第62話 聖女の前に立つ
誕辰祭は、聖女リリカが「生神」として崇められているリリカリアン教の創立を祝う祭典で、近隣最大級の宗教行事。その威光にふさわしく、今日一日だけで訪問者がほぼ十万人に達するとされていた。
祭の内容は――聖女リリカが空に祈りを捧げ、人々の幸福と健康、祝福を願うというもの。しかし、言葉は穏やかでも、実際は狂信者の祭典だった。
五年前、リリカが祈ったとたん疫病が治り、干ばつの続いていた帝国に雨をもたらした奇跡を、自分たちも受けたいと願う信者たちが、ボニヘルト帝国全土から殺到し寄付金を納め、御守りを買い漁って財をすべてつぎ込み、そして去っていく。
教団側にとっても、それは一年のうちで最大の金集めの機会。聖女を会場の中央に据え、信者たちから金銭をむしり取る日だった。
リリカ自身もその祭典を――心から嫌い、痛みを感じながら――もはや力のない自分には声を挙げることも叶わず、一言でも口を開くと処刑されるのではないかという恐怖の中で、ただ無表情に座らされているしかなかった。
「くれぐれも覚えておけ…ふざけた真似をするなら許さないからな」
「は、はい……」
震える声で返答するリリカに、教団の関係者はいやらしい微笑みを浮かべて去っていった。そして周囲の信者たちは、そんな事情も知らず“救い”を求めて、今も貴重な財産を進呈していた。
リリカにとって、あまりに悲しく惨たらしい光景。涙が出そうになりながら、逃げ場のない監視と緊迫の視線の中で、無表情を維持し続けた。
「聖女様、祝福の時間でございます」
侍女が囁くと、リリカは重いため息をついてゆっくりと立ち上がり、行事会場へと向かった。
村の中央広場に設けられた舞台周辺は、広くても満員で、入れない人々が外で叫ぶほどの混雑ぶりだった。
信者たちは聖女に欺かれていることを知らず、リリカはその姿を見るたびに罪悪感に苛まれながら――それでも同じ加害者である自分を忌み嫌っていた。
『ごめんなさい…力不足で…』と、心の中で、集まった人々にそっと詫びながら、リリカは即興で祝詞を唱えた。
「天を仰ぎて申し上げます。罪深きこの世の悲しみと苦しみを顧み給え。災害は絶えず、病と飢えが老いも子供も分け隔てなく蔓延しております。しかし主よ、この地にまだ希望があることを私は知っております。弱きを抱き、愚かなる者を啓かせ給え。剣ではなく手を、憎しみではなく愛を携えさせ給え。
もし、この身を用いねばならぬときには、私の血がこの大地の土となるがよし。喜んでそういたします。どうか、この民の嘆きの声に応えてください。天の意思がこの地に届きますように。光が闇を打ち消し、正義が偽りを打ち破りますように。私の祈りと、私の心が――主に届きますように……」
教団は設立まもない混成組織で、聖女を利用して大金を得ようとする薄っぺらな集団に過ぎなかった。そのため、整った祝詞すら存在せず、リリカはその場で自らの真意を込めて祝詞を紡いだ。
「どうか教団の魔手から解放され、皆に救いがもたらされますように…」
涙ながらに祈るその姿に、信者たちはもっと近くで祝詞を聞きたいと、教団に賄賂を渡す者までいた。あまりに悲しい光景だった。
そのとき、絶望に沈みかけたリリカの胸に――
「騙されてはダメです!!」
人混みの中から若く澄んだ声が響き、「騙されてはいけません」と訴えていた。
教団関係者も信者たちも動揺してざわめき始め、リリカも誰の声かと驚いて振り返ると、数日前にひどく粗末な後援で訪れたあの少女、ルカだった。
*****
都賢秀は、人混みができる前夜、広場の一角にある建物に潜み、外の様子を注意深く監視していた。
そして、予想通りの大勢の人々であふれる広場を目にし、満足げに微笑んだ。
「読み通りだな」
データによれば、教団は信者としてもっとも取り込める人を呼び込むため、聖女を護衛する数名の聖騎士以外をすべて広場の外に配置していた。
都賢秀にとって、これは極めて好都合だった。
「おい、レトム。広場には聖騎士や諜報員が何人いる?」
<スキャン結果…教団関係者12人、聖騎士32人、スパイは前回遭遇した斎藤を含む25人が確認されます>
妨害要員は約70名にすぎない。
絶好のチャンスが訪れ、都賢秀と子龍は行動を開始した。
