ムッシュと鯛飯5 心理的破綻・再起不能
静まり返った部屋に、ふと、啓介の声が落ちた。
その声音はいつも通り穏やかで、まるで何でもない世間話のようだった。
「食事なら、留学しなくてもできるだろ。――そのさっきの花沢さん……美咲ちゃんと、今度釣りに行く約束をしているんだ」
一瞬、時間が止まった。
ムッシュの脳内で、何かがプツンと音を立てて切れる。
(…………は?)
頭の中で、さっきまで心地よく鳴っていた満腹の鐘が、ガシャンと倒れる。
景色の色が、ふっと褪せた。
美咲と――釣り?
いや、そんな偶然あるか? それ、もしかして……デートってやつじゃないか?
胃の奥で、さっきの鯛飯が逆流しかける。
いやいやいやいや、落ち着けムッシュ。啓介はそんなタイプじゃない。料理が趣味のフレンドリーな男、それだけだ。
……そう言い聞かせようとした矢先、追い打ちの一言が静かに投下された。
「それから、釣ってきた魚で料理して、一緒に食べることにしているんだよ」
――ドゴォォォン。
見えない衝撃波がムッシュの内側を吹き飛ばした。
もう立っているのがやっとだった。
視界の端で、世界がグラグラと揺れる。
(……ああああああ……)
心の中で悲鳴があがる。
妄想が洪水のように押し寄せる。
――美咲が笑いながら釣り糸を垂らしている。
――啓介が横で優しくアドバイスしている。
――夕暮れ、釣った魚を焼いて、ふたりで笑っている。
――美咲が笑いながら、濡れた髪をかき上げる。
――見つめ合い、呼吸が速くなり体温まで上がっていくのがありありと見える。
――夕暮れの風に頬を寄せ、啓介がその肩を――。
ああああああああ、もうそれ恋人じゃないか。俺のときより楽しそうじゃないか。
寝取られだ、完全に寝取られだ。
胸の奥で、何かが音を立てて潰れた。
それはプライドなんかじゃない。もっと、もっと、みっともない何かだ。
嫉妬で、心臓の裏がざらざらに削れていく。
顔の筋肉がうまく動かない。
笑顔を作ろうとしても、引きつった口元が震えるばかりだった。
「……そ、そっか。……楽しそうだな」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
啓介は何も気づかず、ただ微笑みながら「うん」とだけ答えた。
ムッシュはそれ以上言葉を続けられず、湯飲みを置き、ふらりと立ち上がる。
足元から力が抜けるような感覚。
自分の身体が自分のものではないようだった。
気づけば、玄関の扉を開け、夜風に当たっていた。
どう別れの挨拶をしたのかも、どうやって帰ってきたのかも覚えていない。
ただ、胸の奥に、ぐしゃぐしゃに潰れたプライドの残骸だけが残っていた。
アスファルトを踏むタイヤの音が、やけに遠くに聞こえる。
世界が、ぼやけていく。
頭の中には、まだあの言葉がこだましていた。
――「美咲ちゃんと、釣りに行く」
ああ……やめてくれ。
ムッシュのライフはもうゼロだ。オーバーキルだ。
しかも、啓介の笑顔が、何度も何度も脳裏に再生される。
まるで、リスポーン・キルされるように、ムッシュが復活するのを待ち伏せして再度倒すのを、延々と繰り返しているのだ。対戦ゲームで言えばマナー違反だ。
とはいえ、ムッシュに同じ苦痛を繰り返し与え、心を打ちのめし続けているのは、他ならぬ自分自身の想像の産物に過ぎなかった。
そして、ムッシュは――
今夜、自分が本当に負けたことを、痛いほど理解したのだった。
後日談――
留学の日。空港の待合室で、ムッシュは胸を高鳴らせながらスマートフォンを取り出し、向こうで会う予定の美女とのやり取りを確認していた。
心の中で、勝利の予感に浸る――啓介よりも先に、彼女の関心を自分のものにできるはずだ、と。
しかし、通知を確認するや否や、顔色が一瞬で変わる。
――「あれ?」
そこにあったメッセージは、期待を打ち砕く現実を伝えていた。
「ごめんなさい、もう母国に戻りました」
目の前の文字が、まるで冷たい刃物のように胸を刺す。
思わず息を呑むムッシュ。
食事やデートどころか、会うことすらできない。
留学先での“勝利プラン”は、一瞬にして瓦解したのだ。
心の中で、小さな自嘲が湧き上がる。
――そうか、俺はまた空回りか……。
せっかくの目論見も、完璧に裏目に出た。
同時に、啓介の穏やかな笑顔や、美咲と釣りを楽しむ情景が頭をよぎる。
あの時、負けたのは単なる一瞬の敗北じゃなかった――これが現実の序章だったのだ、と痛感する。
ムッシュは、空港の大きな窓から差し込む光に目を細めながら、ため息をつく。
自分の計算と見栄は、時に己を欺くだけだ。
そして、逆転勝利を渇望していた心は、もろくも崩れ去っていった。
留学先の新しい生活は、確かに可能性に満ちている。
だが、六士悠司朗に残されたのは、思い描いていた“勝利の栄光”ではなく、静かに胸を締めつける虚しさだけだった。




