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第二十九章 散逸

 その日、僕は一人で祖母の家から外出した。

 八月の、何日だったかまでは覚えていないが……五歳の誕生日を二か月前に迎えた当時の僕にとって、住み慣れた家ではなく、帰省先からの「一人旅」は、実に冒険らしいものであった。

 きっかけは些細なことに過ぎない。二年前、我が家にもう一人の家族が加わり、両親も祖母も祖父も、皆が皆、その新顔へと関心を移行させたことによって、知らぬ内に兄という肩書を得ることになった僕は家系図から一人、浮いていたのである。

 僕の目に妹は、親族一同の関心を根こそぎ奪う侵略者として映ってはいたが、だからと言ってその眉間に玩具の銃口を向けたがるような排他的衝動も湧かず、その内に僕は一人で過ごすことを当たり前とするようになっていた。

 しかしながら、八月の末日までを帰省先で過ごすことになった当時の僕は、両親や祖父母の興を削ぐことは平素の通り望まず……それでいてやはり個人としてはこれ以上ないまでの退屈を持て余したことで……その日、玄関で黙って靴を履き、手ぶらのまま正午過ぎの青空へと繰り出したのである。


 七美市を片田舎とするならば、そこから車を一時間以上走らせることで到着する母方の実家が建つところは田舎そのものと言えた。大型施設はおろかチェーン店やコンビニなども存在せず、誰の名義かも知れぬ田畑の隙間に幾つかの個人商店と、野菜の無人販売所がぽつりぽつりと散見されるばかりである。

 自然の中に埋め込まれたようなその町を囲むように粗雑な森林と、町の輪郭の一辺を縁取るように走る川があったのだが、さて、僕は当てもないままてちてちと、その浅く細い川へと何となくたどり着くことになった。十分か、十五分か、その程度の距離だったと思われるが、何分幼稚園児の歩幅を用いての所要時間であったことから、実際に物差しで計測したならば、存外大した距離ではかったのかもしれぬ。

 だが、当時の僕からすれば右も左も緑ばかりで代り映えのない地理を一人で歩いたことは相応の冒険であった。きらきらと眩しく綺麗な小川が目に入り機嫌を良くした僕は土手の斜面を下り、比較的大きな石や礫の広がる白い川岸へと腰を下ろし、形の良いものを見つけてはそれらを積んで遊んでいた。

 より大きく平らな石を探しては土台を更新し、より凹凸がぴたりと噛み合う一組を探しては中層を更新し、より艶やかで扇情的な小石を探しては頂点を更新し、そうして飽きもせずに河原で一人、せっせと建設に勤しんでいたのである。

 だが、工事には工期が定められるように、投書には締日が定められるように、作業には止め時というものが訪れる。僕の石積みの一区切りは強い風が吹いたときであった。

 賽の河原では子が懸命に積み上げた石の塔を、特殊性癖の鬼が蹴飛ばして回るという。積み上げた不安定な石の群れが強風に煽られてぐらりと傾ぐとき、僕は作業を一時中断してその側面に手を添えては、鬼の代役として安定を乱しに吹き抜ける風を凌いでいたのである。


 そのような何度目かの折であった。

 川べりに風が抜ける気配を察し、僕は手にした石をその場において作業を中断していた。予想通り、小川を挟んだ対岸に生い茂る深い木々の枝葉がざあざあと騒ぎ始め、夏のにおいを抱えた涼やかな風が一陣、僕の背中を押すように背後から吹き抜けたのである。

 その自然の躍動の中に、「――……あっ」と、聞き逃しても何ら不思議ではなかったであろう微かな声が含まれていた。空耳か否かを確かめるために、目を細めながら背後を振り向いた。

 白と灰の石が薄く広がる河原の端からは、緑の雑草が覆う土手の斜面が伸びている。緩やかな坂を登りきると、平坦な土の道が小川のうねりに沿って緩やかに続いているが……僕の腰かけていた場所から丁度真後ろにあたるその歩道の上に、人の姿があった。

