璃子とラーメン2 信と嘘のあいだに
「……わかりました。信じます」
その声は低く、静かに響き、同時に確かな決意を含んでいた。
璃子はゆっくりと顔を上げ、黒い瞳を千春に据える。その視線には揺るがぬ確信が宿っていた。
「啓介から、あなたが髪留めを欲しがっていたと聞いていました」
言葉の一つひとつが、空気を張り詰めさせる。
「今日、あなたの姿を見て――疑念がわきました。その髪留めが白いユーストマを模しているのを知って。本当は啓介と恋人になりたいと願っているのではないかと。でも今、図星を突かれて困っているあなたを見て、確信しました」
千春の肩が小さく震える。息が詰まり、唇をかむ。
「確信……?」
あっけにとられて、思わず小さな声が漏れる。心臓の音が耳の奥で響く。
「あなたは、嘘をついていない。だから……信じられる」
その瞬間、千春の胸の奥で緊張が緩みつつも、背筋には冷たい感覚が残った。
視線を交わしたまま、ふたりの間には言葉を超えた静かな理解と、張りつめた空気が漂った。
璃子の唇が、かすかに笑みの形をつくった。
外では、夕暮れの風が木の葉を揺らしている。
その音だけが、ふたりの間に、しばらく流れ続けていた。
「そ、そう、なのね」
ゆったりとカップを置き、静かに視線を璃子に向けた。
千春はまだ動揺しているのか、言葉を一瞬詰まらせる。胸の奥がぎゅっと締め付けられ、心拍がますます速くなる。
「それで、あなたは私にどうしてほしいの。啓介くんに会わないようにしてほしいのかしら」
言葉を絞り出すようにして聞いた。声はぎこちなく、わずかに震えていた。
言い終えた瞬間、千春は自分の声の低さに気づき、頬がじんわりと熱くなるのを感じた。
息を整えようと胸を撫でても、手のひらにはじんわりと汗がにじみ、指先が小刻みに震える。
目の前の小柄な女性の冷静で鋭い視線に、千春の心拍がずっと早い。
体の中で血が逆流するような感覚があり、思わず椅子に深く腰を沈めたくなる。
「いえ……いままで通り、啓介と会ってもらって構いません」
璃子の声は柔らかく落ち着いている。しかしその柔らかさの裏には、相手の心の奥を見透かすような冷たさと、計り知れぬ力を感じた。
千春は視線をそらしたくなるのを必死にこらえ、指先でカップの縁を握りしめた。
「あら、構わないの? あなたと啓介くんは恋人同士なのよね」
喉の奥がきゅっと締まる。口元が乾き、言葉がのどに引っかかる。
心の中で小さな警報が鳴り、視界の端がわずかに揺れたように感じる。
「いえ……先ほどのは嘘です」
その言葉が胸に波紋を広げる。驚きとともに動揺が膨らみ、千春は思わず息を呑んだ。
「ええ、嘘です」
璃子の声は柔らかく、しかし一点に鋭く集中した光を放つようだった。
千春の動揺を嘲るわけでも、責めるわけでもなく、淡々とした語り口の中に、確かな説得力と冷静さがあった。
「千春さんも、薄々感じているとは思いますが、啓介は恋愛に興味が全くありません。愛し合うだの、恋人だのという関係は、啓介には絶対にないんです」
言葉の重さに、千春は思わず肩を小さく震わせた。
胸の奥で、押し寄せる波のような感覚が広がる。心臓が早鐘のように打ち、息がわずかに詰まる。頭の中でいくつもの思いが混ざり合い、どう整理すれば良いのか考えていた。
――そうか、やはり啓介は恋愛とは無縁なのか。
千春は小さく唇を噛み、視線をテーブルに落とす。手のひらの熱と冷たさが交互に感じられ、指先がわずかに震える。
それでも、その話を聞いたとき、なぜか妙に納得する自分に気づく。
胸の奥で、もやもやしていた疑念や期待が、すっと静まる感覚――それはまるで、嵐の後の穏やかな海のようだった。
――そうか、これで少しだけ、心の整理がついたのかもしれない。
「それじゃ……なんで、そんな嘘を……」
それでも千春の声はかすかに震え、言葉が途切れ途切れになり、やがて沈黙が訪れる。
その沈黙を、璃子はじっと待った。
時折、千春の表情や微かな動きを測るかのように、視線を揺らせる。柔らかく落ち着いた声の中に、冷静さと洞察力がひっそりと宿っている。その存在感は小柄な体躯からは想像できないほど圧倒的で、千春は思わず息をのむ。
千春は少しずつ呼吸を整え、心を集中させる。──目の前で語られる言葉に、耳と心を研ぎ澄ますしかなかった。
「わかりました。あなたは啓介の味方です。だから、啓介について話します」
言葉が落ちた瞬間、璃子の表情にわずかな柔らかさが混じった。
千春は思わず肩の力を抜き、心の奥で微かな安堵を感じる。
それと同時に、まだ胸の奥に残るざわめきや、動揺が完全に消えたわけではないこともわかっていた。
そして、璃子は静かに口を開いた。
声は穏やかで澄んでいるが、その一語一語には確かな重みがあり、過去の出来事を丁寧に紡ぐようだった。
語られ始めたのは、啓介との昔話――楽しい思い出、すれ違いの思い出、つらかった思い出、そして二人だけの秘密。
千春は耳を澄ませながら、カップを握る手に力を入れたり緩めたりしつつ、目の前の話に自然と引き込まれていった。




