第二十八章 激流
僕の身体は動悸によって砂となる。
そのことに関しては読者諸君に向けて既に何度も説明しているため、ここで一から語りなおす必要はないであろう。
ただ、訂正したいことがひとつあり、その部分については今のうちに明確にしたい。
僕は砂になる、と説明したが、これは正確な表現ではない。
確かに、僕の身体は荒い粉末状に崩れ、さらさらと下へ下へとこぼれていくのだが、この一粒ずつが厳密に述べると砂ではないわけだ。
砂とは、特定の大きさまで細粒化した岩石のことを主に指す。この一粒がもう少しばかり大きければ礫だの石だと呼ばれ、より細かければ泥だの粘土だの呼ばれるが、定義については地面を弄る専門家に任せることにしよう。
僕が言いたいのは、僕の身体が崩れることで生まれる粒が、岩石を砕いて作られたそれとは異なるという事実についてである。
僕の身体から発生した粒は光沢を有し、光に晒すと青白い発色を見せる。水には溶けず、その密度によって速やかに沈殿する。
素人ながら判断するに、この粒は金属の一種に近い。
雨ざらしにしても酸化せずにくすみのひとつ浮き上がらせないその不変性は貴金属のそれのようでもあるが、身体からこぼれ落ちる点については垢やふけと大差はなく、発生過程も考慮するのであればこのきらきらとした粒を金や銀などといった希少価値の高いものに例えることは憚られる。
だが、いずれにせよ、僕の身体が変化して生じる粒は少なくとも砂ではない。
しかしながら、これ以上に端的かつ簡便に例えられる表現もまた思いつかないため、正確性には目を閉じて、今後もこの粒のことは「砂」であると便宜的に呼称することにするが、読者諸君にはご了承を願いたい。
五月初週の夕暮れは未だに気温が高くはなく、川に流れる水温もまた遊泳には時期尚早のものであった。加えて、吹き付ける風が水に冷やされた部分を運ぶことによって、橋の上よりも寒々と感じられる大気が常に水面を這っている。
雪花に突き飛ばされたことで得た一時の安定により、盲いた目は再び光を取り入れる段階まで回復し、立体音響かの如く右へ左へと触れ動く甲高い耳鳴りも少しばかり和らいでいた。
橋から下方へと、およそ七メートル前後であろうか。僕は雪花の後を追って飛び込んだ。
体調の具合にかかわらず、このような緊急事態の場合はまず救援を呼ぶこと、これが肝心であることについて僕は理解しており、有事の際には実行できるものだと疑っていなかった。
だが、通常考えられぬ現実を目の当たりとすると、最も合理的な手段を実行するよりも先に、期待値の多寡を度外視した最も実行し易い対応を選択してしまうものである。
助けを呼ぶことよりも自らが飛び込むこと……こちらの方がより実行しやすく、即効性があり、ある程度の期待が得られる選択であると、当時の僕はそう判断したのであろう。
さて、愚直にも川へと身を投じた僕だが、冷たい水は瞬く間に衣服へと侵襲し、素肌にぴたりと接着することで空気の通り道を塞ぎ始める。その影響は水中から身を持ち上げることで顕著となり、ぐったりと濡れた生地の重量もまた等身大に感じられるようになる。
川の底は黒く、白い泡に距離感を狂わされることでどの程度の深さがあるのかは判断できない。ただ、着水した際に身体のどこも打ち付けなかったことから、足を付けて立ち上がれるほど浅くもなかった。
僕は水の冷たさに頭痛を紛らわせながら、頭部を水面から生やし、不格好ながらも一先ずの直立を維持しながら周囲をぐるりと見渡した。
水際の風は陸から想像していたものよりもかなり強く、突風に合わせて波と飛沫が低く生み出され、口や鼻を絶えず覆うがために呼吸すら難しい。その強い風が橋の下を潜り抜ける際に轟々と重厚な音を絶えず響かせ、息苦しさと合わさることで焦燥を掻き立てられた。