 太陽の日差しが高くから注ぐことで、その人の姿は逆光に埋もれて判然としない。だが、二人並んだ陰の内、突風によって高く舞いあげられた帽子を小さい方の一人が手を伸ばして掴もうとしていたことだけは理解できた。

 直後、流れてきた雲に太陽が少し隠されて日差しを弱め、そこで僕は彼女と――彼女の母親も隣にいたが、申し訳ないがその時の僕には殆ど眼中になかった――初対面を果たした。

 今も昔も僕は神や仏といった類を信じてはいない。電車やバスの車内で突如腹を下した際に、次の駅まで耐え凌げるよう天を仰ぐことはあっても、日常生活を彼らに捧ぐほどに従順ではない。

 だが、そのような僕においても、あの日……天使というものが実在したのかと……ほんの一瞬ながら本気で信じた。それほどまでに帽子をさらわれた瞬間の彼女の立ち姿が、美術館に飾られた絵画のどれかの如く一枚の作品らしくあり、印象の深くに残ったためである。

 彼女の視線を追って上を見上げた僕は、そのつばの広さによって風を受けて舞い上がった白いキャペリンハットが、未確認飛行物体かのようにふわりふわりと滑空し、こちらへと飛来していることを認めた。

 高度を下げながら、それでいて今座り込んでいるこの位置よりは後方で地に着くであろうと判断した僕は、その場から立ち上がり、ピッチャーフライを捕球する投手が如く、目標物を視界の真ん中に収めながら、一歩、二歩と後退した。

 視界の片隅に映っていた彼女とその母親は慌てた様子で土手の斜面を降れそうな場所を探していたが、その様子から僕は、飛ばされたあの帽子が余程の事大切なものなのであろうと考え、ならば確実に捕まえてやらねばならぬとより一層の親切心と熱意を作ったと同時に、僕の視界を狭くしていた。

 更にもう数歩下がったところで、遂に落下してくる帽子に伸ばした手が届き、両手に収めることができたのだが……上ばかり見上げていて下への注意が疎かとなっていたらしい……水際の相当近くにあることで水飛沫に濡れた石に足を滑らせた僕は、そのまま後ろへと腰をつき、ばしゃんっと下半身を小川の際へ浸らせるはめになった。

 両手は帽子を握って高く伸ばしており、加えて不意に姿勢を崩したことも相まって、僕は受け身を取れずに、文字通りの尻もちを晒した。砂利に打ち付けた痛みは中々の――幼年の身としてはかなりの――ものであり、僕は泣きたくなった。

 そこに、適当な葉の上を粗野に下った僕とは異なり、どこか河原へと至るに適した場所を探してきたらしい彼女の母親が向かってきて、怪我はないかだの何だの心配してくれた記憶がある。そのすぐ後ろに、僕が一瞬天使かと思えた彼女がおり、これまた心配そうな瞳でこちらに視線を配っている。

 そのような状況となったことで、僕は出かけた涙を引っ込めて、恥を隠すために精一杯の空元気を表にした。伸べられた手を取るよりも先に、川に浸らぬよう頭上に掲げていた帽子を母親の陰にいたその子へと差し出すことで、至って健康であるというアピールとした。

 彼女は始め少しばかりおどおどとしていたようではあるが……帽子を受け取り、頭の上に乗せると、そこで気が少し落ち着いたのか……にこりと笑みを向けて「ありがとう」と礼を述べた。

 彼女の母親は家まで送っていこうかと心配したが、ぐったりと濡れたズボンの様子が――不慮の事故であったにしても――さも粗相をしでかしたそれを思わせるものであり、その子の横に連れ立って歩くことを良しとしなかった僕は、直ぐ近くだから大丈夫だと言って提案を断った。

