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第二十五章 繋がり

 身の回りの現実に理解が――それも、確信を伴う真の理解が――追い付いたとき、人はどのように振舞うのであろうか。

 浴槽に浸かったアルキメデスは興奮を隠さずにエウレカ、エウレカと叫び、全裸のまま野外を駆けて、世界の理の一端を紐解いた事実を一刻も早く共有しようとしたらしい。

 芸術家のレオナルドはこの世の全てを知り尽くそうとしたが、限られた人生においてそれは叶わぬことを悟り、ならばせめてと、気になった事柄を取りこぼさぬよう、一から十まで覚書を残すようにしていたとのことだ。

 では、僕はどうだ。

 凡夫は他より己に執着する。僕もその例に漏れず、ただ、己のために静寂を求めた。信ずるものが崩れた時、その瓦礫をどかすために両腕を用いず、がらがらと転げ落ちる石塊の音を無視すべく、耳を塞ぐために用いたのである。


 シュウの告白を受けて、僕の周りを構築していたモノは瞬時に形を変えた。

 ここで言う「モノ」について適した表現が浮かばないが、それについては僕の語彙力の至らぬ結果であるため勘弁してもらいたい。空気や大気といった気体のような……自身を中心とした球状に常に張り巡らされた、安定する「何か」である。

 この何かが安定していることは、僕の生活そのものの安定に繋がっていたのだが、湯気に扇風機の風を当てるように、突如としてその形状が乱れ、不定と化したのである。

 そのきっかけこそが、シュウの告白であった。


 シュウは僕を利用していた。


 それも友人同士の気兼ねない貸し借りではなく、一方から拝借し続けるだけのもの。その関係はガススタンドと表現した方が近いだろう。

 シュウはガス欠を起こした車の所有者で、僕はディスペンサーだ。彼が望むタイミングで僕は燃料を提供する。満タンに給油された車にシュウは想い人を同乗させ、颯爽と旅に出る。後に残るは内容物を少し失った給油所であり、僕だけだ。

 もっとも、身体が砂となって失われてばかりの僕からすれば、そこから第三者が何かしらの利を得られることに関して不満に思うところはなく、このような特異体質がどうあれ役に立つのであれば、むしろ率先して貸し出してやってもいいとすら思ってもいた。

 僕が情動を制御できなかったのは、シュウの裏で描いていた絵図が僕だけではなく、その周囲一帯にまでインクを引っ掛けていたこと……これに尽きる。


 シュウは海月と懇意になるべく、その兄である僕に接近した。これについては構わない。

 僕を緩衝地点とすることで徐々に互いの距離を詰め、いずれは二人きりでも問題なく回るようにする。「利用される」とすると耳触りが良くはないが、だからと言ってそれに立腹することなどない。もしも最初から素直に打ち明けてくれたのであれば、それこそ僕は積極的に二人の仲を取り持つ役を買っていただろう。


 シュウは僕に接触した真の理由を隠した。これについても構わない。

 自らの恋心の在りかを、その相手の兄に説明する。これは大変な勇気が必要なことであろう。たとえ、その兄が顔見知りであったとしても、躊躇われる気持ちが前面に押し出されてくるのは半ば当然であり、シュウが正直になれなかったことを責める気にはなれない。


 だが……シュウが、僕と雪花を結び付けようとしていたこと……これに関しては納得で

きなかった。

 振り返るに、僕と話をする中で雪花の存在が挙がる際、シュウの口にするところがどうにも的を外れているように感じるところが多々あった。

 何故、僕が美術部長に気に入られていないことを強調した際に、シュウがその発言を一度否定しかけたのか……

 何故、金獅子ペットランドへの外出を計画するにあたり、力也よりも雪花の参加の可否を優先したのか……

 簡単な話だ。シュウは、僕が雪花を意識するように働きかけていたわけだ。

 僕が美術部に積極性を見出していることと、雪花とのやり取りの頻度から、シュウは僕と雪花との間をこれ以上に詰めることを望んだのであろう。

 そこに、力也の思いもよらぬ一言が呟かれたことで、シュウにはひとつの閃きが生まれたわけだ。

 おそらくこの時点では、僕と同じくシュウもまた、力也が雪花に好意を持っていると認識していたであろう。そして、シュウから見て、僕もまた雪花に平均よりかは上回る想いを抱えていることを、既に看破していたに違いない。

 シュウは遊園地にこの三人を引っ張り出すことで、僕が直視せぬよう努めていた自身の内にある恋慕の情について、自覚するための場を用意した。

 その行為に何の意味があったのか、僕は確信している。

 端的に述べよう。要は、シュウは僕を同じ高さの土俵に乗せようとしていたわけだ。

 恋心の置き場所に悩み、奮闘する……僕がそのような状況になったのであれば、シュウは直ちにその話に親身となり、懇切丁寧に協力する姿勢を見せるつもりだったに違いない。

 その点に関し、力也が当日中に告白するまでに豪胆であったことと、彼の想いの向かう先が千夏先輩であったこと……この二点はシュウの想定外であったにしろ、都合の良い方向であったことは言うまでもない。力也と椅子取り合戦を繰り広げる必要がなくなったことで、シュウにとってはアフターケアの手間がひとつ省けて良かったというところだろうか。

 シュウは、友を欺きながらも成就へと着実に近付く己の願望の対価を、本心は晒さぬままに僕へと支払う術を画策していたのである。


 その考えが僕には気に食わなかった。

 僕に対しての償いの気持ちであるならば、巻き込む範囲は僕のみを含めたところで留めるべき案件であった。そのような環境を満たしてさえいれば、悲壮によって湿り気を帯びた懺悔など一切不要であり、缶コーヒーを一本投げて寄越すだけでも僕は相応の理解を示したことだろう。

