千春とパエリア2 あの晩、何十年後の約束
「このクッキー、美味しそうね」
「はい。僕、料理が趣味なんです。お菓子もよく作ります。……もしよかったら、今度ご飯を食べに来てください」
あまりに自然に、そして強引に言われて、私は思わず笑ってしまった。
「えっ、私があなたの家に?」
「もちろん。僕の作った料理を食べてもらいたいんです」
「……でも、そんな」
実業家として多くの人と食事をしてきたが、年下の青年にこんな誘われ方をするのは初めてだ。私は戸惑いを隠せなかった。だが啓介の真っ直ぐな眼差しは、冗談でも軽い気持ちでもないと思わせるのだった。
「絶対に後悔させませんから」
勢いに押され、千春は少し考え込んだ末、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、三日後の夕方。ほんの少しだけなら」
「本当ですか? やった!」
少年のように顔を輝かせる啓介を見て、私は心の奥でふと不思議な温かさを覚えるのだった。
三日後の夕方。私は少し緊張した面持ちで、啓介のアパートのチャイムを押した。
住宅街の中にある小さなアパート。外観は普通だが、どこか生活感が漂う。
「はい、どうぞ!」
元気な声に押されて、私は軽く笑いながら部屋に入る。
リビングは、大学生の一人暮らしにしては驚くほど整頓されていた。キッチンには、小さなガスコンロとシンプルな調理器具が並び、カウンターにこれから使われるだろう食材がきれいに並べられている。
「意外と言ったら失礼かもしれないけど……とてもきれいにしていて驚きました」
「え、そうですか? 自炊するから、汚いと嫌で」
啓介は少し照れたように笑う。その素朴さが、私の胸をくすぐった。
「よかったら、千春さんは座っててくださいよ。」
「人が料理を作っている前で座っているのは、なんだかちょっと変な感じがするわ。……料理、得意なんですか?」
「まあ、趣味みたいなものです。今日はパエリアを作ろうと思ってます」
私は手際の良さに少し驚きつつも、啓介の動きを観察する。
細かいところまで気を配り、材料に無駄なく手を動かす姿は、彼の優しさと誠実さが目に見える形で現れていて、思わず息を飲むほどだった。
調理をしながら、パエリアについて細かい解説が始まった。それは彼がこの料理にどれだけ真剣で向き合っているのかを現しているようだった。
大きなフライパンにオリーブオイルの香りが広がり、玉ねぎやニンニクが炒められていく。
そこに色鮮やかなパプリカと魚介が加わり、やがて黄金色のサフランライスが鍋いっぱいに広がった。
彼の解説と共に料理が進んでいく
やがて食事がテーブルに並ぶ。
彩り豊かなサラダ、透き通る湯気をまとったスープ、そして黄金色に輝くパエリアが、温かな食卓を照らし出す。
スープは澄んだ琥珀色で、浮かぶ野菜がほのかな甘みを約束していた。
パエリアの米には海と太陽の記憶が閉じ込められており、サラダの野菜は初夏の光をそのまま抱え込んだように瑞々しい。
一皿ごとに違う季節の息吹が宿っているかのようで、千春は思わず小さく息を呑んだ。
「……すごく美味しそう」
私は自然と笑みを浮かべる。
啓介は照れたように「食べてみてください」と差し出す。
一口食べると、パエリアは魚介の旨味が米に染み込み、香ばしさとともに広がる。
サラダの野菜はシャキシャキで新鮮。
スープを口に運ぶと、柔らかな旨味が舌に広がり、喉を通る瞬間に体の奥までじんわりと染み込んでいく。
まるで疲れを解きほぐすように、静かに胸の奥へ沁み渡る味だった。
そして、何より彼が「目の前で作った」という事実が、私の心を温かくする。
会話はぎこちなく始まったが、料理の話や大学生活の話題で少しずつ弾む。
啓介の笑顔は純粋で、年齢や立場の違いを気にせず、自然に接してくれる。
彼の一つ一つの動作や言葉に、私の心は静かに引き寄せられていく。
夕暮れの光が部屋に差し込み、二人の影がそっと寄り添った。
千春は自分でも驚くほど、安心感と甘い期待を覚えていた。
「今日のパエリアって花束のように綺麗だったわ」
思わず漏らした私の言葉に、啓介は少し困ったように笑った。
「でも僕はあんまり花束ってわかんないんです」
「あら、あんなに綺麗なお料理やお菓子を作るから、お花とかにも興味があるのかと思ったんだけど」
そう返すと、啓介は少し視線を落として、テーブルの縁を指でなぞった。
「花束って、しばらくすると枯れちゃうじゃないですか。花が枯れるのは仕方がないのはわかるんですけど……本来は種を残すために咲くものですよね。でもそうはならないのが悲しくて」
花は種を残すために咲くもの――その言葉に、私は思わずドキリとした。
以前、実家の母に言われたことを思い出す。
「女の一生は花のようなものなのよ。結婚するにもタイミングっていうものがあるの」
たしかに、そういうことも理解はしている。
けれど私は、どうしても「結婚」というものが自分に重なる気がしなかった。
誰かと生涯を共にする未来を想像しようとしても、輪郭のない靄のように、形を結ばずに消えてしまう。
今の時代、結婚は必ずしも急ぐものではないし、しない人だって珍しくはない。
それよりも、私は今の仕事に熱中している。
一つひとつの案件を仕上げるたびに得られる充足感。仲間と積み上げていく達成感。