 彼女たちと別れた後、僕は濡れた足跡と零れた水滴を道中に残しながら引き返して実家へと戻った。その濡れ鼠の様子を家族は――特に母親は――大層気に掛けたものの、当の僕には着ている服を乾かさんばかりの昂揚があったため、そのような面倒は些事であった。

 退屈を持て余していた一日に色が付き、僕は満足していたのである。


 家にいたところで退屈ばかり――もっとも、先の一件により、両親と祖父母は妹に割く寵愛のどれだけかを僕へと再分配してはいたものの――であったため、その日以降、僕は毎日のように例の小川へと足を運ぶようになっていた。

 彼女とその母親は毎日十四時の前後、決まった時間に小川に沿う土手を通りがかる。日課の散歩だと、二度目に会った際にどちらかがそう明かしていた。

 彼女は身体の具合が良くないらしく、遠縁の親戚が住むこの澄んだ空気の地にて、母親と共に一時世話になっているとのことである。その不調の原因についてまで尋ねることはしなかったため、日課の散歩と体調の改善がどうして繋がるのか、当時の僕は分からず仕舞いであった。

 僕が河原で石を積んでいると、彼女は土手から寄り道し、少しばかり一緒に遊んだ後に別れる。その繰り返しであった。

 その内に僕の目的は、鬼に献上する石の塔の建築ではなく、その子と顔を合わせることへと移り変わっていった。

 遊ぶ内容も建築一辺倒ではなくなり、雑草に混ざる花を摘んだ冠作りや、石切など、手頃なものを拾い上げては退屈しなかったように思える。

 ただ、何時だったかの交流の際、草花の隙間からカエルが一匹飛び出したことがあり、僕と彼女はきゃあきゃあとはしゃいでいたものの、彼女の母親だけは別種の叫び声と共に離れ、遠巻きに僕たちの様子を眺めていた覚えがある。


 ある日、僕はこの小川では砂金が取れると彼女に話した。この小さな川に源流と同名が付けられているのか、あるいはまた別の名が専用に用意されているのか、その辺りについてまでは詳しくなかったが、とにかく僕の頭には、金獅子川ではきらきらとした金の粒が採取できるという知識が収蔵されていたのである。

 その根拠は当時より更に一年前のこと、やはり同じく帰省していた僕を連れて、祖父がこの小川へと足を運んだ日の記憶にあった。祖父はこの県と市を流れる金獅子川ではかつて砂金が溢れており、そこから派生したこの川でもまた砂金が採取できると話したのである。

 四歳だったかそこらの僕に砂金の概念は想像しにくかったが、それを集めて練り合わせればテレビやコマーシャルで見かけたことのある金の延べ棒や小判――これらが世間一般では大層価値のあるものとして扱われることだけは知っていた――と同じものになると聞き……にわかには信じることができなかった。そのような立派なものが目の前のちんけな川に混ざっているとは到底思えなかったのである。

 祖父は靴を脱いでズボンのすそをまくり上げると、懐疑的な僕を河原に座らせて待たせ、川の流れの中に何歩か進入し、腰を屈めて水へと手を突っ込んだ。暫く後、祖父は陸へと戻ってきたが、皿状の手の中には確かに金色の何粒かが乗せられており……僕は大層関心したのである。

 さて、聡明な読者諸君はこの話をやはり懐疑的に捉えることであろう。その疑い深さを大切にしてもらいたい。当時の僕は見事に騙されたが、君たちにはそうならずにいてもらいたいものである。

 砂金の採取というものは一般的に、鉱脈から流出した粒上の金をすくい上げることで成される。周知ではあるが金は水に沈む。別段、金と水に限った話ではなく、液体よりも比重が大きい物体を投入すると、その一個は液体の底へと沈んでゆく。金は水に溶けず、比重が大きく、色も黄色で目立つため、人の手でも振り分けて判別できるわけだ。

 ところで、皆は黄鉄鉱というものをご存じだろうか。硫黄が混ざった鉄である。硫黄というのは温泉などで知られる、独特なにおいの黄色い物質のことだ。鉄は言わずもがな、代表的な金属のひとつであるため説明は省こう。

