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ムッシュと鯛飯3 鯛飯に心を奪われる

「さて、できあがったぞ」

 啓介は土鍋の蓋をゆっくりと外した。


 ふわりと立ち上る鯛の出汁の香り。

 その香りが空気に混ざった瞬間、ムッシュの胸の奥で燻っていた熱が、ふっと形を失った。

 さっきまで絡みついていた嫉妬の影が、湯気に溶けていくような感覚――それは、自分でも意識しないほど自然だった。


 目の前には、大きな鯛がどんと鎮座し、その下にふっくらと炊き上がった米が顔を覗かせている。

 湯気がゆらめくたび、出汁の香りが甘く鼻をくすぐり、理屈のすべてをやさしく押し流していく。


 啓介が穏やかに微笑みながら言う。

「鯛飯だよ。留学前のお祝いだから、鯛料理にすることにした。インパクトもあるから、記憶に残るだろうし、日本の思い出には丁度良いだろう」


 その言葉と料理の豪華さに、ムッシュの胸は高鳴る。

(……俺のために作ってくれたのか……)


 一瞬、誇らしさが胸を満たす。だがそのすぐ下で、別の感情が顔を覗かせる。

(――いや、違う。美咲の前だから、見栄を張ってるだけかもしれない)

 感動と猜疑、優越と劣等。その境界が曖昧に溶け合い、ムッシュの心の温度は定まらなかった。

 目の前の鯛飯が、単なる食事以上の存在として、ムッシュの心に複雑な感情を呼び起こす。



「熱いうちにどうぞ」

 啓介はバランス良く鯛をほぐして茶碗に盛りムッシュへと差し出した。


 ムッシュはわずかに背筋を伸ばし、鯛飯を箸で掴む。

 口元に運ぶ瞬間、心の中で小さな言い訳を繰り返す。

(いや、感動なんて別に……これはただの料理だ……)


 だが、ひと口、口に運んだ途端、思わず目を細める。

 ふっくらとした米と、鯛の香ばしさが口の中でほどけ合い、出汁のうま味が舌の奥にじんわりと広がっていく。

 その一瞬、ムッシュの中から言葉も理屈も消えた。

 ただ、温かく満たされていく幸福感だけが残った。


 ムッシュは慌てて箸を止め、口の端にかすかな笑みを作る。

「……う、うまいな」

 短く、簡単に、まるで無関心を装うように言葉を吐き出す。


 しかしその瞳の奥は、確実に驚きと感動で揺れている。

(……こんなに……美味い……なんで、俺のために……)

 自分の心の正直さを認めたくないムッシュは、思わず自己正当化する。

(いや、これは礼儀だ……留学前だから礼を尽くしただけだ……)

 だが、その囁きも次のひと口の美味しさで静まり、ムッシュはしばし、料理の味だけに心を奪われた。

 胸の奥にくすぶる嫉妬や羨望の火種は、かすかな温度を残したまま、まだ静かに燻っている。

 それでも、目の前の鯛飯に没頭している間だけは、感情が一時休止し、心の中はまるで味の熱で満たされていた。




「さあ、次はこれだ」

 啓介がそう言うと、ムッシュの視線は自然に手元に集まる。

 お椀に汁がよそわれ、蓋が丁寧に開けられる瞬間、湯気とともに上品な香りが立ち上った。


 ふわりと漂うのは、海の香り、鯛のうま味が滲み出た豊かな出汁の匂いだ。

 鼻をくすぐるその香りに、ムッシュは思わず軽く息を吸い込む。


「うしお汁、鯛のお吸い物だよ」

 啓介の声が静かに響く。

「丁度良い脂のうま味やあま味があって、上品で美味いぞ」


 おそるおそる口に運ぶと、最初に広がるのは、鯛のふくよかな香りとあま味。

 次いで脂のうま味が舌を包み込み、後味にほのかな塩味が残る。

 味のバランスが絶妙で、どこか落ち着いた“上品さ”を感じさせる。


 ムッシュは目を細め、思わず小さく唸る。

「……これは、うまい」

 口の中に広がる余韻を楽しみながら、感動の色がわずかに表情に出てしまう。

 これまで、自分の舌に自信を持っていたムッシュであるが、啓介の料理の完成度に、思わず敬意を抱かざるを得なかった。


(感動ものだ……)

