ムッシュと鯛飯4 勝てない男の優雅な午後
ムッシュの中に、微かなざらつきが混じる。
それは、美咲が見せたあの笑顔を思い出した瞬間だった。
彼女がアパートの通路で啓介に手を振っていた――その情景が、まるで柔らかい光の中に小さな影を落とすように、ムッシュの心に滲み込む。
無意識のうちに、眉がほんのわずかに寄る。
(あの笑い方……昔、俺の前でもあんな顔してたっけか)
心の中に、一滴の黒い染みが落ちるようだった。
美咲の笑顔を思い出すほど、それを引き出したのが自分ではなく啓介であるという事実が、胸の奥でじわじわと痛みに変わる。
理屈ではない。
もう終わったことだと、何度も心の中で整理してきた。
だが、啓介があの穏やかな表情で美咲に接している光景を思うと、どこかで自分の中の男の部分が反応してしまう。
――こいつのほうが上手くやっている。
――こいつのほうが、自然に人を惹きつける。
そんな考えが、胸の底をかすめるたび、ムッシュは無意識に唇を結ぶ。
嫉妬という言葉を自分に当てはめるのが、どうにも癪だった。
だがそれは確かに、ムッシュの心の中で静かに息づいている。
――どこかで、啓介に勝ちたいと思っている。
心の深さで、人としての器で。
その気持ちは決して口には出さない。
だが、胸の奥にかすかに灯る闘志のような熱を、ムッシュは確かに感じていた。
ムッシュの胸の奥では微かなざわめきが消えず、心のどこかが落ち着かない。
――こいつのほうが、何かを掴んでいるように見える。
そんな感情が、静かな幸福の表面をかすかに揺らす。
どうすれば、自分が上だと――勝っていると、感じられるのか。
ムッシュはゆっくりと煙草を取り出しかけ、思いとどまる。代わりに、心の中で小さな計算を始めた。
(……そうだ。留学の話をすればいい)
脳裏に、海外の景色と、リモート交流会で見たあの女性の顔が浮かぶ。
画面越しに微笑んでくれた、あの艶やかなブロンドの美女。
ほんの短いやり取りだったが、彼女の反応には確かな好意の気配があった。
英語混じりの軽い冗談に笑ってくれた瞬間――彼は確かに、手応えのようなものを感じた。
それを思い出すと、ムッシュの口元にわずかな笑みが浮かぶ。
(あの話をしてやれば、啓介も「羨ましいな」と言うだろう)
(そうだよ、こいつなんかより、俺のほうが広い世界を見てるんだ)
そう思うと、胸の中に小さな優越感が湧き上がった。
まるで、自分の中の空洞を一瞬だけ満たすような、軽い高揚感。
それは幸福とは違う、もっと脆い、ガラス細工のような感情だった。
――ムッシュは何気ない顔を装いながら、啓介に切り出した。
「そういえばさ、今度の留学の話、もう少し進んでてね」
啓介が「へえ、いいね」と笑って応じた瞬間、ムッシュの声が自然と弾んだ。
「オンライン交流会で知り合ったんだ、向こうの大学の留学生。すごく感じのいい女性でさ。
向こうに行ったら、お洒落な食事を楽しむデートくらいできるかもしれない」
言いながら、自分の言葉の裏にある狙いを自覚していた。
――どうだ、羨ましいだろう。
心のどこかで、そう思っている。
だが、啓介はただ穏やかに笑い、「いいね。ムッシュ、似合いそうだよ」とだけ言った。
その口調に、嫉妬も羨望もなかった。
むしろ、心からの祝福に聞こえた。
その瞬間、ムッシュの中に、かすかな虚脱が走る。
優越感という名の泡が、音もなく弾けた。
ムッシュは笑顔を崩さなかったが、当然内心では焦っていた。
啓介の表情は、何ひとつ動かない。
自分が仕掛けた話題に、もっと羨望や嫉妬の色をにじませてほしかった。
だが啓介は、ただ穏やかに、変わらぬ調子で料理を片付けているだけだった。
(……おかしい。もっと「いいなぁ」とか、「すげぇな」とか言うはずだろう)
心の中でそう呟きながら、ムッシュは最後の手を打つ決心をする。
強気な笑顔を作り、軽く肩をすくめて言った。
「羨ましいだろ」
挑発めいた響きが、部屋の空気に小さく跳ね返った。
啓介は一瞬だけ顔を上げたが、すぐに目を伏せ、まるで何でもないことのように、短く返した。
「んっ、別に」
それは冷たくも、暖かくもない声だった。
ただの風のように、通り過ぎていく音。
ムッシュの笑みの奥で、胸のどこかがヒリついた。
(まだだ……まだ押せる)
彼はさらに強がりの笑みを深くして、少し前のめりに問いかける。
「……悔しいんじゃないのか?」
言いながら、ムッシュの心臓は自分の声に合わせるように速くなる。
挑発ではあるが、同時に哀願にも似た響きが混ざっていた。
――せめて、俺を見ろ。俺に反応しろ。
だが啓介は、食器を揃えながら、ゆったりとした口調で言った。
「会って話して、一緒に食事してみないと、羨ましいかどうかなんてわからないだろ」
その声には、怒りも嘲りも、羨望もなかった。
本当にただ、思ったことをそのまま言葉にしただけ――そんな響きだった。
だからこそ、その一言がムッシュの胸の奥に重く突き刺さる。
心の奥に、空洞のような感覚が広がった。
勝ち誇るために振りかざした自慢話も、啓介の前では意味をなさない。
啓介の穏やかさは、嫉妬や勝ち負けの外側にあるものだった。
ムッシュは強がりの笑顔を張りつけたまま、ゆっくりと視線を伏せる。
胸の奥で、言葉にならない敗北感が波紋のように広がっていく。
(――ああ、俺はもう、勝てないんだ)
その瞬間、自分が何と戦っていたのか、ようやくうっすらとわかる気がした。
勝とうとしていた相手は、啓介でも、美咲でもない。
他ならぬ、自分自身の空虚だったのだ。




