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第九章 加賀千夏

 青藍高等学校は主に二つの棟から成り立っている。一年生及び二年生が普段使いする教室を中心とした東校舎と、三年生の教室及び移動教室が中心の西校舎だ。その両棟を教職員室などを含む連結棟が繋いでいるため、上空から見下ろした航空写真や宣材写真を見るとさながらアルファベットのHのように見える。

 代り映えのしないホームルームの後、僕は連結棟を経由して西校舎へ渡り、三階に続く階段へと足をかけていた。受験をそう遠くないうちに控えた先輩諸氏の城前を過ぎ去ることにあまり心地よさは感じないものの、かといってここを通らずして目的地にはたどり着けないこともあり、僕は気持ち早めに歩を進めて階段を登り切り、そのまま通路の最奥に構える教室の扉を開いた。

 扉の滑車が転がる音に遅れて、ある種の油のにおいが鼻に染みた。

 教室後部の棚の上で自然乾燥を待つ粘度彫刻のにおい……

 林立する木製イーゼルのそれぞれに立てかけられたカンバス上で幾重にも塗られた乾燥済みの絵具のにおい……

 水に溶かされて粘り気を帯びた油絵具のにおい……

 そのどれもが僕は嫌いではなかった。ただ、このにおいを嗅ぐためだけに毎日のように美術室に通うかと聞かれると、先述した教室の立地云々の理由も相まって回答を濁す他はない。

 挨拶を投げかけてみるも返事はなかったがいつもの事だった。僕は後ろ手に扉を閉め、美術室の中ほどまで歩み、正面の窓側へと顔を向けた。

 黒板から最も近い窓のひとつは全開にされており、そこから吹き込む風が、端へと寄せられた赤黄色の遮光カーテンをちらちらと揺らめかせて、寂しい空間の中に僅かな動きを付け加えている。その全開にされた窓の正面にイーゼルが一脚立てられており、相対する椅子に腰かけた女子生徒の後ろ姿もまた、右手に挟んだ鉛筆をくるくると手先で弄ぶ動作によって、教室内に滞留する空気をかき混ぜていた。

 イーゼルの上にはA3サイズのスケッチブックが立てかけられ、その一ページには風景画が描かれている。丘のふもとに広がる住宅街、周囲に散見される木々、遠景の自然。それらの大枠が荒削りの木炭から生まれたであろう太い黒で縁取られ、一部の細かな部分には鉛筆による補正が適宜加えられている。

 ぴんと張られたカンバスへと後に移される下描きでなければ、これで完成だと言われてもそこそこ納得してしまうくらいには出来栄えのよい一枚絵を肩越しに鑑賞して、無意識に小さな感嘆が口の端から漏れたのかもしれない。

 直後……ご機嫌に踊っていた鉛筆が右手からこぼれ落ち、心底驚いたという表情をして持ち主である女子生徒が振り返った。

「お前、ふざけるなよ。心臓に悪いだろうが……」

 僕の存在を認めた彼女は眼鏡の奥で丸く見開いていた目を急速に細めながら毒づきつつ、身を屈めて落とした鉛筆を再び手に取った。そうして小さく舌打ちをしたかと思うと、今度は画材一式を収めた収納箱から細いデザインナイフを引っ張り出して、落ちた拍子に折れたらしい芯の先端を削って成型し始めた。

「ちゃんと挨拶したつもりなんですけどね」

「自分がそんなに存在感のある奴だと思っているのか。もっと腹から声を出せ」

「そうすると、今度はうるさいと文句を言うでしょう」

「静かに部室に入ることもできないのかと返すだろうな」

 そんな理不尽があってなるものか。選択肢というものは結果に影響する場合にのみ与えられるべきであり、そうでなければ人前にわざわざ示す必要性はない。

 僕が「それでは、一番良い手はなんですかね」と正解を求めると、「毎日決まった時間に部活に顔を出すことだ」と、美術部部長である加賀千夏は脚を組みながら向き直り、至極もっともな解を提示した。


 この加賀千夏という女子生徒――敬愛すべき三年生の大先輩であるがために、今後は千夏先輩と書こうか――なのだが、先に述べておくと言葉の節々に少々鋭さの目立つ口調であれこれを話す。それも、小指の端に生まれたささくれのような可愛げのあるものではなく、さながら面取りをしていない金属板の縁をも彷彿とさせるものだ。だが、この口調の角については彼女自身も理解しているということ、相対する僕が美術部の活動に心底熱を入れているわけではないこと、その他諸々の事項を考慮した上でこのような話し方であることから、彼女が格別に偏屈で傾いていてもはや矯正が不可能な状態にあるわけではないということを、余計かもしれないが彼女の代わりに弁明しておく次第である。