 心の中でつぶやくムッシュ。彼でも素直に舌を打たざるを得ない味なのだ。




「最後はこれだ」

 啓介がそう言いながら差し出したのは、茶碗によそわれた鯛飯の上に、先ほどのうしお汁をかけた一品だった。

 湯気が立ち上り、香りがふわりと鼻をくすぐる。上品な魚の香りに、ご飯のうま味が混ざり合い、芳醇な匂いを漂わせる。


「あんまりお行儀がいいものじゃないけど、僕はこれがすきなんだよ。出汁茶漬けのようなものだと思って食べてくれ」


 ご飯の上には三つ葉と細かく切られた海苔が散らされ、茶碗の縁にはワサビと梅干しが控えめに添えられている。

 見た目はシンプルだが、彩りのコントラストが美しく、香りと相まって食欲をそそる。


 ムッシュは箸を手に取り、慎重にひと口すくう。

 熱い出汁がご飯に染み込み、鯛のうま味が口の中でふわっと広がった瞬間、思わず息を呑む。

 三つ葉の清涼感、海苔の香ばしさ、ワサビのわずかな辛味、梅干しの爽やかな酸味――ひと噛みごとに、味の調(しらべ)が踊る。


(……これは、……衝撃的だ)

 ムッシュは心の中で小さくつぶやいた。

 単なる“お茶漬け”だろうと侮っていた自分が恥ずかしくなるほどの完成度。

 口に運ぶたびに味の階調が変化し、茶碗の中で小さなドラマが展開されるようで、驚きと感動が胸の奥に静かに満ちていった。


 その美味さに、自然と顔がほころびる。

 一口ごとに、これまでの自分の自負や見栄がどこか遠くに置き去りにされ、ただ「美味い」という純粋な感覚だけが残る。


 茶碗を見つめながら、ムッシュは思わず心の中で呟いた。

(……啓介、やるな……)



 出汁茶漬けを二度、三度とおかわりするうちに、ムッシュの腹はほどよく満たされていった。

 温かい出汁が胃にゆっくりと染み渡り、鯛のうま味とご飯のあま味が余韻のように口の中に残る。


 箸を置いた後、ムッシュは背もたれに体を預けて深く息をつく。

 目を閉じると、柔らかな満腹感が心まで満たし、どこか遠くの雑念さえも洗い流されていくようだった。

 体の芯からほわりと温かさが広がり、自然と口元が緩む。


(……これ、幸せってこういうことか)

 心の中でつぶやき、ほんの少し頬を染める。

 啓介の穏やかな微笑みと、丁寧に作られた料理の香り、味わい。

 それらが重なり合い、ムッシュの胸の奥に、小さな幸福の波が静かに広がっていく。

 満腹感だけではない、穏やかで豊かな満足感――それは、久しぶりに味わう純粋な幸せだった。


 窓から差し込む柔らかい光が、部屋の隅々まで温もりを運び、ムッシュの心と体を、まるで日の光そのものに包まれたかのように撫でていく。

 箸をそっと置き、椅子にもたれる。目を半ば閉じ、口の中の余韻に身を委ねると、味覚と時間がゆっくりと絡み合い、世界は外側から切り離され、内側の幸福だけが静かに息づく。

 心臓の鼓動と、胃の中で広がる満足感が、まるで共鳴する音楽のように静かに反響する。

 すべては、ただ「うまい物を食べる」という単純な行為の中で、永遠にも似たひとときへと変わったのだった。



――しかし、ふと、脳裏の片隅に先ほどの美咲の姿がよぎる。


 アパートの通路で笑顔を見せ、啓介に手を振る彼女の姿。

 その光景は、温かい満腹感に微かな棘を差し込む。

(――なんで、あいつが……あいつが……)


 ムッシュの胸の奥で、ふたたび小さな想いがざわめき始める。

 幸福感に浸ろうとするたび、嫉妬心が静かに、しかし確実に顔を出す。

 かつて自分が振った女性が、あんな風に他の男と自然に親しげにしている――その事実が、心の奥で重くのしかかる。


(――あいつの笑顔、まるで俺に見せつけるためのようだ)

 胸の奥に、ほんのわずかなざわつきが差し込み、心臓が微かに高鳴る。

(いや、いや、別に……そういうことじゃない)

 ムッシュは自分に言い聞かせる。啓介と美咲は付き合っているわけではない――ただ同じアパートに住んでいるだけだ、と。

 しかし、理性で納得させようとすればするほど、嫉妬心は静かに、しかし確実に膨らんでいく。


 温かい満腹感と、心の片隅でくすぶる嫉妬――

 両方が同時に存在する奇妙な感覚に、ムッシュは少しだけ居心地の悪さを覚える。

 だがその居心地の悪さすら、生々しく、自分が確かに「生きている」証のように感じられた。


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