口は凍てついた決意の前では紙切れのように薄い。命がけで守られた記憶が、私に新しい尺度をくれたのだ。誰かを守るということは、しばしば孤独な戦いでもある。だが孤独は弱さの証ではなく、選択の深さを示すものだと私は思う。
陽の光に包まれながら、私は自分の手の震えを確かめることなく、啓介を守るための戦いを、まだ始めたばかりだと感じていた。光は温かく、だが私の内側には冷たい意志が燃えている。どちらも真実で、どちらもこれからの私を支えるものだった。