一刻も早くと急いた気に反し、身体はおたおたとその場で百八十度旋回したところで、三メートルかそこらほど離れた下流にて、ぱしゃぱしゃと水面が弾ける一か所を暗闇の中に見出せた。
僕はテレビやネット上の動画で見たことのある平泳ぎの真似事をしながら、どうにかそちらの飛沫へと近寄ろうともがいた。恥ずかしながら僕は泳げないのである。
遊泳能力が並以下であることを自覚しながらもどうして飛び込んだのか、この点については先にも述べた通り、半ば突発的な、衝動によるものであるとしか答えようがない。
連れが川へと落下したことを認めた直後、僕の脳内には様々な事項――スマートフォンやら財布のポイントカードは使い物にならなくなるだろうなだとか、ひと手間かかろうとも上着くらいは脱ぎ捨てた方が得策だろうかだとか――が過りはしたものの、自身が飛び込む以外の選択肢は存在しなかった。
と言うよりも、僕はこれ以外の選択を半ば無意識に排していたのではないかと、今となっては考えている。即ち、解決に至らなくてはならない問題から目を逸らすためにも、更に急を要する現実に没頭しようとしていたのではないかと。
そのような考えは平素であればある程度許容されるであろうが、こと僕に関しては文字通り、致命的な結果へと結び付くことになる。
だが、この時の僕はとにかく緊急事態からの脱出と解決を最優先としており、自らの身に迫る重要な影響については本当の意味で眼中になく、存在すらも一時的に忘れていたと言ってよい。
下流に押される雪花を追うように、僕もまた流れに沿って川を下る。二人の位置関係は、遅れて家を出た弟が先に出立した兄に追いつこうとしているかのようにくどい接近であり、状況はともかくとして数学の出題のひとつにでもなりそうなものであった。
二人の間の距離が僅か縮まり、陸の上であれば緊張感すら生まれる近さにまで寄ったところで、僕は大声を上げて雪花の名を呼び、右腕を一杯に突き出した。
その呼びかけに気付いた雪花もまた右手を僕の方へと――もっとも、声掛けのみを頼りとしたのか、その指先はふらふらと何となくの方向を示して曖昧であった――伸ばしたが、確かに触れたはずの互いの指先は噛み合うことなく、するりと抜けた。
その原因は直ぐに判明した。
暗がりと飛沫の先には僕の右手が存在していたが……そこから生える指先は水へと落とした砂糖菓子かのようにずるずると波間に呑まれ……一本残らず溶けていた。
指と指の間にあるはずの股はあまりに浅くなり、手のひらの形状は紅葉の一枚よりかはボールのそれに近い。右手の先はなおも崩壊を続け、滑らかな球状に至った次の瞬間にはぐずぐずとした歪みが新たに発生し、全周に気色の悪い窪みを穿ち始める。
極度の緊張、興奮、焦燥……慣れない水の中での酸欠、不快、恐怖……それらが一斉に心臓に負担をもたらしたことによって……砂塵化が暴走していることは明白であった。
僕を突き動かす原動力を占める割合において、尋常ならざる速度で砂と化す腕先を認めたことにより、蛮勇に恐怖が肉薄していた。
果たして、最終的にはどこまで身体が砂となるのか、僕には知りようがなかった。
例えば、多くの寄生種は宿主を殺さずに可能な限りの共存を目指す。それは、宿主が死ねば新たな栄養源を探すために危険を冒さなければならず、その旅路の成功する保証がどこにもないことからも合理的な判断と言える。
僕の砂塵化についても同様であろうか。どちらとも答え難い。
砂塵化は生物ではなく現象に近い。ただの一現象が個人に忖度する必要も、配慮する利点も見つからない。海上で発達した台風が大陸や島々を敢えて避けたり、地震の振動が人家を選択的に迂回するような事例が存在しないことからも、これは決定的であろう。
