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千春とパエリア5 そして、始まりのモンブラン

――前回のあらすじ(刺激のある内容を飛ばしてしまった方へ)

啓介に、とんでもない方法でアピールをした千春でしたが、啓介の反応は、彼らしい天然な反応を示していて、逆に啓介との絶望的な距離感を認識してしまった。

さらに運の悪いことに、些細なことで啓介と喧嘩をしてしまった千春だったのでした。

結局、私はそれから啓介に会うのをやめた。

初めのうちは、距離を置けば自分の心も落ち着くだろうと思ったのだ。


しかし、日が経つにつれて、事業のほうに異変が訪れる。

小さなミスが重なり、かつて順調だった仕事の歯車が少しずつ狂い始めたのだ。

初めは運が悪いだけかと思ったが、気づけば業績は急速に悪化し、倒産寸前にまで追い込まれていた。


このままではいけない。私は無我夢中で仕事に取り組んだ。

どんなに改善案を出そうが、どんなに努力しようが、一度狂ってしまった歯車は元には戻らない。

そうしていくうちに、心も体も疲弊していき、なぜ自分が仕事をしているのかすらわからなくなってしまったのだ。


「もう……諦めようか」

私はそうつぶやき、目を伏せた。

諦めの言葉を呑み込みながら家までの道を歩いていたそのとき、ふと風が頬を撫でた。

――パエリアの香り。

啓介の部屋を初めて訪れた日の記憶が、胸の奥で静かに揺れた。


会いたい――そう思った瞬間、もうじっとしていられなかった。

胸の奥からせり上がってくる衝動は、理屈を超えていた。

街路樹の幹にそっと手をつき、体を支えながら深く息を吐く。

それでも、心の奥のざわめきは消えず、握りしめた拳が少し震んだ。


啓介のアパートへ急ぐ。

夜の風が頬を撫でる。冷たいはずの風も、胸の熱にかき消されていく。

街灯の下、歩道に伸びる影は頼りなく揺れ、心細さをそのまま映しているようだった。


――昔のように笑ってくれるだろうか。

――何もなかったかのように、また迎えてくれるだろうか。


心の奥底でそんな想いが何度も繰り返される。

けれど、同時に「もう二度と同じではいられないのでは」という恐怖も押し寄せ、胸を締め付ける。


信号を待つわずかな時間でさえ、もどかしくてたまらない。鼓動は足早なリズムに合わせて乱れ、胸の奥を打ち続ける。まるで身体の全てが「早く彼に会いに行け」と急かしているようだった。


気がつけば、私は息を切らせながら彼のアパートの前に立っていた。

暗がりに包まれた建物の輪郭は、以前と何一つ変わらない。なのに私の心だけが激しく揺れていた。


震える指でインターホンを押す直前――

「昔のようにできますように」

そんな祈りが、唇からこぼれるほどの鮮やかさで胸に浮かんでいた。


インターホンを押し、扉が開くと、目の前にいたのは、昔と全く変わらない啓介だった。

柔らかい笑顔、自然な立ち振る舞い、肩の力が抜けた雰囲気

恥ずかしくなるほど大胆にアプローチしても思いを返してくれなかった彼。

初めて喧嘩をして、それ以来会わなかった彼。

そんな長い間、会わなかった時間の隔たりなど、まるで存在しなかったかのように、啓介は自然に私を迎え入れる。


気まずさや戸惑いを覚える私に、啓介は穏やかに言った。

「千春さん、久しぶりですね。どうしたんですか?」

私はは思わず立ちすくむ。


その声は、何もなかったかのように穏やかで、初めて会ったときの優しさそのままだった。

その瞬間、長い間積もっていた距離感が、一気に縮まる感覚があった。

いろいろあったはずなのに、啓介は自然に接してくれる。


心の奥で小さく息をつき、懐かしい安心感に包まれた。

やはり、啓介は変わらない存在だったのだ、と改めて思い知らされる。


あの時、もし私が距離を置かずに、素直に啓介と向き合っていたなら――

今のように業績が傾き、孤独と焦燥に押し潰されそうになることもなかったのだろうか。


けれど、私にはそれができなかった。

心の奥底で恐れていたのは、拒絶の痛みと、失うかもしれないという不安だった。


今、目の前の啓介は変わらず優しく、何事もなかったかのように振る舞う。

その姿を見ると、温かさに包まれる一方で、胸の奥に淡い哀愁が漂う。


私が抱えていた想い、行き違い、すれ違い――すべては、時の流れの中で静かに色褪せ、遠くへと流れていく。


ああ、こんなにも大切な人の傍にいながら、過去の私の選択が、私の未来を少しだけ遠ざけてしまったのだ。

それでも、今こうして再会できたこと――それだけでも、心の片隅にかすかな光が残るのを感じる。


切なく、そして儚い――それが、私の胸に残った、啓介という存在の形なのだ。




「あっ、ちょうど良かった。いまモンブランがあるんですよ。よかったら食べていきませんか?」


啓介の優しい言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

私は自然に微笑み返し、アパートの中に招き入れられた。


テーブルに並んだモンブランは、まるで小さな花束のように美しく、甘い香りが部屋中に漂う。

手に取った瞬間、これまでの迷いも疲れも、少しずつ解けていくようだった。


甘くて濃厚なモンブランを口に運ぶたびに、心も少しずつ落ち着いていく。

啓介と話をするだけで、自分の考えが変わっていく。

そして、胸の奥で決意が芽生えた。


私にとって、啓介は大切な存在だ。

女性として愛してくれなくても構わない。接点を持ってくれているだけで私は私の人生を生きていけるのだ。


――もう一度、啓介と向き合おう。

仕事も、私の心も、これから先も、しっかり自分の手で立て直すのだ。



モンブランの甘さと、啓介の温かな存在。

その二つが重なり合い、私の胸の中に新しい一歩を踏み出す力をくれたのだった。


この後の出来事は、千春とモンブランで回想として書かれています。

もし読んでいない方は、是非とも読んでいってください。

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