ムッシュと鯛飯2 嫉妬という名の小さな火種
美咲がアパートを出ていくのを、ムッシュは物陰からじっと見送っていた。
姿が完全に見えなくなってから、ようやく息を吐く。
「……ふう」
軽く周囲を見渡し、誰もいないことを確認すると、何事もなかったかのように歩き出した。
胸の奥では、まだ何かがチリチリと燻っている。
啓介の部屋の前に立ち、呼び鈴を押す。
扉が開くと、啓介は明るい笑顔で出迎えてくれた。
「おー、来たな。まあ上がれよ」
その声に、一瞬だけムッシュの緊張が和らぐ。
啓介の部屋は思ったよりも整っていて、玄関から漂う魚の出汁の香りが温かく鼻をくすぐった。
コンロの上では、土鍋から湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。
「いい匂いだな」
ムッシュはそう言いながらも、心のどこかで落ち着かない。
あの通路の光景が頭から離れないのだ。
啓介は特に気にした様子もなく、「ちょうどいいところだ。すぐに仕上がるから座っててくれ」と、台所に向き直った。
ムッシュは、部屋に足を踏み入れると、まずその清潔感に気づいた。
男子大学生の一人暮らしにしては、随分と整理整頓が行き届いている。
机の上には、教科書やノートが整然と並び、ペン立ても無造作ではなく、使いやすそうに配置されていた。
カレンダーやメモは無駄な色使いもなく、どこか落ち着いた印象を与えている。
(ふん……なるほどな、こういうところが啓介の性格を表しているのだろう)
ムッシュは心の中でそう呟く。口には出さず、さりげなくソファに腰を下ろす振りをして周囲を見回す。
棚には、数冊の料理本と小説が丁寧に立てられ、表紙は埃一つない。
キッチン周りも驚くほど清潔で、鍋や皿はきちんと収納され、調理道具の位置も機能的に揃えられている。
(普通、男子大学生の部屋なら、服は床に散乱、食器は山積み、ゴミ箱は溢れかえってるのが常だろうに……)
ムッシュは鼻で笑いながらも、どこか感心してしまう自分がいた。
壁際には、シンプルな絵や写真が数点飾られ、個性を主張しすぎないセンスが漂う。
カーテンも淡い色で、光を柔らかく受け止め、部屋全体に落ち着いた雰囲気を作り出していた。
もちろん、ムッシュはそれを“自分に比べればまだまだ”という視点で見ている。
しかし、無意識に整えられた空間の居心地の良さは、彼の評価を否応なく引き上げる。
(……悪くはない。いや、むしろ、感心する部分もあるな)と、上から目線を保ちながらも、少し舌を巻くムッシュであった。
どうしても気になって、ムッシュはそれとなく尋ねた。
「そういえば、さっきアパートの通路で見かけたけど……美咲って、ここの住人なの?」
啓介は、まるで何でもないように頷いた。
「そうそう。同じアパートなんだ。たまに顔合わせるくらいだけどね」
それから、少し柔らかい口調で続ける。
「しばらく前、彼氏に振られて落ち込んでたみたいでさ。だから松茸ご飯をたべてもらったんだ。そしたらね、少し元気になってくれて、なんか嬉しかったな」
――その言葉を聞いた瞬間、ムッシュの中で何かが止まった。
耳の奥で、風の音がやけに大きく響く。
(……彼氏に、振られて? それって、俺のことじゃないか? 俺は悪くない。あれが最善の選択だったんだ)
頭は必死に否定の言葉を並べ立て、理屈を盾に逃げ道を探す。
けれど胸の奥で鳴る鼓動だけは、静かに、しかし確かに真実を告げていた。
歪んだ罪悪感が心の底に沈殿していく。
その濁りの中から、ふと別の感情が浮かび上がった。
――それは、世間で言うところの“嫉妬”というやつだった。
啓介の――松茸ご飯をたべてもらった――という話の欠片から生じた。
(普通、同じアパートだからって、落ち込んでいたからって、松茸ご飯を奢るか?)
(まさか、啓介って、美咲と……付き合ってたりする? まさかな、そんなまさか)
心の中で否定の言葉を重ねるほど、胸の奥に広がるざらついた痛みが増していった。
それを悟られまいと、ムッシュはわざと明るく笑った。
だが笑顔は、笑顔ではなく――自分の心を必死に押さえつける鎮痛剤のようにしか見えなかった。
「へえ、そっか。……料理で人を元気づけるなんて、らしいな、啓介」
笑顔の裏で、彼の心はぐらぐらと揺れていた。
ムッシュは思わず息を止めた。
「もしかして、啓介って、美咲と付き合っていたりする?」
その言葉は、口に出すと自分の不安を増幅させる。心臓が少し速くなる。冷静を装おうと必死で目を逸らすが、頭の中は渦巻いていた。
啓介は軽く首をかしげ、微笑みながら答える。
「付き合うって、あれか、恋人になるって事か? いいや、別にそういうことじゃないな」
ムッシュの胸に、微かな衝撃が走った。
啓介の口調は穏やかで、ただの確認のように聞こえたはずだった。
だがその声に潜む、無邪気な自信と揺るぎなさ――それが、妙にムッシュの神経を刺激する。
胸の奥で何かがピリリと弾け、心臓がほんのわずかに早鐘を打った。
(……あれ? いや、そうか。別にそういうことじゃない……か)
頭ではそう理解して、冷静を装おうとする。
けれど胸の内側では、別の現実が静かに進行していた。
心の奥にとどまっていた嫉妬が、まるで小さな火種のように、内側で熱を帯びながら静かに広がっていく。
その熱は指先まで伝わり、テーブルの角に触れた手に、知らず力がこもった。
息を整えようと深く吸い込む。だが、空気はいつもより重く、どこか鉄の味がした。
理性が光を当てようとすればするほど、影の輪郭は濃くなる。
美咲が笑っている――その表情は、少し前まで自分だけが知っていたものだった。
今、その笑顔を啓介がごく自然に受け止めている。
まるで、「おまえの居場所は、もうここにはない」と告げられたような気がした。
ムッシュは、自分を慰めるために、無理やり理屈を並べた。
(俺が振ったんだ。あいつはもう俺の女じゃない。何も失っていない)
だがその言葉は、空洞の中で何度も反響するだけで、胸のざわめきは収まらない。
鼓動の速さに合わせて、手のひらにじわりと汗がにじんでいく。
ムッシュは仕方なく視線を落とし、テーブルの上を見つめた。
手元の何かに触れるでもなく、ただ目を伏せることで、かすかな動揺を隠そうとする。
胸の奥では、嫉妬と焦りがゆっくりと絡み合い、冷たい炎のように形を持ちはじめていた。
唇の端がわずかに引きつり、ムッシュは深く息を吐く。
その息は熱を帯びていたが、吐き出したところで、胸の奥の火種は、なお消えずに燻っていた。




