千春とモンブラン5
モンブランを味わいながら、啓介が静かに口を開いた。
「千春さんの事業、上手くいっているそうじゃないですか」
千春はグラスを指で回し、苦笑を浮かべる。
「そうなのよ、お陰でね。やっと軌道に乗ってきたと思ったら、大企業から買収のオファーが来たの。しかも、よければ買収後も引き続き責任者になってくれって」
ワインの表面に小さな波が揺れ、千春の迷いを映し出すようだった。
「悪い話じゃないんだけどね。自分でやるのと、企業の傘下でやるのとじゃ、自由度に差があるでしょ?思い入れもあるから、自分で梶を切っていきたい。でも……これ以上規模を大きくするなら、大企業の後ろ盾があった方がいいのも分かってる。私、どうしたらいいだろう」
啓介はしばし黙り、モンブランの断面を眺めていた。やがて、迷いのない声で言う。
「それこそ、いっそのこと全部売ってしまって、千春さんは新しい事業を始めたらいいんじゃないですか」
思わず千春は顔を上げた。
「でも……せっかく啓介くんのアイデアで始めた事業だし。できれば続けたいのよ。あなたにも悪いわよね」
彼は小さく笑って首を振った。
「僕は、売却してもなんとも思わないですよ。あのときも今も、僕にとって大事なのは、アイデアじゃなくて千春さんですから。それに……アイデアだけじゃ仕事にならないでしょう。ここまで大きくしたのは、千春さんの努力ですよ」
その言葉は、なによりもずっと温かく、じんわりと胸に沁みた。
千春はグラスを見つめ、ふっと表情を緩める。
(ああ、この子は本当に……変わらないな。純粋で、真っ直ぐで)
外の風は冷たくとも、千春の心には小さな灯火がともるのを感じていた。
ワイングラスを持ったまま、千春は口元に笑みを浮かべた。
「じゃあ……新しいことを、また一緒に考えてくれる?」
冗談めかして言ったつもりだったが、その響きは自分でも思った以上に真剣で、少しだけ胸がどきりとした。
対する啓介は、変わらぬ落ち着いた調子で、首を軽く傾げて答える。
「いいですよ。でも、僕は料理専門ですけど」
その淡々とした返事に、千春は思わず吹き出してしまった。
肩の力が抜けるような、自然な笑い。こんなふうに彼といると、どれほど仕事で追い詰められていても、不思議と気持ちが軽くなるのだ。
グラスの中でワインが小さく揺れ、窓の外では秋風がさらさらと木の葉を揺らしている。
未来のことはまだ決められない。けれど、このひとときの温かさが、何よりの支えになっている――千春はそう実感していた。




