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ムッシュと鯛飯1 六士悠司朗

――彼の話をしよう


 彼の名は、六士悠司朗むつし ゆうしろう

 本人いわく、「古風で品があり、しかも国際的に通用する名前」らしい。

 周囲の同級生たちは、彼を“ムッシュ”と呼ぶ。洒落た響きだと本人は信じて疑わないが、その実は――半ば冷やかしのあだ名である。


 今朝も彼は、鏡の前で髪の流れを確かめていた。

 ドライヤーの風を手で受け止めながら、わずかに頬を緩める。

「送別の場だし、少しは品よくしておくか」

 自分の映る姿に、軽くウインクを飛ばす。

 黒いタートルにグレーのジャケット、そこに古着屋で見つけたという細身のスカーフを無造作に巻く。彼にとって“無造作”ほど計算されたものはない。


 町を進む足取りも軽い。街路樹の影が歩道にまだらに落ちる中、サングラスを外して胸ポケットに差す。

 通りすがりの女子学生の視線を、彼は“確信的に”感じ取る。

「やっぱり、見るよな」

 心の中でつぶやき、どこか芝居がかった仕草で微笑む。実際、誰も彼を見てはいないのだが。


 彼は文学部の三回生。専攻はフランス文学。ボードレールやランボーの言葉を、必要もない場面で引用する癖がある。

「Je est un autre.」――そんな呟きを、教室の隅で真顔で言う。

 隣の学生がペンを止め、苦笑いを浮かべても、彼は気づかない。

 ムッシュにとって世界とは、常に“舞台”なのだ。

 観客が笑っていることに、まだ気づいていないだけで。



 ムッシュは来月からフランスへの留学を控えている。

 本人は「新しい挑戦だ」と語り、周囲には「自分を試す旅」と宣言している。

 だが、彼の“再スタート”は、あまりに独りよがりだった。


 先日、五年間付き合った彼女を、あっさりと振ったのだ。

 理由は「環境が変わるから」。

 その言葉の裏には、さまざまな計算や逃避が潜んでいたのだが、そんなことはおくびにも出さない。

 そして、彼は胸を張ってこう言い切った。

 ――「彼女のためを思っての決断だ」と。


 滑稽なほどの正義感に酔っていた。

 別れ際、彼女の顔をまともに見ることもなく、「お互いに新しい人生を歩もう」と言い残して立ち去った。

 その背中を、彼女がどんな表情で見送っていたのか。

 彼は、いまも知らない。いや――知ろうとすらしていない。


 周囲の多くは、あの別れ話をきっかけに心の中でこうつぶやいた。

 ――天罰でも当たればいいのに。


 それでも彼は、今日も鏡の前でスーツケースを開け、パリの街を歩く自分を想像している。

 セーヌ川沿いでワインを傾ける自分。

 アパルトマンの窓辺で、ユーゴーの小説を読む自分。

 世界が彼を待っていると、本気で信じているのだ。




 啓介と再会したのは、数日前の中学の同窓会だった。

 久々の再会に、場はそこそこ盛り上がったが、ムッシュはどこか“上から目線”でその場を眺めていた。

 ――みんな、変わってないな。

 ――俺だけが、少し先を行ってる。

 そんな思い込みが、彼の表情をゆるませていた。


 その席で、啓介が何気なく言った。

「じゃあ、留学前に一度うちに来いよ。送別の飯、作ってやる」

 ムッシュは少し驚いた。

 啓介の料理の腕は、同窓会の話題でも評判だったが、まさか自分を招くとは。

 “庶民的なやつ”だと思っていたが、どこかでその誘いが嬉しくもあった。


 そして今日、秋の陽が傾き始めた街を、ムッシュは軽やかに歩いていた。

 道すがら、街路樹の葉が風に揺れ、どこかもの寂しい。

 その静けさのせいか、ふと、ある考えが頭をよぎった。


「……このアパート、美咲の住んでるところじゃなかったか?」


 思わず足が止まる。

 彼女――五年付き合って、一方的に別れを告げた女性。

 まさか、偶然鉢合わせる。そんな小説みたいなことはないだろう。

 だが、彼の中で、わずかな不安が芽生える。


 ――もし、顔を合わせたら。

 ――何を言えばいい?


 心の奥に、うっすらと焦りが滲む。

 だが、それをすぐに打ち消すように、彼は胸を張って歩き出した。


「まぁ、大丈夫だろ。偶然なんてそうそう起きないさ」


 軽く笑って、ポケットに手を入れる。

 それでもどこか、靴の音がいつもより響く気がした。

 風の匂いも、夕暮れも、どこか落ち着かない。


 ――ムッシュはまだ知らない。

 この訪問が、彼にとって“最初の天罰”になることを。




 アパートの角を曲がる前、ムッシュはふと立ち止まった。

 なんとなく――そう、“念のため”だ。

 別にやましいことがあるわけではない。

 ただ、ほんの確認。もし万が一、美咲と鉢合わせしたら気まずい、というだけの話だ。


 そう自分に言い訳しながら、アパートの通路をそっと覗き込んだ。

 ……その瞬間、息が詰まった。


 そこに、美咲がいた。

 見間違えるはずもない。柔らかな髪、落ち着いた服の色。

 そして、今――楽しそうに笑っている。

 しかも、その相手が。


 啓介。


 あの啓介だ。

 つい数日前、自分に「送別の料理を作る」と言ってくれた、あの男が。

 どういうことだ? なぜ美咲と? なぜあの距離感で?


 胸の奥に、チリ、と小さな熱が走った。

 ほんの僅かに残っていた罪悪感が、みるみるうちに変質していく。

 ――裏切られた、か?

 ――いや、違う。もう彼女じゃない。俺が別れを告げたんだ。

 ――だが、なんだこの気分は。


 ムッシュは思わず顔を背け、建物の陰に身を寄せた。

 まるで、悪事を働いた者のように。

 通路の奥では、美咲が笑顔で啓介に手を振り、軽やかに出口へ向かってくる。

 風がふっと吹き抜け、彼女の髪が陽の光を受けて揺れた。

 その姿を、ムッシュは陰から見送る。


「……まいったな」


 口の中で小さく呟く。

 どこが“まいった”のか、自分でも分からない。

 ただ、その胸のざわめきだけが、妙に現実的だった。


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