第三章 発端
白金雪花なる転校生が人混みに埋もれて姿を眩ませた頃合いに、昼食後の眠気が頂点に達していた僕へちょっかいをかける者がいた。
百七十二の背丈の僕より十センチ以上は高い位置に頭を携えるその男は、片頬をべったりと机の天板に貼り付けてまどろんでいる僕を文字通り尻目にして、机の端に腰を引っ掛けながら、魚市場の朝一競りもかくやと賑わう右斜め後方を眺めていた。
僕が「また変えたのか」と尋ねると、「んっ?」という補足を求める催促が返ってきた。制汗剤のことだと付け加えると、「おう。新作だったからついな。どうよ」と言いながら、シュウが感想を求めて僕の方に向き直った。
彼曰く新作らしい制汗剤がシトラスをコンセプトとしていることに現物の缶表面に巻きつけられたラベルを実際に見るまでもなく見当がついたのは、僕の嗅覚が人並外れて優れているためではなく、彼がそれを全身へと過剰に振り掛けていたがためであった。
柑橘類のにおいを得意としない僕がしかめっ面でその旨を伝えると、シュウは「マジかぁ」とか何とか呟きながら、よく手入れされた真っ白なシャツの襟首を指先で摘まんで、ぱたぱたと軽く扇いだ。
次いで、「お前は声かけてこないのか」というシュウの提案が右耳に入ってきたが、その問いに対しては、まさかという感想しか浮かばなかった。
対人コミュニケーション能力のバケモノみたいなシュウとは違い、あんな異性だけで構築された蜂球の中に堂々と飛び込む度胸は持ち合わせていない。そうした蛮勇を仮に備えていたとしても、転校初日の誰それにいきなり話しかけるなどという積極性や好奇心といった精神性と僕とは、生憎折り合いが悪かった。
そのことは長い付き合いのシュウだって十分承知していることだろうから、僕は是非を答える代わりに、彼と同じ内容の問いかけをそのまま返した。
シュウは「同じクラスなんだから、まぁ今日じゃなくてもいいや」と言って机から腰を離すと、その場でぐっと屈んで僕と目線の高さを合わせた。その所為から話の本題が別のところにあるのだということが透けたので頬を上げると、彼は次のように切り出した。
「帰りにお前ん家に寄っていいか」
「いいけど、何の用なんだ」
「ん、まぁ、そんときに話すかな」
「なんだよそれ。というよりもバスケ部はいいのかよ」
親切心で確認すると、シュウはうぅんと思慮を巡らせるふりをした後に「俺が一日二日いなくたって問題なく回るさ」と言ってのけた。ただサボりたいだけなんじゃないかと腹を探ってみたところ、彼は否定も肯定もせずに口角をただ僅かに上へと持ち上げるに留めたため、僕としてもそれ以上追求する気は失せた。
同時に、バスケ部の副部長である力也が、部長のきまぐれな失踪に頭を抱える姿が薄らぼんやりと想起されて、彼の気苦労の芽を今この場で刈り取らないことに対する申し訳なさを若干感じたりもした。
それでも僕が目の前の気まぐれやの要求を拒まなかったのは、ここ最近においてバスケ部の総大将であり、学び舎の組を同じとする身であり、幼馴染でもあるシュウと、くだらない話や暇つぶしに興じる機会がめっきり少なくなっている現状を自覚していたためだ。
ゲームのログインボーナスでもあるまいに、いい歳した男同士が定期的に懇ろする必要などないのだろうが、そうとしても級友から差し出された脈絡のない戯言にたまには付き合ってやろうかといった心の余裕程度は持ち合わせているつもりだった。
「それじゃあ、終わったら一緒に帰ろうぜ。さっさと消えんとデカいのが怖いからな」
そう言いながらシュウはすっくと立ち上がり、Lの形にした右手を角に見立てて古典的な怪異を表現すると、次の授業の準備のために自席へと戻っていった。
膝を伸ばした直後に彼の顔は彼の腰と入れ替わって僕の視界から急浮上したが、わざわざその表情を追うために上半身を持ち上げる気力すら湧かなかった僕は、視線だけを起こして彼のTシャツの背面上部に走るプリーツをただ見送るに留めた。
そのまま無気力に、長くはない休憩時間の大半を消化してから、僕はようやく次の授業の準備のため、机の右隣の取っ手に掛けた通学鞄をまさぐるために座ったまま身を屈めた。
その拍子に教室後方もちらりと視界の隅に入り込んだが、六時限目の開始を告げる鐘がもう間もなくというにもかかわらず、田舎者たちによる相変わらずの盛況がそこには続いていた。