「行くぞ、子龍。俺は左側の諜報員を抑える。お前は右側の聖騎士を担当して、あの小娘――ルカが聖女に近づく道を切り開くんだ。」
「了解です、先輩。」
「レトムは周囲に聖騎士が増えていないか監視してくれ。危険なら即座に撤退だ。」
<了解しました。>
「よし! やろう!」
都賢秀の号令とともに、子龍が広場中央の舞台に矢を放ち、ロープを張った。そして、みながそのロープを伝って一気に舞台へと駆け上がった。
地上に着地すると、ルカは聖女に向かって声高に叫んだ。
「皆さん!! 騙されてはいけません! 聖女と教団は、あなた方を欺いているのです!!」
そのしっかりとした声は皆を驚愕させ、ざわつかせた。
「なんて罰当たりな…! 聖騎士は何をしている!? すぐこの少女を捕まえろ!」
「見捨てるな!!」
教団の運営者がルカを捕らえるよう叫ぶと、聖騎士たちは武器を高く掲げて襲いかかろうとしたが、ルカはただ一人、聖女だけを見つめていた。
「汝は罰を受ける異端者よ! 悔い改めよ…うっ!!」
ルカに棍棒を振り下ろそうとした聖騎士たちは、子龍によって阻まれ、倒れ伏した。
「私はこちらへはもう近づけさせない。」
子龍は愛剣・千雷を構え、聖騎士たちと真っ向対峙した。
「異端者がもう一人いるのか! 我らと共に天罰を下さん!」
「弱き少女を抑圧し民を搾取する者たちが、“武士”とは片腹痛い!」
先頭の聖騎士が剣を振るったが、子龍は巨体とは思えぬ俊敏でかわし、反撃を叩き込んだ。約三十人もの騎士がいたが、子龍には敵わず、一人、また一人と後退し、その度に蹲らされた。
――「どうすればいいの、チーム長…?」
緊迫する場面で、諜報員たちがチーム長・斎藤に指示を仰いだが――その問いかけより先に、あの慣れた声が響いた。
「君、前に見た例の連盟の若輩者だな? 無駄に邪魔しないで、大人しくしてろよ。」
「君は……次元を繋ぐ者……?!」
それは間違いなく、都賢秀(ド都賢秀)の声だった。斎藤は即座に顔を認め、燃えるような怒りを噴き出し、捕縛を指示した。
「対象者を目前にしてじっとしていられる諜報員がいるか?! 今すぐあの男を逮捕せよ!」
諜報員たちは匕首や棍棒を携えて都賢秀に襲いかかったが、都賢秀は足を引っかけ、肩と脚の関節を正確に外し、3人を瞬時に戦闘不能にした。
だが、そこにある驚愕は――彼らに致命傷はなく、手当てすれば再び歩けるレベルの攻撃しかしていないことだった。
「全員退け! 私が相手する!」
直属の部下では都賢秀に太刀打ちできないと判断した斎藤は匕首を抜き、単身挑んできた。
都賢秀は斎藤に挑まれて微笑み、匕首を抜いて応じた。
「若造…少しは腕が上がったか、試してやろう!」
こうして、斎藤と都賢秀の一騎打ちが始まった。
斎藤が刺しにかかると、都賢秀は軽く首をすり抜けかわし、斎藤の腕をはたき落とし、水平に匕首を振り、斎藤の首を狙った。
斎藤は腰を後ろに引き、攻撃回避をしつつ、反射的に斬撃を返した。都賢秀は腕で攻撃を受け止めた後、素早く左拳で斎藤の肋骨を打ち抜く。
「ぐっ!」
斎藤は肋骨に痛みをこらえつつ、匕首を強く振り下ろした。都賢秀は後方へ一歩引いて回避した。
「すごい……リーダーがあんなに強いなんて知らなかった」
「リーダーならきっと、次元の繋ぎ手を捕らえるはずです!」
その戦いを見て、諜報員たちは興奮し歓声を上げ始めた。
近くで見れば白熱の勝負に思えたが、斎藤にはわかっていた――都賢秀は攻撃を数手先まで読み、必要最小限の反撃で命に危険のない戦いをしていると。理由は不明だが、実力差は明白――これはもう稽古や試合の領域だった。
「くそったれが…」
味方から応援の声とは裏腹に、都賢秀を捕らえるのが不可能だと悟った斎藤は、唇に呪詛を込めた。
子龍もまた、約三十人の聖騎士を相手に圧倒的な戦闘力を発揮し、見事に抑え込んでいた。
そのおかげで、ルカは聖女リリカと遮る者なく真っ直ぐに向き合うことができた。
「あなたは…確か、前に後援で訪れた少女ですね…もう来ないでほしいと言ったのですが…」
「聖女様…それは…」
ルカが言葉を発しようとした時、誰かが聖女の髪を強くつかんだ。