一方で、砂塵化については発生理由が全く想像できていなかった。台風は気圧差によって、地震は地殻のずれによって生じるが、では砂塵化は何によって生じるのか。鼓動が速くなることは引き金であって拳銃の機構そのものではない。どうして身体が砂となるのか、ここに納得できる理由付けができておらず、よって砂塵化を現象と見なしているこの判断についてもまた、やはりどこか説得力を欠き、自らが否定していた。
砂塵化にストッパーがあるのか、ないのか。
重要なことであり、今まさに知るべき情報であったが、同時に今更といった感情もあった。ここまでの規模の崩壊は前例がなかったものの、今までに経験した全ての前例を上回っていることから、再生の兆しが期待できないことは容易に想像ができたためだ。
よって、真に重要なことは現状を脱することであり、僕の砂塵化の進行については保留される側のものとなった。
僕は崩れた右腕を伸ばすことを諦め、代わりに左手を限界まで前へと伸ばした。
正面で右往左往する白い腕の先へ二度、三度とアタックし、四度目で遂に先は果たせなかった指先の噛み合いを成すことができた。
貧相な腕の筋肉に渾身の力を込めて折り曲げると、急流に押し流される互いの位置関係から、僕の方が雪花へと引き付けられるように水を割り、前方へと進んだ。
確かな重みと存在と、冷たい中にも見つけられる人肌の体温を感じながら、僕はその塊を正面に抱え込み、足の力だけで水中を蹴って横へ横へとずれ込み、岸へと身を寄せた。
時間にして数分であったはずだが、僕の疲労は限界近くに達しており、雪花を引っ掴んだ左腕に込めた力も、恥も外聞もかなぐり捨てた情けないばた足の力も、指数関数的に急速に衰え、何時停止してもおかしくない状況にあった。
それでも、動きを一度でも止めたならば二度と再開することはできないであろうという直感により、僕はもたもたと、遅々とした速度でありながらもどうにか身体を動かし続け、最終的には白い石が広がる細い岸辺へと転がることに成功した。
陸地へと背中を付けて転がった僕だが、間をあけることなく襲った嘔気を発散すべく、日頃からは想像できぬ俊敏によって身を反転させ、砂利の敷き詰められた河川敷へと胃の中の水を吐き出した。
大した量の水ではなかったが、口内にはざりざりとした感触がべったりと残り不快極まりない。唾液を集めて異物をまとめ、四つ足の姿勢のままもう一度えずくと、その光景の汚らしさからはとても想像し難いまでに美しい色合いの、青白い砂のペリットが真下へとへばり付いた。
両手両足を付いた姿勢のまま呼吸を落ち着かせつつ、僕は左隣へと視線を配った。雪花もまた川の水を飲んだのか、ごほごほと湿った咳を繰り返す度に、胸元に手を当てて自らを落ち着かせようと懸命であったように思える。
その様子を確認した後、僕はその場で勢いよく仰向けに倒れ込んだ。
背中が砂利の突起にぶつかり痛みがあったが気にもならなかった。不安定から安定へと身を移せたことによる安堵が半分と、動かずにいるにもかかわらず落ち着く素振りを見せない息苦しさが半分。
「海春さんっ……」
横からの擦れた問いかけに、再現できる限りの平時の声を作り、僕は応えた。
「頭痛は、もう慣れたよ、ありがとう……雪花がいなかったら、それこそ僕は水の底だった、かもね」
「そうじゃあ、なくって……」
「あぁ、スマホは買い替えた方がいいかもしれないね……どうせ大した記録は入って、ないけどさ」
「その、身体っ……!」
雪花の視線は僕の目ではなく、右半身へと配られていた。
あぁ、くそっ、と、人前も憚らずに僕は悪態をついた。そして、意味などないことを重々承知しながらも両目を一度固く閉じて、暗闇に一時の現実逃避を求めた。
……完全に隠し通すことはできないにしても、雪花にだけは知られたくはなかった。
今や感覚を完全に喪失した右の手のひらを想像の中で握っては緩める。
哀しいことに、想像の中にある手のひらすらも、開閉に合わせてぼろぼろと砂と化し、嫌でも現実への復帰を催促していた。
