太輝とミネストローネ2
階段を上りきり、太輝は二階の一番奥にある部屋の前で足を止めた。
木製のドアは長年の使用で色がわずかに褪せ、取っ手の周囲には無数の小さな傷が走っている。誰かの手が繰り返し触れてきた痕跡は、決して古びた印象だけではなく、むしろ暮らしそのものを刻み込んだ証のように見えた。
鼻をくすぐるのは、かすかに漂ってくる炒めた玉ねぎとオリーブオイルの匂い。湯気に溶けた香りは、もうここが「啓介の部屋」だと告げている。
太輝は心の中で「ここに来るのもすっかり習慣になったな」と呟きながら、拳で軽くドアを叩いた。
すると、中からは小気味よい包丁の音がピタリと止み、すぐに張りのある声が響く。
「おう、太輝!ちょうどいいタイミングだ!」
ガチャリとドアが開くと、長身の啓介が立っていた。彫りの深い顔立ちの目は楽しそうに輝き、まるで待ち構えていたかのように笑顔を見せる。なんだか展示会場にいるスタッフの接客を連想するが、多分同じ様なものだろう。
「今日はな! ミネストローネスパゲッティだ! 知ってるか? これがまた奥が深いんだよ! トマトと野菜の滋味を凝縮したスープに、パスタを絡めて一皿に仕立てる! イタリアでも地域によって、スープの濃度から具材の切り方、さらにはパスタを入れるか入れないかでも大論争があるんだ! ちなみにトスカーナ地方では――」
――開幕3秒で全力解説。はい始まりましたぁ。
太輝は心の中で実況を続ける。ここから先は「啓介のうんちくタイム」がノンストップで展開される。まだ部屋にも入ってないのに、すでに講義がスタートしているのだから逃げ場がない。
しかし、その横で漂ってくる香りがずるい。炒め玉ねぎの甘さ、にんにくの香ばしさ、オリーブオイルの豊かな匂い。胃袋が正直に反応して、ため息が「はあ……」ではなく「はらへった……」に変わってしまう。
「……腹減った。早く食わせろ」
「まあまあ、そう焦るなって。料理は文化や歴史という科学なんだ。食卓に並ぶ一皿の裏に、千年の物語が詰まっているんだ! 考えてみろ、豆一粒にすら――」
――来た! 名言っぽいこと言ってからの、終わらない解説モード!
啓介は悪びれもせず、むしろ嬉しそうにうんちくを重ねてくる。太輝は黙って靴を脱ぎながら、心の中で「どうせ止まらない」と諦める。
だが、諦めているはずなのに、部屋に充満する温かな匂いに思わず口元が緩むのだから始末に負えない。
こうしてまた、今夜も「啓介のフルスロットルディナーショー」が開幕するのだった。