「やはり以前侵入した連中と何か企んでいたのだろう!白状しろ! 一人で教団を乗っ取るつもりだったのか!?」
その者は、いつも聖女と共にいた教団の男だった。
リリカは驚きと恐怖で顔を引きつらせながら必死に否定した。
「え!?そ、それは違います、事務長様…どうしてそんなことを…」
「黙れ!! 瀕死の女を人間らしくしてやったというのに、恩を忘れるのか!」
事務長を名乗る男が手を振り上げようとしたその瞬間――
「ぎゃあぁぁぁっ!!」
なぜか暴力は起こらず、代わりに事務長の悲鳴だけが広場に響いた。リリカは驚いて目を見開くと、事務長の手首に小さな匕首が突き刺さっていた。
その匕首を放ったのは――
「リリカの汚らわしい手を、今すぐ離せ!!」
それは、ルカだったのだ。
遠くにいる事務長の手首に正確に匕首を投げつけ、聖女の前に駆けつけて彼女を守った。
事務長が叫んだ。
「何をしている!この異端を殺して、聖女を神殿へ連れていけ!」
若い教団員たちがルカを排除しようと突っかかってきたが、ルカは彼らの足に匕首を刺し、一瞬で何人も倒れた。その様子を見た誰もが動けなくなった。
ルカは聖女を見つめ、真剣に叫んだ。
「リリカ!もう自分の心を犠牲にして、こんな連中の前座になる必要はない!私と一緒に逃げよう!必ず守るから!」
勇ましく「守る」と言い放つルカに、聖女は胸を揺さぶられた。しかし…
「私は行けません。だから心配せず、どうか早く逃げて…ここにいれば、少女まで危険に晒されます。」
「君を置いてはいかない! 一緒に行こう! 君を必ず…」
「無駄です…」
「無駄だって…?」
その言葉にルカは困惑し、リリカは悲しげな笑みで自分の胸元からそこに嵌ったキューブを見つめた。
「この聖物がある限り、教団は私を諦めません。たとえ私がどこへ逃げようと、追い続けるでしょう…」
リリカは逃れたくなかったわけではなかった。しかし、キューブを手放せずに逃げ出したが、教団は北部全土を探しまわり、彼女を発見したことがあった。
その時、リリカはこの国に身を隠す場所などないと悟り、諦めて生きてきたのだった。
「だったら、そんな聖物なんて捨ててしまえ! いや、壊せ!」
ルカがキューブを壊して共に逃げようと叫ぶと、リリカの顔は恐ろしく変貌した。
「私は確かに、何も知らずに軽々しく言うなと言ったはずです!これは私の母です!絶対にあきらめられ…!!」
「そんな石っころが“母”だなんて!しっかりしなさい!!」
「言葉を軽々しく使うなと言ったでしょう!!!」
リリカの怒りの咆哮にルカはひるみ、後ずさった。
「分かってるわ!これは母じゃない…でも、亡くなった母が言ったの。ここに宿って私を守ってくれるって!だから私は絶対にこのキューブを手放せない!!!」
幼い年で拠り所もなかったリリカにとって、母の遺したそのキューブこそが唯一の支えだった。
それを知っていたルカは、胸が張り裂ける思いで涙をこぼした。
「その石ころに人の魂が宿るわけない…それは…ただ、教団の道具にされるための怪物に過ぎない…」
「もう言って!」
リリカは再び声を上げようとしたが、ルカの涙を見て、もう言葉を重ねられず、胸に飲み込んだ。その理由も、どうしてここまでしてくれるのかも分からなかった。
「どうしてこんなまでにしてくれるの?私に何を求めてるの?」
「求めてるものなんてない…ただ、君が幸せになってほしいだけ…」
「私が幸せになってほしいだなんて…命かけの私のためになぜそこまで?」
その問いに、ルカはずっと胸に秘めていた――ある真実を告げた。
「…私、あなたのお母さんだから。」
その言葉に――リリカは呆然とし、教団の関係者たちも。戦いのさなかにあった都賢秀や斎藤、そして子龍にまで――誰もが驚愕の声と視線をルカに向けた。
「それ…もっともらしいこと言って…どういう意味なの…?」
リリカは、年下の少女が「母だ」と言う信じがたい言葉に困惑していたが――
「私、あなたの母なのよ……十五年前、小さな君を残して先に逝ってしまった――未熟な母――レイチェル・バレラ・レイウッドなの!」
少女の口から――リリカの母の名前が――叫ばれた瞬間だった。
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