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璃子とラーメン1 白いユーストマ

――「福山千春さんですね」


 その声に呼び止められて、千春は歩道の真ん中で足を止めた。

 振り返ると、夕方の光の中にひとりの女性が立っていた。


 黒髪は肩のあたりで静かに揺れ、陽を受けて緑がかった光を帯びている。

 小柄な体つきなのに、どこか張りつめた気配をまとっていた。

 透き通るような肌と、感情の奥を探るような鋭い眼差し――その対照が妙に印象的で、千春は息をのんだ。


「これ、あなたの忘れ物ですよね」


 そう言って彼女が差し出したのは、見覚えのあるマフラーだった。

 淡いグレーの毛糸に、ほつれかけた端。間違いない。先日、啓介の部屋に置き忘れたものだ。


 どうして、この人がそれを持っているのか。

 胸の奥にざらりとした不安が走る。千春がマフラーを受け取ろうと手を伸ばすと、女性はその手をすっと引っ込めた。


「私、幼神璃子おさがみ・りこといいます」

 薄く笑いながら、彼女は静かに言った。

「少し、お話できませんか」


 その声には、柔らかさと冷たさが同居していた。

 小さな体に似合わぬ圧がある。けれど、無視するには何か――引っかかるものがあった。


 どうやら啓介に関係する話らしい。

 千春は息をのみ、胸の奥で小さく覚悟を決めて、うなずいた。


 歩道のざわめきが遠のいていく中、二人のあいだに秋の風が静かに吹き抜けた。






 近くの喫茶店に入り、ふたりは向かい合って腰を下ろした。

 窓際の席には、夕暮れの柔らかな橙色の光が斜めに差し込み、テーブルの上でカップの影が長く伸びて揺れている。


 店内には柔らかなピアノの旋律。

 けれど、その穏やかさとは裏腹に、千春の胸の奥では波が立っていた。


 注文もそこそこに、璃子が口を開いた。

「……啓介と、どういう関係ですか」


 その問いは、まるで刃物のように、淡々と鋭かった。

 千春は思わず姿勢を正す。

「どうって……友達よ。姉弟みたいなものかしら」


「ほんとうに、ただのお友達なんですか?」

「ええ。あなたは?」


 璃子はまっすぐに千春を見据えた。

 その黒い瞳の奥に、感情の揺らぎはほとんど見えない。


「私は、啓介の幼なじみで――愛し合っているんです」


 その言葉が、静かな店内に落ちた瞬間、空気が凍った。

 スプーンの音すら遠くに感じられた。

 千春は、思わずカップの取っ手を握りしめた。


「……そうだったの。啓介くんの恋人なのね」

 言葉を選びながらも、口調は崩さない。

「そんな人がいるなんて知らなかった。啓介くんって、恋愛に興味がないと思ってたから、ちょっと意外だわ」


 璃子の瞳がわずかに細まる。

「あなたは、啓介に恋人がいると聞いて、なんとも思わないんですか?」


 一瞬、意味を測りかねたが、千春は息を吐いて微笑んだ。

「……ああ、私は別に構わないと思ってる。私と啓介くんが付き合っているわけじゃないし」


 その答えに、璃子の目がかすかに揺れた。

 だがすぐに、冷ややかな光を取り戻す。

「本当に嫉妬とか、ないんですか?」


「ええ。啓介くんが幸せなら、それがいちばんよ」


 その瞬間、璃子の表情がきゅっと引き締まった。

 指先が、千春の髪を静かに指し示す。


「……それじゃ、その髪留めはなんですか」


 千春は思わず手をやった。

 白い花を模した小さな髪留め。

 鏡を見るたびに、とてもうれしい気持ちになる――それを、今日も無意識につけていた。


「啓介にお願いして、買ってもらったんでしょう?」


「えっ、そ、そうね……啓介くんに買ってもらったのよ。ちょっと若すぎて、私に似合ってないかしら」


「いえ、それ……白いユーストマですよね」

 璃子の声は低く、静かに降りてきた。

「花言葉は“永遠の愛”」


 ――胸の奥が跳ねた。

(なんでこの子、そんなことまで……しかも、一目で分かるなんて)


 千春の手が、無意識に髪留めに触れ、指先でそわそわと撫でる。心臓が急に跳ね、息が少し詰まる。喉の奥で言葉が引っかかり、どう返せばいいのかが瞬時にわからない。


「い、い、いや、そ、それは……ほら、ほら、“良い語らい”って意味でしょ?」

 声は少し高く、震えが混じってしまう。頬が熱くなり、耳まで赤くなった気がした。カップに目を落としてみるものの、視線は落ち着かず、何度もキョロキョロと辺りを見回す。


「確かに“良い語らい”もあります。でも、白のユーストマは別です。結婚式でもよく使われますよね」


 言葉の重みが、胸にじんわりと圧をかける。千春は肩を小さくすくめ、手のひらをひらひらと動かしてごまかす。心の中で「違う違う、そういう意味じゃないのよ」と否定しなければ、そう必死に叫んでいた。


「わかった、わかった、ごめんなさい。そういう意味もあるのよね」

 千春は苦笑いを浮かべながら、指先で髪留めを弄り、視線を逸らした。心臓はまだ早鐘を打っていた。

「でもね、信じて。決して啓介くんと付き合いたいとか、独り占めしたいとか、そういう意味じゃないから」


 しばしの沈黙。

 店内の柔らかなピアノの旋律が、かえって重苦しい間を引き立てる。

 千春はカップに触れたまま、息を止めていた。


 璃子はゆっくりと息を吸い込み、まるで自分の心を落ち着けるかのように目を伏せた。

 沈黙が長くなるほど、千春の胸は早鐘を打ち、唇の奥が乾く。


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