僕は顔を少しばかり右へと傾け、薄目を開いて腕の先を視界に納めた。
先までは指を失っていたはずの右手は、いつしか手首まで砂塵化が進行していた。緩やかな丸みを帯びた右手首の先端は、ジョイントを外した球体関節を想起させる。
その丸みは今もなお砂塵化を落ち着かせる兆候がなく、一秒、また一秒と時が流れるに合わせて新たな青白い砂を表面に浮き上がらせては、さらさらと崩れて地面へと散らばってゆく。
軽くなった右腕を少し高くまで持ち上げると、こぼれた砂は外灯の明かりにきらきらと妖しく輝きながら、濡れた上着の袖や襟元に貼り付き、寂しい色へと染め上げた。
「しっ、止血を……でも、えっ、血が……出てな、い……?」
雪花の顔は蒼白のものとなり、瞳はこれ以上ないまでに大きく開かれていた。唇は震え、奥では歯が鳴っている。彼女は僕の右手の先が、落下の際の外力によって引き千切られたものだと捉えたらしい。
その恐怖と心配を晴らすためにも――いや、明らかにしたところでまた別の恐怖と心配が生じることは必定だが――僕には打ち明ける他に選択はなかった。
「これは、怪我じゃないよ」
「で、も……そんな、普通じゃあ有り得ないことが……」
「起きうるんだよ。僕は病気……そう、ビョーキなんだよ。身体が砂になるっていう……普通じゃない、体質」
「砂、に……?」
右手を失ったにもかかわらず僕はどこか冷静であった。
自分よりもなお取り乱した相手が目の前に居るためか。それとも、怒涛の非日常によって感覚に麻酔を打たれているためか。
いや、違う。僕はいずれこうなることが分かっていたのだ。
身体が砂になることを自覚した時点で、爪や髪の先端だけがぽろぽろと分解してゆくだけに留まらないであろうということに、僕は当の昔から気付いており、覚悟のようなものが常に付き添っていたと言える。
その覚悟は自然発生による半端なものでこそあれど、目の前で狼狽える友人に対して僕の特異体質を客観的に語る分には、満足に働いていたのである。
心臓に負荷がかかった時、身体が砂となって崩れる……その事実について、僕は雪花に明かした。
「――……何時からの症状か、僕には分からない。だけど……随分昔からだと、思ってる」
「他には誰も知らないのですか」
「妹とシュウは知ってるよ、知られたって言った方が近いか。その二人、だけ」
「親でも、医者でも……相談しなかったのですか」
「したところで、って話だよ。それに僕は……こんな体質を明かして、距離を置かれることが……怖かった、のかも」
僕は自分から他人と距離を置いていた。
離れられるのではなく、自発的に離れる。
そうすることで、仮初の平穏を作り出すことに躍起になっていたのかもしれない。
雪花は話を聞きながら、僕の右腕の先を包み込むように両手で握っていた。汚れるからよせと言っても聞かず、さながらカバーケースのような形でぐっと力を込め、砂塵化がこれ以上進行せぬよう抑え込んでいる。
その手の温もりは、刻一刻と砂塵化し続ける手先には伝わらなかった。右腕の先端の一皮は常に砂へと変貌して身体の一部ではなく物体となり、彼女の手の温度を抱えたまま離脱して、僕ではなくなる。
それでもなお、雪花は僕の手を握っていた。
今の右腕とは姿形こそ違えど、その光景に僕には覚えがあった。
水に濡れた手先を包む、白い指先の感触と温度……
ぱちりと、黄色い閃光が脳内を駆け巡った。
火花の軌跡は消えず、尾を引いたまま残り続け、後続の閃光と交差して組み合わさり、回路を形成する。
眩い回路が既存の網に取り込まれ……この瞬間、僕は全てを結び付けたと同時に……砂塵化についてのもうひとつの知見をも得ることができた。
「……あぁ、そういうこと、か」
「海春さん……?」
「橋の上で言ってたことの意味が……今、分かったよ」
「まさか、もしかして……」
「雪花、僕は全部……『思い出した』よ……――」




