璃子とラーメン4 守られた命、温められた心
高校生になっても、啓介は昔のままだった。
この頃の啓介は、男性としての魅力を帯びるようになっていた。
スタイリッシュな体格と、深い顔立ち。大人びているようで、無邪気な仕草。
誰にでも優しいが、それは時に異性に対して、自分に特別な好意を持っているのではと誤解されるようになっていた。
啓介に対して、恋心を持っている同級生のウワサも度々耳にするようになっていた。
そんな中でも、私に対しては、昔のように、下校の道で手を振り、教室では気軽に話しかけてくる。
まるで小学生の頃と同じような距離感で接してくる。
それを見ていた同級生が、ひやかすように笑った。
「ねえ、幼なじみって、もしかしてそういう関係?」
その瞬間、顔が熱くなるのがわかった。
何もない。ただの友達。そう言いたかったのに、うまく言葉が出ない。
気まずさをごまかすように、私はわざと啓介に冷たい声で言ってしまった。
「……いい加減、子どもじゃないんだから。もう話しかけないで」
言い捨てて歩き出したあと、胸の奥が痛んだ。
ただ気恥ずかしかっただけなのに、なんであんなに冷たいことを言ってしまったのだろう。
夕焼けに染まる歩道を歩きながら、私は何度も心の中で謝った。
――ごめんね。
信号待ちの列には、同じ制服の女子がスマホを見ながら私のすぐ隣に立っていた。
顔も知らないけど、たぶん同じ学年だと思った。
横断歩道の信号が青に変わり、人の波が一斉に動き出す。
私も何気なく足を踏み出した。
そのときだった。
視界の端で光が乱れた。
周囲のざわめき、甲高い悲鳴。
凄い勢いで迫り来る、黒い自動車。
――あ、ぶつかる。
そう思った瞬間、強い衝撃で体が弾き飛ばされた。
地面に叩きつけられ、息が詰まる。
何が起きたのかわからないまま顔を上げると、視線の先に見えたのは――車の前で宙を舞う女子高生だった。
頭の中が真っ白になり、目の前の光景がスローモーションのように流れた。
まるで人形のように、力なく、彼女の体は空中へ放り出されていった。
私にぶつかったのは、車ではなかった。
啓介だった。
あのとき、私を突き飛ばしたのは彼だったのだ。
私を押し飛ばした勢いで、啓介も体をひねりながら地面に倒れ込み、肩や膝を強く打っていた。
それでもなお、痛みに顔をしかめながら、体を起こしつつ必死に私に手を伸ばしてくる。
舞い上がった砂埃が舞う空気の中に、どこか錆びた匂いが混じっていた。
その匂いは、今でもふとした瞬間に甦る。
直前、啓介にあんな酷い言葉を投げつけたばかりなのに。
彼は、自身の危険を省みず、私を守った。
少し離れた場所では、さっきまでスマホを見ていた女子高生が血を流して倒れていた。
ぴくりとも動かない。
あれは――もしかしたら、私だったかもしれない。
私の未来のひとつが、そこに転がっているように思えた。
体が震え、息も止まりそうだった。
地面に座り込んだまま、私は啓介の腕をつかんだ。
生きている。
その温もりが、どうしようもなく涙を誘った。
必死に、啓介にしがみついた。
泣きながら、ただ「怖かった」と何度もつぶやいた。
そのあと、救急車が来て、病院に運ばれた。
幸い、私はどこも怪我はなかった。
でも、あの子は助からなかった。
翌朝のニュースで知った。
車を運転していたのは、七十代の女性だったという。
アクセルとブレーキを踏み間違えたらしい。
ほんの一瞬の、わずかな違い。
それだけで、日常は一瞬にして崩れ去る。
アクセルとブレーキの差が、私とあの子の未来をも分けたのだ。
運命の差は、あまりに些細で残酷だった。
その日初めて、私は現実というものの冷たさを、肌で感じた。
啓介が私を交通事故から守ってくれた。
しかし、あの瞬間の恐怖は、その後も体の奥にこびりついていた。
光と音、誰かの悲鳴、そして宙を舞う影。
何度も、何度も、頭の中で同じ映像が再生される。
あのとき私も、確かに死にかけていた――そう思うと、食事も喉を通らず、学校に行く気力すら失われていった。
そんな私を気にかけてくれたのは、やっぱり啓介だった。
ある日、何も言わず、彼は私の家のキッチンに立っていた。
鍋の中で、湯気が静かに立ちのぼる。しょうゆの香りが部屋に広がり、私の閉ざされていた心をそっと叩いた。
差し出された丼の中には、あたたかいしょうゆラーメン。
濃すぎず、でも香ばしい匂いが、鼻の奥をくすぐった。
「無理に食べなくてもいいんだよ。でも、少しずつね」
啓介の声は、春の終わりの風のように柔らかかった。
その声も、湯気の香りも、まるで凍りついていた私の心を包みこむ毛布のように、静かに温めていった。
湯気が立ちのぼる。
白い靄の向こうに、箸を持つ啓介の手が見える。
漂うスープの香り――鶏のだしと生姜のかすかな甘さが、胸の奥の硬く凍りついた部分を、ゆっくりとほぐしていくようだった。
一口、麺をすする。
塩気が舌に触れ、やわらかな旨味が広がり、喉をすべり落ちる。
熱いスープが胸の奥に届くたび、ひび割れた心の隙間に、じんわりと温度が染みこんでいく。
冷たくなっていた指先が少しずつほどけて、呼吸が深くなる。
その感覚が、どうしようもなく懐かしかった。
ああ――生きている。いま、確かにここにいる。
その実感が、ゆっくりと胸の底から滲み上がってきた。
涙がこぼれそうになって、慌てて目を伏せた。
でも、泣いてしまえば、また何かが壊れてしまいそうで――
泣く代わりに、私は箸をとる。
啓介の差し出した湯気の向こうに、あたたかな日常がほんの少しだけ、戻ってきている気がした。
スープを飲み干すころには、胸の奥にあった冷たい塊が、少しだけ形を失っていた。
完全ではない。痛みはまだそこにある。
けれど、それでもいい。少しずつでいい。
また、歩けるかもしれない――
そう思えたのは、あの声と、あの香りと、そして啓介が隣にいてくれたからだ。
命を救ってくれただけじゃない。
壊れかけた心を、啓介は“日常の温度”で包み直してくれたのだ。
湯気の向こう、穏やかな笑みを浮かべるその顔を見ていると、
胸の奥に、静かな信念が芽生えていくのがわかった。
――この人に、恩返しがしたい。
その想いが、胸の奥で静かに灯り始めた。
炎ではなく、春の陽だまりのような、やわらかな光だった。
恐怖と絶望で凍っていた心の片隅に、確かな温もりが戻っていく。
もう、ただの幼なじみではいられない。
あの日、命をかけて私を守った彼の背中を、私は忘れない。
あの一瞬、私の世界は、彼の行動ひとつでつながったのだ。
だから今度は、私が守りたい。
彼が私を救ってくれたように。
彼がくれた命の温もりを、今度は私の手で返していく。
大げさなことではなくていい。
彼が笑ってくれる日々を、そっと支えられればいい。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥にまた光がともる。
――あの瞬間に生かされた命を、
私は、彼のそばで生きるために使いたい。