 彼女の背丈は低く、以前述べた僕の妹と同じかそれ以下と言ったところか。うなじの上あたりで一本にまとめた後ろ髪は、おろす前の絵筆のように先を細めながら背に引っかかっている。

 分厚いリムによって四方をしっかりと形作られた赤い眼鏡は、油絵具を平面へと塗りたくる高尚な趣味によって摩耗した彼女の視力を休むことなく補強し続けている。そのレンズの奥には顔に比して大きな二つの瞳が埋まっているが、僕はその本来の大きさについてあまり印象にない。

 彼女は人――無論、僕も含めて――と話す際にはほぼ例外なく、意識か無意識か、目を扁平に細めて相手を見据えるためだ。故に、常にその瞳からは、彼女の顔立ちを歳よりも幼く感じさせる雰囲気よりも、小心者を怯えさせる威圧感の方が色濃く滲み出していた。


 千夏先輩は「お前が最後に顔を出したのはいつだった」と問うと、僕の返事を待つのも億劫なのか、「先月の初めだぞ」と早々に明かした。

「このまま『八号』として消えるのかと思ってたが」

「ちゃんと顔を出してるんで幽霊部員ではないでしょう」

「一か月に一度しか来ないくせに身体は透けていないつもりだって? つい五分前までお前は紛れもなく『八号』だったよ」

「というと、他の七人は」

「影も形も、」

 そこまで言って千夏先輩は、満足のいく形にまで削って復元した鉛筆の先にふっと息を吹きかけ、「……だ」と後付けで呟いた。

 予想の範疇にきっかり収まる彼女からの現状報告に納得以上のものを感じることはなかった。この美術部が盛況とはほど遠い状況にあることは前々から周知の事実である。三年生は千夏先輩の一人だけ、二年生は僕を含めて八人、一年生――つまるところ今年の新入部員――に至ってはゼロ人である今年度の美術部のスタートダッシュを鑑みれば、活気に溢れている放課後の美術室を想像する方が余程のこと難しい。

 合わせて、その新学年の始まりに合わせて、美術部に籍を入れている二年生の内、僕を除いた全員が顔を出さなかったことから、この美術部はスタートダッシュの可否どころか、そもそも走り出しているのかどうかすら疑わしい状況にあった。

「それで、盆休みはまだ先だってのに、幽霊さんはどうしてこちらに」

「用がなければ顔を出してはいけませんか」

「逆に聞くが、用がないのに顔を出すほどお前は殊勝なのか」

 持ち直した鉛筆の先端よりも、テンプルの合間からのぞく冷めた視線よりも、なお鋭い観点だった。なるほど、そう言われるとこれまた納得する他はない。

「僕も昨日知ったことなんですけど、先輩の方が気にするかなぁと」

「ほう。言ってみろ」

「絵画コンクールのことなんですが」

「今年度で最後だ、って続けるつもりなら私は作業に戻るぞ」

 そう言って千夏先輩は僕の方へ向けていた姿勢から座り直して、再びカンバスを正面にして下描きの細部の確認へと注意を向けた。

 千夏先輩がこの情報を既に握っていることに関してそこまで驚くことはなかった。

 先日、シュウから件の話を聞いた後に確認の意味を込めて当該サイトをのぞいてみたところ、その記事は二日前に公開されたばかりであり、そこそこ新鮮味のある情報だということが判明した。とはいえ、小学生の頃から毎年欠かさず応募して幾度か入選も果たしているという千夏先輩の熱の入れようを鑑みると、この件に関する最新の情報を未だ知らないというのはかえって変だとも捉えることができたためだ。

 僕が驚いたのは彼女の情報収集力によるところではなく、決して小さくはないであろうその発表に対してあまり関心がないかのように見える態度にあった。

「あまり驚かないんですね」

「決まったことは仕方がないってだけの話だ。他に何かあるのか」

「いえ、驚きのあまりひっくり返って頭でもぶつけないか心配しただけです」

「お前は私を何だと思ってるんだ」

「筆を走らせることに熱心な素晴らしい大先輩だと思ってますよ」

「お前らがもれなく辛抱ないだけだろう」

「それじゃあ僕はこれで」

「おい。描いていかないのか」

「今日は描くよりも読む気分なんです」

 足元に置いていた鞄を手に取って背を向けると再び呼び止められた。振り返ると千夏先輩の片手は掃除用具箱を指さしていて、帰るついでに床の掃き掃除くらいしていけと無言で主張している。

 美術室の本来の清掃担当が片し損ねた埃や、ついさっき剥かれたばかりの鉛筆の外皮をかき集めて、美術室後方の屑籠に放り込んだ僕は、相変わらず返事はないと分かっていながらも退出間際に控えめの挨拶を残して、今度こそ美術室を後にした。

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