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第60話 過去にあった事




畑仕事をしながら子供たちの世話をしていたマーシャおばさんのため息は途切れることがなかった。


というのも、ルカがまたどこかへ出かけたまま、連絡が取れなくなってしまったからだ。


「この子はまたどこへ行ってるんだい?まさかまた盗みなんかしてないだろうねぇ…」


畑を耕しながらぶつぶつとルカのことを心配していたマーシャおばさんだったが、ふと、路地の向こうから歩いてくる人物に気づき、目を見開いた。


「おやまあ、あんた?また戻ってきたのかい?」

「はは…それがですね、失敗しちゃいました…」


自信満々で旅立ったはずが、あっけなく失敗して帰ってきた都賢秀(ドヒョンス)は、顔を上げることもできず、肩を落としていた。


「まぁ…そうかい。お疲れ様だったねぇ、あんた。」


優しいマーシャおばさんは、呆れた様子ではなく、どこか哀れむような目で彼を見つめた。そのまなざしに、 都賢秀(ドヒョンス)の顔はさらに赤くなってしまった。


「いや、でもですね!この子のせいで台無しになったんですよ!」


少し悔しさをにじませながら、都賢秀(ドヒョンス)はルカをひょいと持ち上げ、チクった。


「ルカ?!どこ行ってたの?!それに邪魔だなんて!どういうことなの、それは?!」

「え、えっと…ママ…」


ルカにはそれなりの理由があったのだが、結果的に都賢秀(ドヒョンス)を危険にさらしたことは事実であり、指をモジモジさせるだけで言い訳もできずにいた。


「ああもう、このガキんちょ!!まったく、生きていけないよ!!」

「い、痛い!ママ、やめてよ〜!!」


ルカの背中をぺしぺし叩くマーシャおばさんを見て、都賢秀(ドヒョンス)は「どこの世界でも母のげんこつは健在だな」と、心の中でつぶやいていた。


その後、ルカは背中を叩かれたせいで、口をとがらせたままふてくされていたが、都賢秀(ドヒョンス)とマーシャおばさんは落ち着いてお茶を飲みながら会話を始めていた。


「聞きたいことがあるって?」

「ええ、奥さんは教団が設立される前からこの村に住んでいたと聞きました。」

「そうだよ。なーんにもなかった時代からこの村にいたからね。」

「えっ?じゃあ、最初からこんなに栄えてた村じゃなかったんですか?」

「そりゃそうさ。正直、こんな雪とヤクくらいしかいない高原に誰が興味持つってのさ。今の賑わいは全部教団のおかげだよ。」


ルカの言っていた通り、正確な情報を知っているようだったので、都賢秀(ドヒョンス)はすぐに本題に入った。


「ちょうど良かったです。伺いたいことがあります。」

「伺いたいこと…?」

「はい。教団がどうやってできたのか…そして、聖女様がどうして選ばれたのかを…」


意外な質問だったのか、マーシャおばさんは一瞬ぽかんとした顔になった。


「ふうん…そんなことを聞かれるとは思わなかったねぇ。」


聖女を良く思っていない人に、聖女について聞くのは少し緊張するものだったが、返ってきた言葉は意外なものだった。


「私があの子を悪く言うのはね…本当に可哀想な子だからなんだよ。リリカは…」


まるでリリカをよく知っているかのように、マーシャおばさんは静かに語り始めた。


「聖女様のことを、よくご存知なんですか?」

「もちろんさ。実は私は、昔は街で暮らしていたんだけど、夫を亡くしてこの村、つまり夫の故郷に戻ってきたんだ。でね、この貧しい村の中でも、特に貧しい子が一人いてね…。それがリリカだったのさ。」

「えっ!?聖女様って、貧しい家の子だったんですか?」

「いや、リリカちゃんは、親御さんが早くに亡くなって、ずっと一人きりだったと言っていたよ。」


その言葉を聞いた瞬間、なぜかルカの表情が一気に暗くなったが、マーシャおばさんの話に夢中になっていたため、誰もその変化に気づかなかった。


「村人の使いをして、お金を少しずつもらって生計を立てていたのさ。明るくて、働き者で、本当にみんなに好かれていたよ。」

「明るくて優しい…?しかも使いをして暮らしてた…?」


聞いていた都賢秀(ドヒョンス)たちは、自分たちが知っている聖女像とのギャップに戸惑い、顔を見合わせていた。


マーシャおばさんは続けた。


「唯一の家族だったおばあさんの薬代を稼ぐために、どんな仕事でも引き受けていた、本当に健気な子だったよ…。でも、ある日、事件が起きてしまったんだ。」

「事件…?」

「そうさ。この村に、未曾有の干ばつが起こったんだよ。」


雪に覆われた村ではあったが、夏には雪が解けて、その短い期間に小麦を育てて食べていたのだという。


しかし、五年前の冬から、異常な気候変動が続き、雪は降っても夏には雨が降らなかったのだ。


「冬は雪があるから飲み水に困らなかったけど、作物には全く役に立たないからね。夏に小麦が育たず、食料の備蓄もできず、家畜の餌もなくなって…人も家畜も、飢えでどんどん死んでいったんだよ…」


