千春とモンブラン7
夜遅く、私はふと目を覚ました。
リビングの方からは、静かな寝息だけが聞こえる。毛布の中で小さく体を丸めながら、私はそっとつぶやく。
「啓介くん……起きてる?」
もちろん、返事はない。けれど、その静けさの中に、彼の存在の安心感を改めて感じることができた。
目を閉じると、思い出が鮮明に蘇る。最初に啓介と出会ったのは、あの日のことだった。
背が高く、顔も整っていて、手先も器用。いまでも変わらない彼の姿は、ただ隣にいるだけで存在感があった。
啓介はデートらしいデートに誘うのではなく、自分の手料理でもてなしてくれた。料理の話は、少しくどいくらいだったけれど、どこまでも誠実で、人の良さがにじみ出ていた。年の差はあったが、私は自然に「この人と付き合いたい」と思った。
思い返せば、あの頃の自分のアプローチは、とんでもないくらいしつこかった。最後には、自分でも恥ずかしくなるような誘い方までしてしまった。
もちろん、啓介は全く意に介さず、まるで子供が友達と遊ぶように受け流すだけだった。
女として見てもらえないことで、私の心は一度冷めてしまった。
そんなとき借りていたフライパンを返したら、なぜか啓介が急に怒りだした。それがきっかけで喧嘩をし、結局は距離を置くようになった。
なにが良くなかったんだろう、今でも謎だ。あれ以来あのフライパンは見ていないなぁ。
その後、原因もわからないけど運が悪くなったのか、事業は上手くいかなくなり、資金も底がみえ、倒産寸前まで追い詰められた。
そんな、どん底のとき、再び啓介のことを思い出し、たまらなく会いたくなった。
会いに行くと昔と同じ啓介がいた。距離を置いたことなど気にもせず、本当に、本当になにも変わらず、穏やかに接してくれた。
そして、その時啓介からもらったのが、クルミ入りのモンブランと新しいアイデアだった。。
その素朴で温かな味わいに心が洗われるように涙があふれてきた。
心が浄化され再び事業に向き合うことができた。そして今の自分はこうしてある――すべては、あの夜のモンブランから始まったのだと、私は静かに思い返す。
啓介は"たいしたことはしていない"と言うけれど、間違いなく私の人生を救ってくれたのだ。
努力は大事だって、よく言うけれど……あの時の私は、努力ばかりで空回りしていた。啓介からもらったモンブランは、小さいと言われようが、欠かすことのできないピースだった。
私を女性として愛してくれる必要なんてない。ただ啓介が近くにいてくれれば、私は人生を進んでいける。
私の今日付けてきた髪留めは、啓介にねだって買ってもらったものだ。白いユーストマを模した髪留めで、花言葉は"良い語らい"。
「啓介の話がもっと聞きたいから」と無理を言って買ってもらったんだ。
もっとも、花言葉はそれだけじゃない。この髪留めを手にするたび、私の心の奥には、これからもずっと変わらずいてくれる啓介の存在がふわりと蘇り、信頼や安心感が静かに染みわたるのだ。
そんな啓介のベッドの上にいる私は、言葉にできないほどの穏やかさに包まれていた。
いつの間にか、千春は眠ってしまっていたらしい。
朝日が窓から差し込み、チュンチュンとスズメのさえずりが耳に届く。
ふと見ると、柔らかな朝の光と共に、ベランダにある小さな鉢植えが目に入ってきた。それは、千春を幸せな気持ちにさせてくれる不思議な力があった。
そんな中、どこか懐かしい香りが漂ってきた。
台所からだ。啓介が朝食を用意してくれていたのだ。
白いご飯に、ふんわりとした卵焼き、焼き魚、そして熱々の味噌汁。
決して特別なものではない、普通の和朝食だ。しかし、その普通さが、千春にはなんとも心地よく、胸に静かな温もりを残した。
「朝ご飯、できました」
啓介は照れくさそうに微笑むだけで、特別な演出もない。
けれど、その自然さが心に染みる。
朝食を共にし、少しの会話を交わした後、啓介は用事があるとのことで立ち上がった。
駅まで一緒に歩き、しばしの別れが訪れる。
今の千春には、あの二年前に啓介からもらったアイデアが形となった事業があり、全力で取り組んだ日々の証があった。
その事業は、更なる発展のために売却され手元から離れて行くだろう。
しかし新しい事業も、これから始まる。
つまり、これからも啓介からもらったアイデアを軸に、また時間は少しずつ積み重なっていくのである。
大げさに言えば、啓介と並んで人生を歩んでいくことになるのだ――そう思うと、胸の奥が小さく高鳴る。
きっと啓介は、これからも変わらない。人間としても男としても魅力を持ちながら、男と女の機微となると幼い子供のように無垢なままだろう。
それでも――そんな彼…かわいい弟と歩む時間が、千春には何よりもかけがえのないものだった。
彼が白いユーストマの花言葉を調べないことを祈っている……が、きっと知られても、ただ穏やかに微笑んでしまうのだろう……彼ならば……
小鳥のさえずりと朝日の温もりに包まれながら、千春は静かに願った。――「その微笑みごと、大切にしていこう」と。
啓介との時間は、これからも続く――そのことが、千春の胸にそっと温かな喜びを広げた。
前回までは新聞小説みたいに毎日1000文字前後と考えていたのですが、今回から少し長くして2000〜4000字を目安にしております。
その分投稿頻度は落ちてしまいますが、ある程度まとまっていた方が読みやすいかもしれないとも考えいて、どちらが良いのかわからないので、試行錯誤と言う感じです。
もし良ければ、短い方がいいとか、まとめた方がいいとかでもよいので、感想を書いて頂けると嬉しいです。
今後とも、恋愛に無頓着な啓介をよろしくお願いいたします。




