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千春とパエリア1 あの日、落とした手帳

千春の回想です。

過去に啓介となにがあったのか、なぜ今のような関係になったのか…

 雨粒が窓を叩き、夜の帳に淡い旋律を刻んでいた。

街の灯は濡れて滲み、遠くのざわめきさえも雨に吸い込まれていく。


その小さなマンションの一室で、千春はひとり息を潜めるように座っていた。

灯りを落とした部屋は、雨の音に抱かれた薄明かりの洞窟のようで、

静寂の底から浮かび上がるのは、消えかけた昔日の断片だった。

今も胸の奥で揺らぎ続ける、あの日の記憶に――そっと耳を澄ませる。





――それは、啓介と出会ったときのことであった。

陽射しは容赦なく照りつけ、街の空気は夏の先触れのように熱を帯びていた。


私は会社を出て、取引先へ向かう途中だった。

予定を確認して手帳を鞄にしまい込み、そのまま歩き出したのだが、気づかぬうちにその手帳を落としていたらしい。


ほどなくして、背後から誰かの荒い足音が迫ってくる。

振り返ると、若い男の人が息を切らしながら全速力で駆け寄ってきた。


差し出されたのは、私の手帳だった。

「さっき落としましたよ」

汗に濡れた額、呼吸を整える間もないほど必死な声。


私は驚きながら「あっ」と口を開いていた。

すると彼は小さく笑い、「それじゃ」とだけ告げると、また人混みの向こうへ走り去っていった。

その背中が、なぜか胸の奥に焼きついて離れなかった。


本当ならお礼をする所だが、突然のことで驚いている内に彼はいなくなってしまったのだ。

その時は、結局誰だったのかもわからなかった。





その日、私は珍しく仕事帰りにスーパーへ立ち寄っていた。

外食やデリバリーで済ませることが多い私にとって、買い物かごを提げて店内を歩く時間は、ほとんど非日常のような感覚だった。店内に並ぶ色とりどりの野菜を眺めながら、ふと、自分でも何か料理をしてみようかと思う。


レジに並ぼうとしたその時――視線の先に、見覚えのある後ろ姿があった。

今日、落とした手帳を拾ってくれた青年。

かごの中には牛乳と卵、野菜や肉など、男性にしては生活感のある食材が入っていた


私の心臓が一瞬だけ跳ねる。

「……あのときの」

思わず声をかけると、振り返った青年も驚いたように目を見開いた。

「えっ……あ、あの手帳の……」


お互いに一瞬、言葉が途切れる。スーパーの蛍光灯の下、あまりにも普通な場所での再会に、奇妙な運命の糸を感じずにはいられなかった。

「改めて……本当に助かったの。お礼をさせて」

私は少し嬉しくなり言っていた


「いえ、そんな、大したことじゃないですから」

青年は慌てて首を横に振る。なんとも素っ気ない態度であった。

「いいえ、私にとっては大事な手帳だったの。お願いだから、連絡先を教えてくれない?」

そんな申し出に、青年はしばらくためらったあと、観念したようにスマートフォンを取り出した。

「……じゃあ、少しだけ」


画面に表示された連絡先を受け取ると、私は安堵の息をつき、とても嬉しい気持ちになった。

その瞬間、私の胸に芽生えたのは、ただのお礼を越えた小さな好奇心だった。

――この青年と、もう少し話をしてみたい。


そうこの青年こそが、鈴木啓介だったのだ。




週末の午後。私は、街の小さなカフェのテーブルに座っていた。

黒い紙袋の中には、自ら選んだ上質な革のペンケースと、シンプルなデザインの万年筆。包装も専門店に頼み、丁寧に仕上げてもらった。社会人としての自分が、学生にできる最も自然なお礼だと考えた。


やがてドアベルが鳴り、少し遅れて啓介が入ってくる。ラフなシャツにリュック姿。店内を見渡し、私を見つけると、少し照れくさそうに近寄ってきた。


「こんにちは……すみません、待たせましたか?」

「いいえ。私が早く来すぎただけだから」


軽く笑みを浮かべながら、用意していた袋を差し出した。

「この前は、本当に助かったの。これはそのお礼。受け取ってくれる?」


啓介は一瞬、袋を見つめて固まる。

「えっ……こんな、わざわざ……」

「遠慮しないで。学生さんなら、きっと使えると思って」


その真剣な口調に押され、彼は両手で丁寧に受け取った。

袋の中を少し覗くと、革の光沢が目に入り、思わず息をのんでいた。


「こんな、もったいないですよ」

「ほんの気持ちだから。あなたが届けてくれた手帳は、私にとって本当に大事なものだったの。それは、あなたに使ってもらえるのが、一番嬉しいわ」

そう言った私の胸の内は、仕事中の冷静な気持ちとは違っていた。

彼は少し嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔を見て私も嬉しい気持ちになった。


その後、啓介は思い切ったように自分のリュックから小さな紙袋を取り出す。

「実は……僕も、何か用意しなきゃって思って。でも、たいしたものじゃないんです」

袋の中から出てきたのは、透明の瓶に詰められたクッキーだった。

「手作り、なんです。ちょっとした時につまめるようにって……」

市販品かと思うほど綺麗に仕上げられたクッキーは、どこか素朴で温かみがあった。


私は思わず目を瞬かせた。

革の文具を渡して「大人らしいお礼」をしたつもりだった自分。今度は学生から「手作りのお菓子」を受け取ることになる。

「……ありがとう。私がお礼をしなきゃいけないだけなのに」

クッキーの瓶を両手で抱えながら、千春はふと笑みをこぼす。

「これじゃあ、まるでプレゼント交換ね」

啓介も少し照れたように笑い、頷いた。

「そう……ですね」

その一瞬、二人のあいだに温かい沈黙が流れた。

立場も年齢も違うはずなのに、なぜか同じ目線で向き合っている。私はそう感じ、胸の奥で小さく鼓動が高鳴るのを感じていた。

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