干ばつと飢餓、そして…


「そして、最悪なことに、伝染病まで流行ったんだ。」

「それでね、人々は突然、吐き気や下痢に襲われて、あっという間にガリガリに痩せ細って…まるで干からびた薪のようになって、ゆっくりと死んでいったのさ。」


干ばつに加えて疫病までも――まさに生き地獄のような状況だったことは想像に難くなかった。


ただ、ひとつだけ引っかかることがあった。


「…でも、症状を聞く限り、どう考えてもコレラっぽいんだけど…。こんな寒い地方でコレラなんて、普通じゃ起きないはずなのに…」


そう疑問を口にした都賢秀(ドヒョンス)に、マーシャおばさんは首を傾げた。寒冷地育ちの彼女には、そうした病の知識がなかったし、ルカとジャリョンに至っては「コレラ」という病名すら初耳だった。


ただひとり――レトムを除いて。


《確かに、寒冷地ではコレラが流行することは稀ですが…いくつかの条件が重なれば、発生することもあります。ですので、確認させてください。この地域では水を煮沸して飲んでいましたか?》

「ええ、もちろんだよ。寒い地域だからね。冷たい水を飲んで体が冷えたら大変だって皆が思っていて、必ずお湯を飲むのが習慣だったんだよ。」

《では、干ばつの時期も煮沸して飲んでいましたか?》

「…いや、それがね。薪がまったく手に入らなくなって、仕方なく生水をそのまま飲んでたんだよ…」

《そして、普段の排泄物などは、川に流していたんですよね?》

「うん、そうだけど…」

《ようやく、すべてがつながりました。コレラが発生した原因が。》


レトムは小さく頷き、学者のような口調で分析を始めた。


《この村を流れる川は普段は水深も流れもある程度あって、多少汚物を流しても水質が大きく汚染されることはなかったでしょう。しかし、長期にわたる干ばつのせいで水深は浅くなり、流れも遅くなり、排泄物などが川に留まって腐敗し始めた。そして薪も尽き、生水をそのまま飲むしかなくなった結果…汚染された水を飲んだことで、コレラが発生したのです。》


全員が驚きに目を丸くし、言葉も出なかった。


得意げなレトムは、ふんっと鼻を鳴らした。


《ふふん!これで私の偉大さがわかったでしょう!》

「今まで何も知らなかったのに、ちょっと知ってること出てきたからって、すぐ調子乗るのな。」

《そこ突っ込まれるとAIでもちょっと傷つきますからね!?》


都賢秀(ドヒョンス)の皮肉にレトムが抗議しながら小競り合いを始める。


そのやり取りはいつも通りの光景だったので、ジャリョンは止める気すらなかったが――


「うるさいっ!続きを聞かせてよ!!」


ルカの鋭い一喝に、場がピタリと静まった。


「それで?干ばつと疫病が聖女様とどう関係あるっていうの?ママ?」


ルカの真剣な表情に、マーシャおばさんは姿勢を正し、再び語り出した。


「…あの時、村全体は、本当に言葉にならないくらい地獄だったよ。雨は降らないし、人々は疫病で倒れていくし…もう皆が希望を失いかけていた。そんな中、唯一の希望になっていたのが…リリカだったのさ。」

「聖女様が?」

「そう。毎日、村の広場に出ては、疫病が収まるようにって必死に祈ってたよ。その姿を見て、どんなに落ち込んでいた人たちも、少しだけ心が安らいで…病気にかからないようにって、人混みに行くなと心配してくれるほどだった。でも、それがすべての始まりだったんだよ…」

「始まり…?」


その頃のことを思い出したのか、マーシャおばさんの表情は一層暗くなった。


「誰もが病に倒れていく中で、なぜかリリカだけは、どんなに多くの人と接しても、一度も病にかからなかったんだよ…おかしいって、皆が思い始めて、ついには彼女に聞いたんだ。『どうしてあなただけ、病気にならないんだ?』って。」

「…偶然、ってだけじゃないですか?」


疫病の中でひとりだけ無事だったとなれば、奇跡のように見えたのも無理はない。だが、それがただの偶然だった可能性も否定できない。


「私も最初はそう思ったさ。でもね、そのときのリリカの答えを聞いた時、村人たちの目が変わったのを、私は今でもはっきり覚えてるんだ。」

「なんて答えたんですか…?」

「ママが、私を守ってくれてるの』って。」


…その言葉を聞いた瞬間、都賢秀(ドヒョンス)の脳裏にある存在がよぎった。


――キューブ。


今まで様々な世界を巡り、何度もキューブの力を目にしてきた都賢秀(ドヒョンス)は、まさかと思いながらも、確信に変わっていった。


「聞いた話だとね、家の宝物のような聖なる宝石を、大切なママの形見だと思って、ずっと身に着けていたんだって。ママが遺言で、『これだけは手放しちゃダメ』って言ったらしくてね。その宝石が、ママの代わりだって、あの子は本気で信じていたのさ。」


