千春とモンブラン2
扉を開けると、部屋の中からふわりと甘い香りが漂ってきた。秋の冷たい風から逃れるように、千春の肩の力が自然と抜ける。
古いアパートの一室は、啓介の手で整えられた清潔感に満ちていた。小さなテーブルの上、白い皿に盛られたクルミ入りモンブランとワイン。見慣れた光景なのに、胸の奥がじんわり温かくなる。
「いらっしゃい。寒かったでしょう」
いつもと変わらない穏やかな声で啓介が迎える。
千春はコートを脱ぎながら、自然と微笑んでいた。モンブランの淡い栗色と、砕かれたクルミの粒が散りばめられたその姿は、華やかというより素朴で、けれどどこまでも心を打つ温かさを感じさせた。
「……覚えててくれたんだ、私の好きなもの」
「先週、祖父の家に行ったんです。栗もクルミも、たくさん採れて。せっかくだから千春さんに食べてもらいたくて」
そこで、啓介は難しい顔をした。モンブランの盛り付けが少し乱れている……らしい。
「うーん、こうじゃないと……」
千春は微笑むが、啓介のこだわりが時折強く出ることを知っている。そんなこだわりでも、彼なりの誠実さの現れなのだ。
グラスに注がれたワインが、卓上のランプの光を受けて小さく揺れた。その香りとモンブランの静かなたたずまいが、胸の奥の記憶を呼び覚ます。
―――――――――――――――
二年前。
事業が思うように進まず、資金も底を突きかけ、未来がまるで霧の中だった頃。
あの夜も、こうして啓介はちょっとした工夫を加えたモンブランを作ってくれたのだった。
やろうと思えば誰にでもできるのに、なぜかみんなやらない──そんな、些細だけれど確かな工夫に、千春の胸はそっと揺れた。
口にした味に、思わず笑みをこぼす啓介。
「こうすればこんなにおいしいのに、どうして誰も知らないんだろう」
無邪気にそう言った啓介の一言が、千春の心を震わせた。
――まるで自分のことだ。
千春は胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
こだわって作ったサービスも、丁寧に組み上げたプランも、本当なら誰かに喜んでもらえるはずなのに。
けれど現実は、ほとんど誰の目にも触れずに終わっていく。
机に向かって必死に書いた企画書が、翌朝にはただの紙屑のように見えてしまう。
そのたびに千春は思う――「私は透明なのかもしれない」と。
誰にも見てもらえない空虚さが、心の奥を冷たく支配する。
それでも歩みを止めれば本当に消えてしまいそうで、焦燥だけを抱きしめてきた。
「知ってもらうことって、難しいんだな……」
その独り言は、寂しさに滲んでいた。
啓介は首をかしげ、けれど穏やかな声で返す。
「でも、食べた人はみんな“おいしい”って言うでしょ?だから、僕はそれで満足なんですよ」
千春は、思わずフォークを止めた。
彼の言葉は、あまりにも揺るぎなくて、孤独の影をまるで恐れていない。
一人でも喜んでくれるなら、それで十分――その確信は、孤独を抱える千春にはまぶしすぎた。
啓介は、目の前の一人が喜ぶことを何よりも大切にしている。
私は違っていた。
売上や知名度、拡大という“結果”ばかりを追いかけていた。
それが間違いだとは思わない。むしろ、事業を続ける以上は必要な視点だ。
小さな賛辞に心細さを埋めても、すぐに「でも他には?」と探してしまう。
笑顔よりも、その背後にある沈黙ばかりが目について仕方がなかった。
――私、いつの間にか笑顔を感情じゃなくて数字に換算してたんだ。
啓介の静かな満足と、自分の孤独な焦燥。
その落差が胸に突き刺さり、彼女はフォークを持つ手をそっと止めた。
回想篇 後半へ続く




