美咲と松茸11
その日の夕方、アパートの出口で偶然啓介とばったり出くわした。
思わず足が止まる。昨日の夜のことが、瞬時に頭の中を駆け巡る――寝ぼけて寝室に入り込んでしまったこと、変なことを口走ったこと。
顔が熱くなり、どうしても啓介の顔を見上げることができなかった。
「こんばんわ、花沢さん」
啓介はまるで何事もなかったかのように、笑顔で声をかける。
ああ、いつもの鈴木さんだ。良かったあれは聞かれていなかったんだ。
美咲が安堵した次の瞬間、啓介はにこやかに続けた。
「今度は希望通り、シーバス三昧にしますね」
美咲は思わず固まる。希望? そんな希望、私、言ったっけ……?
「え、えっと……私、そんなこと……」
啓介は涼しい顔で、ちょっと楽しそうに言った。
「だって、寝る前に"スズキ三昧がよかった"って言ってましたよね」
―――っ!?
恥ずかしさがさらに膨れ上がる。寝ぼけた一言が、こんなにも鮮明に覚えられていたとは……。
「しかも、鱸が日本のシーバスって言われていることを知ってるなんて……花沢さんもルアーフィッシング、釣りのこと知っているじゃないですか」
―――っ!?
赤面がさらにひどくなり、思わず顔を背ける。確かに昨日はシーバスの話も聞いた。でも、シーバスがスズキ?そんなの知らないわよ。コントじゃないんだから、こ、こんな変な誤解、あり得ないでしょ……。
「……恥ずかし…すぎるから…どうか忘れて…」
口ごもる美咲を見て、啓介は淡々と付け加えた。
「料理のオーダーを言われたんですよ。忘れるわけないですよ」
そう言われて、急に血の気が上がってきた感覚を覚えて言ってしまった。
「……な、なにそれ! 勝手に勘違いしないでよ! 」
どうしてこんなふうになったのか、美咲自身にも分からない。
胸の奥に小さな棘が刺さったように、聞き間違えられたことがやけに気になって、止めようのない苛立ちとなって溢れ出しただけだった。
必死に怒鳴るように言った瞬間、啓介は首をかしげて、ふっと柔らかく笑った。
「勘違いでもいいですよ。花沢さんがもっと元気になれるように――」
そして――最高の笑顔を浮かべて、無邪気に言い切る。
「最高のスズキを用意しますよ!」
――――――っっ!!??
その真っ直ぐすぎる笑顔に、美咲の頭の内はぐしゃぐしゃになった。
感情がさらに膨れ上がり、胸の奥が熱くなる。
恥ずかしさ、自己嫌悪、啓介の天然ぶりへの苛立ち、そして、不思議と嬉しさが入り混じり、美咲は道路へと足早に向かう。背中で、啓介の微笑みが残り、胸の奥でざわつく気持ちをさらにかき立てた。
でも、美咲はまだ気付いていない。昨日の、絶対に立ちなおれないと感じた失恋のやるせなさが、すでに上書きされていることに。
これで、美咲の話は一区切りになります。
K'sキッチンの続きは10月1日夜7時10分に公開予定です。
もう少しお待ちください。