それが、私にとって確かな「生きがい」になっていた。
だからこそ、その時の私は――恋愛や結婚に心を奪われて、今あるものを手放すことなど、考えられなかったのだ。
啓介の言葉は、私の胸の奥にひそやかに刺さったまま、揺れていた。
「……でもね、散ってしまうからこそとも思うのよ」
私はそっと微笑む。「消えてしまうからこそ、人はその瞬間を覚えているのよ」
啓介は少し目を見開き、やがてゆっくりと頷いた。
「……そういう考え方も、いいですね」
静かな食卓に、二人の声が淡く溶け合い、温かな余韻が流れていった。
「花束のことは、正直あまり詳しくはわからないんです」
言葉を選ぶように、彼は少し目を伏せた。だがその瞳がすぐに上を向いたとき、そこには穏やかな光が宿っていた。
「でも……盆栽にはずっと興味があります」
そう続ける声は、どこか愛おしさを含んでいる。
「盆栽って、ただの鉢植えじゃなくて、その木が生きてきた時間や、積み重ねてきた歴史をそのまま映し出しているんです。枝ぶりの曲がり方、幹のひび割れひとつ、根の張り方ひとつに、長い年月が刻まれていて……」
彼は指先で空に曲線を描くような仕草をして、言葉を探す。
「だから、眺めているだけで飽きないんですよ。あの小さな姿の中に、ずっと続いてきた物語があるようで」
語りながら、彼の表情は次第に柔らかくなり、盆栽の静かな美しさを思い浮かべているのが自然と伝わってきた。
私はふっと口元をほころばせ、軽く肩を揺らしながら言った。
「それなら、育ててみるのも面白いんじゃない?」
彼は少し目を丸くし、それから視線を宙に泳がせるように天井へと向けた。ほんの一瞬、迷いを含んだ沈黙が流れる。やがて息を吐くように、穏やかな声が返ってきた。
「でも盆栽って……育つのに何年も、何十年も、もしかしたらそれ以上かかるんですよ」
その言葉には、憧れと同時にためらいが滲んでいた。途方もない時間の重さを思い描きながら、それでも心のどこかで惹かれているのだと感じられた。
私は彼の横顔を見つめ、静かに微笑んだ。
「始めなきゃ、わからないこともあるんじゃない」
柔らかい響きに、彼ははっとしたように私を見返した。瞳の奥に、迷いと希望が交錯する小さな灯が生まれる。唇をわずかに結び、照れくさそうに笑うと、少し間を置いて答えた。
「……そうですね。じゃあ、やってみようかな」
そこで彼は一呼吸置き、どこかいたずらっぽい光を目に宿しながら続けた。
「何十年かしたら……千春さん、見てくれますか?」
その問いかけは冗談めいていながらも、どこか本気の響きを帯びていた。時間の流れを超えて、未来を共に見てほしいという願いが、言葉の奥にそっと忍ばせてあるように思えた。
ドキリとした。
――それは、何十年後も一緒にいたい、ということなのだろうか。
いままで、誰かとそんな先まで一緒にいるなどと考えたことはなかった。
こんな若い子が、そんな先のことまで考えているはずがない……そう思いながらも、どうしても心に引っ掛かる感じがした。
悟られまいと、私は小さく息を整え、無理に笑みを浮かべて別の話題へと舵を切った。
それはほんの些細な仕草のつもりだったが、胸の奥ではさざ波のようなざわめきが広がっていた。
彼の言葉は、何気ない会話の一片にすぎないはずなのに、不思議なほど鮮やかに心に留まり続けている。土に落ちた小さな種が静かに芽吹こうとするように、その余韻は目に見えぬ形で根を伸ばし、やがて私の内側を占めていく予感がした。
笑顔で話を続ける私の声とは裏腹に、その言葉の重みは静かに沈み、消えることなく未来へとつながっていく――そんな確かな気配があった。
それから二人は、取りとめもない会話を重ねた。
啓介の話は、どこか独特で、物事の奥行きを探ろうとする彼の眼差しがにじんでいた。
私にはすべてを理解できたわけではない。けれど、彼の言葉の端々から滲み出る生き方や価値観に触れるたび、不思議と心がほどけていくようで――ただそこに座っているだけで、安らぎに包まれているのを感じていた。
やがて帰りの時刻が訪れる。私は立ち上がり、鞄を手に取った。
「今日はありがとう。本当に美味しかったわ」
そう告げると、啓介は少し照れたように頭をかき、ふいに真っ直ぐな声で言った。
「また料理作るので……来てくださいよ」
その言葉が胸にすっと染み込んでいく。
私は微笑んで、「いいえ、今度は私がごちそうするわ」と返した。
けれど彼は首を横に振り、子どものように素直な瞳で私を見つめた。
「僕が作りたいんです。千春さんとお話ししながら食事できたのが、すごく嬉しくて……だからまた会いたいって思ったんです」
一瞬、世界の音が遠のいた。
その率直すぎる言葉に、胸の奥で小さな炎がぱちりと灯る。
――とくん、とくん。
自分でも驚くほどにはっきりと、胸の鼓動が跳ねるのを感じていた。
夜の静かさに包まれながら、その響きは静かに、しかし確かに、私の心に刻まれていった。
それから、私たちは時折、彼の作る食事を共にするようになった。
場所は彼の部屋であったり、私の部屋であったり。
不思議なほど自然に、互いの生活の中に溶け込んでいったけれど――それでも恋愛にまでは発展しなかった。
まるで、その一歩を踏み出すことを、お互いが意識的に避けているかのように。