子供の純粋な信仰心…その一言が、絶望の中にいた村人たちにとっては、天の啓示のように聞こえたのだろう。


「そして…その宝石を持って家族のもとに来てくれって、皆が頼み始めたんだよ。するとね…驚くべきことに…」

「…病が治ったんですね。」

「そうさ。まるで奇跡のように。リリカが手を添えるだけで、死にかけていた人たちが次々と立ち上がったんだ。」


その噂は他の村にも広まり、治療を求めて多くの人が訪れるようになった。


そして、決定的な出来事が――


「皆がリリカを神のようにあがめ始めて、今度は…雨を降らせてほしいと、お願いしたんだ。」

「えっ…でも、そんな力があるわけ――」

「リリカも怖がって、『そんな力はないよ』って必死に否定したそうだよ。でも…」

「…雨が降ったんですね。」

「うん、降ったんだよ。」


そこからの流れは、もはや想像に難くなかった。


リリカはただ、祈っただけ。人々の幸せを願って、純粋な気持ちで祈っただけだった。それなのに、偶然キューブの力が重なって、病を癒し、干ばつさえも解決してしまった。


それが人々の信仰を呼び起こし、彼女を神格化させてしまったのだ。


「最初はね、リリカの祈りを支えるための、ただの小さな施設だったんだよ。それがいつの間にか人がどんどん集まってきて…信者が増えるにつれて、教団の人間たちは自分たちの欲望を満たすようになった。」


マーシャおばさんの目には、明らかな怒りと悲しみが浮かんでいた。


「リリカは気づいていたよ。自分が持っていた“聖なる石”…あの“聖物”が、人々を惑わせて、教団の力の源になっていることを…。だからこそ、苦しんでいたんだ。」

「だったら壊せばいいのに…!」


思わずルカが声をあげたが、マーシャおばさんは静かに首を振った。


「それができないんだよ。あの子にとって、あの石は――亡くなったお母さんの代わりだったから。唯一の家族の形見なんだよ。…どれだけ人を惑わしているって分かってても、壊すことなんて…できるわけない。」


その言葉に、場の空気が一気に沈んだ。


今まで“聖女”をただの教団の広告塔だと思っていたド・ヒョンスも、今では軽々しく口にできなくなっていた。


「これで、すべての真実が明らかになったわけですね…」


都賢秀(ドヒョンス)は、重く沈んだ声でつぶやいた。


聖女が抱えていた「秘密」――それは、人々を騙すための偽りではなかった。


むしろ、すべてが偶然に重なった「奇跡」に過ぎず、彼女はその中で孤独と責任に押しつぶされていたのだ。


「…これは、困ったな…この状況でキューブを壊したら、聖女がどうなるか分からない…」


キューブを壊すには、本人の協力が必要だった。だが、それを“母の形見”だと信じて疑わない彼女が、素直に手放すはずがなかった。


もし力ずくで奪って壊せば――


聖女は、支えを失い、取り返しのつかない行動に出るかもしれなかった。


もし、彼女が本当に悪女だったなら、何のためらいもなく奪い取ったかもしれない。


でも――今となっては、もうできなかった。


「…どうしよう…」


都賢秀(ドヒョンス)、ジャリョン、マーシャおばさん…皆が黙り込み、頭を抱える中――


「心配しないで。わたしに任せて。」


その声は、意外な人物から発せられた。


ルカだった。


その小さな身体に、信じられないほどの決意がみなぎっていた。


「わたしが…聖女様とちゃんと話してみる。」

「ルカ…お前…」

「だって…わたし、聖女様の気持ち、ちょっとだけ分かる気がするもん。」


突然大人びた表情になったルカに、都賢秀(ドヒョンス)たちは言葉を失った。


無邪気で自由奔放だったはずのルカが…


その目には、これまで見たこともないほど真剣な光が宿っていた。


「大丈夫。きっと、リリカ様なら…わかってくれるよ。」



その言葉には、確かな確信があった。


マーシャおばさんも、静かに微笑みながら頷いた。


「そうだね…あの子なら、きっと…」


すべてを知った今、リリカの本当の姿を理解した今――


もう誰も、彼女を「偽りの聖女」と呼ぶことはできなかった。


そして、新たな運命の歯車が、静かに回り始めたのだった――

最後まで読んでいただきありがとうございます!

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