千春とパエリア3 あの夜、差し入れのパエリア
――けれど、その時がやってきた。
あれは、私の仕事が立て込んで、なかなか彼に会えない日々が続いていたときのこと。
食事もおろそかになり、気力も体力も少しずつ削られていた。
弱音をもらした私に、啓介は即座に言った。
「それじゃ料理を持っていきますよ。邪魔になるといけないから、料理だけ持っていったらすぐ帰りますんで」
その言葉通り、その夜、彼は私のマンションへやってきた。
両腕で抱えていたのは、ずっしりと重そうな鉄のフライパン。
中には、初めて彼の部屋で食べた――あの鮮やかなパエリアが、湯気を立てながら収まっていた。
「食べ終わったら、フライパンの処理は軽いお湯でのすすぎだけでいいですから」
そう言い残し、彼はあっさりと背を向けて帰ってしまった。
扉が閉じたあと、部屋に残された熱気と香りが、私を包み込む。
疲れで重たかった身体に、その一皿は不思議な力をくれた。
一口、また一口と食べ進めるうちに、胸の奥にまで温かさが染み込んでいく。
気づけば、止まっていた歯車が再び動き出すように、仕事も不思議と捗っていった。
あのパエリアは、単なる食事ではなかった。
私を支えてくれる誰かの想いが、確かにそこに宿っていたのだ。
仕事は順調に進み、一大プロジェクトを軌道に乗せることができた。
胸の奥には達成感と充足感が広がり、思わず小さく笑みを浮かべる。
こんな時こそ、啓介と一緒にお祝いしたかった。
だが彼は今日は、別の用事があり会うことはできない。
――タイミングが合わないなぁと、少しだけ寂しさを感じながらも、私は思い出す――昨日、彼が作ってくれたあのパエリアのことを。
残しておいた半分を、コンロの火にかけてそっと温める。
湯気が立ち上り、あの香ばしい香りが部屋いっぱいに広がると、不思議と心が安らいだ。
まるで彼がそばにいて、「お疲れさま」と言ってくれているかのような、そんな気分になる。
それだけで、私は満たされた気分になれる。
彼と出会う前では、食事だけで幸せになれるということは珍しいことであった。
啓介が私の生活を変えてくれている、そういう感謝が心の中に浮かび上がっていた。
ゆっくりと食べ終えると、フライパンには少し焦げがこびりついていた。
どうしようかと迷ったが、そのまま返すわけにはいかない。
以前、実家で母が使っていた重いフライパンを思い出す。母はスチールタワシとクレンザーで、手際よくピカピカに磨いていたのだ。
私も同じように、洗い磨き上げる。
フライパンは重く洗いにくいが、啓介への感謝を込めて丁寧に洗う。
金属の光沢が戻り、見るからに新品のようになったフライパンを前に、自然と微笑みがこぼれる。
きっと、彼もこのフライパンを見たら喜んでくれるだろう――そう、迷いなく思えた。
パエリアの温もりも、フライパンの輝きも、二人の時間の痕跡のように胸に残り、
私の胸の中を、満ち足りた気持ちが静かに満たしていた。
食事を終えたあと、私はシャワーを浴びて汗を流した。
そして、取引先の人がお礼にとくれた高級イチゴを手に取り、シャンパンとともに口に運ぶ。
本当は啓介と一緒に味わいたかったけれど、イチゴは今日がちょうど食べ頃で、明日には傷んでしまう。その甘みを逃すわけにはいかなかった。
冷えたシャンパンが喉を通り、果汁の濃厚な甘さと酸っぱさが口に広がるたび、啓介がここにいないことを強く意識する。
胸の奥にぽっかりと空いた寂しさが、心の隙間に忍び込んでくる。
思わずスマートフォンを手に取り、彼に連絡を打つ。
『今夜、会いたいな……』
送信ボタンを押す手に、微かに震えが走った。
するとすぐに返事が届く。
『今日の用事は予定より早く終わったので、千春さんのところに行ってもいいですか?』
心が跳ね上がる。思わず口元が緩み、嬉しさで胸がいっぱいになる。
彼が来たら、どんな話をしようか。
まずは、今日の仕事がうまくいったこと。
そして、あのパエリアがどれほど自分の活力になったか。
その感謝と、ささやかな喜びを彼に伝えたい。
そしてふと、将来のことが心をかすめる。
これまで、恋愛も結婚も考えられなかった日々。
でも、啓介となら、これから先の時間を一緒に過ごすことも、少しずつ想像できるのではないか――そんな思いが、胸の奥で柔らかく膨らんでいった。
やがて、チャイムの音が鳴る。
「いらっしゃい」
扉を開けると、そこには笑顔の啓介が立っていた。
「お邪魔します」
控えめに頭を下げながら、彼は部屋に足を踏み入れる。
「食事とかどうする?」「僕は食べちゃいましたけど、千春さんは?」
「私も頂いたわ。じゃあ……シャンパンを一緒に飲む?二十歳になったんでしょ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
グラスを手に取り、乾杯する瞬間、私は自分でもわかるほど酔いが回っているのを感じた。
啓介が来てくれた喜びと、甘いシャンパンの酔いが混ざり合い、心は高鳴る。
彼が二十歳になったこと、そして私たちがこうして大人同士で過ごす時間――それだけで、日常のすべてが特別に思えてくる。
ふと、胸の奥から急に芽生えた思いに気づく。
啓介に近づきたい――その気持ちが自然に身体を動かす。
気づけば、私はそっと彼の二の腕に手を添えていた。
その瞬間、部屋の空気が一段と甘く、温かく包み込むように感じられた。