 その黄鉄鉱だが、水に溶けず、比重が大きく、色も黄色で目立つ。お分かりだろうか、砂金とそっくりなのである。

 だが、黄鉄鉱は金と比べて遥かにありふれた物質である。代替物質の開拓や発明によって用途も乏しく、希少価値とは程遠い。しかしながら、その見た目ばかりは砂金のそれと通じるところがあり、川底に沈んでいればぬか喜びする人間も少なからずいることだろう。

 祖父は砂金と黄鉄鉱の違いについて当然知っていたことだろうが、年に一度訪れるかどうかといった孫に、紛いものであれ何であれ、希少な体験をさせてやろうと考えていたに違いない。その目論みに僕はまんまと引っ掛かったことになる。


 さて、それから一年が経ち、僕はその砂金――実際には、前述したとおりの黄鉄鉱だったわけだが――採取の思い出を彼女へと語った。彼女もまた、かつての僕と同じく、砂金については詳しくはなかったようだが、目の前の水底からは粒上の金属をすくい上げることができると知って興味を抱いたとのことである。

 僕はかの素晴らしい経験を是非とも彼女に体験してもらいたかった。無論、自らの背丈などを考慮すると川の中ほどまでは入ることができず、水際の浅い部分で真似事ばかりに留まるであろうことは想像できたが、それでもきっと楽しいものになると、そう誘った。

 彼女は喜んで賛成し、明日は動きやすい服装で来ると、僕と指切りで約束をした。

 翌日、彼女と母親はいつもの頃合いに土手を通らなかった。

 その翌日も、そのまた翌日も。


 最後に話して四日後となる日、いつものように僕は河原で暇潰しに興じていたが、やはり彼女と母親が通ることはなかった。

 夕暮れで空に赤みがかかる少し前くらいだろうか、そろそろ帰宅しようと、僕は積み上げた石を崩していたところであった。

 その背中に声が掛けられ、僕はぱっと振り返った。

 土手には彼女が立っていた。傍に母親が見当たらず一人だけであり、服装も水遊びに適したものではなさそうであったが、大して気にはならなかった。約束を完全に忘れられていたわけではないことが分かり、喜びの方が勝っていたのである。

 僕はいそいそと斜面を上がり、久しぶりの再会に胸を躍らせた。彼女は日頃とは異なり、帽子を下へと傾けて常に伏し目であったが、やはり僕は未だ喜びの方が強くあった。

 その歓喜は直ちに悲しみへと変化した、

 彼女は引っ越さねばならぬらしい。それも明日には。

 どうしてそんなにも急にと、僕が尋ねても、彼女は涙目のままぐすぐすと判然としなかった。

 やがて僕は、悲壮よりも憤りが上回った。

 約束したのに、何故、どうして。

 僕の質問は詰問になり、やがて回答の是非はどうでもよくなった。

 子ども心に、彼女の行動と態度は裏切りに映った。それも完全に予期していない死角からの一刺し。そのような刃を振りかざした彼女に対し、僕は配慮や礼節の必要性を見出せなくなっていた。

 彼女と相対し、何とぶつけたか、一字一句間違いなく書き起こす自信はない。ただ、衝動のままに感情を吐露しただけであり、もしかすると文法としての体も成していない、単語の連なりだったのかもしれない。

 はっきりと覚えていることはひとつ、 

「――……嘘つき」

 そう言い放ったことは、間違いない。

 直後、僕は頭痛に襲われたが、胸の痛みの方が大きく在ったために気にも留めなかった。

 彼女に背を向けて走り、帰宅し、数日後、僕もまた実家を離れて本来の家へと戻った。


 それから小学校へと進学し、砂塵化を意識し、中学を過ごし、高校三年となるこの時まで、その一連の記憶を思い出すことはなかった。

 剥がれ落ちていた記憶の中にある……彼女の……「白金」という苗字の女の子のことも……

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