 だが、僕の内側の方向性を誘導し、他者をも関係図に取り込みながら間接的に謝罪の意を果たそうとするシュウの姿勢が、僕にとっては真摯さを欠き、愚劣にさえ思えたのである。

 何故、貸りた分を返すのではなく、自らも貸し付けることで相殺しようとしたのか。

 何故、飾らずに本心を明かすという、ただそれだけのことができないのか。

 それほどまでに、僕と彼との間の架け橋は、見かけばかりの役立たずだったのか。

 僕とシュウの関係をまともなものとしていた潤滑油は、鍋底で冷えて固まった動物性油かの如く白く濁り、機能しなくなった。

 僕のスマートフォンに入っているメッセージアプリには既読すら付けない欄がひとつ生まれ、その宛先の名を現実世界で声に出す機会も殆どなくなった。

 かつての……いや、もしかしたら今日まで一度もそうではなかったのかもしれない……親友の名を意図的に避けることで、僕は心の均衡を保持し、乱れぬよう支えることに努めたのである。

 それが、憤りによって余計な砂を浮かばせないようにする、最も単純な手段であった。


『次の土曜の予定は空いていますか?』

 シュウとの一件から二週間ばかりが過ぎた、五月二日の晩のことである。

 その日は世間的にゴールデンウイークと呼ばれる連休に挟まる、中休みに該当する平日であった。休暇の間の休暇、とは変な物言いだが、毎日の登校をそう嫌ってもいない僕にとってはあながち的外れでもないため、あまり深くは気にしないでもらいたい。

 もっとも、この二週間と少しに関しては前述した事情もあり、校舎の廊下を歩くこと……厠や図書室などの共用施設を使うこと……そのような活動の中で件の男と不意にすれ違ったり、席を共にする可能性があったため、以前よりかは学校生活に対して気乗りしていなかったことは確かである。

 この二日ばかりの平日を終えると、先には祝日が二つ重なって土日と繋がる四連休が待っていたが、とは言え、これもまた僕にとってはさして重要な事でも、心底切望するようなことでもなかった。

 いつだったか述べた通り、僕は教室のざわめきや移ろいなどと言った、ある種の揺らぎのようなものを好んでおり、それを体感できる以上は休日に劣らぬ価値を平日にも見出せたが為だ。

 ただ、繰り返しとなるがこの数週間においては、顔を合わせたくない人物と同じ学び舎に属することから、やはり平素よりは登校意欲が湧かず、よって相対的に休日の有難さは向上していたと言える。

 そのような心情を抱いたまま眠気半分に自室のベッドに身を投げていた僕は、冒頭のメッセージが雪花から送られてきたことで少しばかり覚醒した。彼女の方から何かを提案してくることはそう多くはなく、それ故に僕の気を惹いたのである。

『何も予定はないけど、どうかしたの』

『陶芸のお祭りがあるみたいなのですが、一緒にいかがですか』

『それはまた渋い趣味だね』

『有名らしい、ですよ』

『毎年やってるけど、毎年小さくなってる』

『そうなのですか? 千夏先輩の話によると、今年はそこそこ大きな会場らしいです』

 雪花が提案してきた内容は、大型連休中の三日間に開催される陶芸祭りへの誘いであった。

 この陶芸祭りだが、何年か前に通算百回目の開催を記念もした、それなりに長い歴史を有する祭事である。

 七美市を中心に栄えた伝統陶芸の披露と販売の場としては最も知名度があると同時に、片田舎である七美市における最大の行事でもある。開催期間中の二日か三日の間に、来訪者数は平均して十万から二十万を数える。見所などそうはない地方として、このイベントはまさに他の諸々とは別格とも言えた。

 ただ、哀しいかな、それほどまでの知名度と集客力を有せど、そこはやはり地方であり、交通の便も懇ろではないことがハンデとなっているのか。陶芸祭りは毎年行われてこそいるものの、その規模は少しずつ縮小しているように思える。

 特に、会場に関しては頻繁に場所を移していることから、設営と開催に関して毎度のように何かしらの事情があるのだろうと勘繰られる。それが、せめて資金面による面倒ではないことを一市民としては祈るばかりである。

 雪花はそのような祭りの存在を、千夏先輩から聞いたとのことである。

 千夏先輩が卒業して県内の大学へと進学して以降、僕が彼女と連絡を取る機会についてはぱたりと絶えていたが、雪花に関してはどうやら違うしい。雪花は千夏先輩とは今でもそこそこの頻度で連絡を交わしているらしく、美術部の現状や学業についてなど、話題を見つけては話に花を咲かせているそうだ。

 その千夏先輩が陶芸祭りに顔を出すために帰省するらしく、この際だから雪花もどうだと誘ったらしい。その運びで雪花もまた僕にも参加を促してきたという、そういう流れであった。

『あの邪知暴虐の女王と、今も話を弾ませているのは凄いことだよ』

『千夏先輩は優しいですから、海春さんがそう言ってたと聞いてもきっと許してくれますよ』

『僕の手持ちの辞書はヤ行に誤植があるみたいだから買い替えないと』

『それに、優しくなければ穴熊さんとは続いていませんよ』

『あの二人、まだ続いていたの。それも初耳』

『喜ばしいことですよね』

『まぁ、ね』

 雪花曰く、力也と千夏先輩は未だ交際を続けているらしい。トライアル期間が云々と言っていた割にはまんざらでもなかったということだろうか。

 その二人の邪魔にはならないだろうかと僕が問うと、それならば私を誘うこともなかっ

たでしょうと雪花に返され、納得すると同時に、さて、と再び考えるところがあった。


 ……どうしたものか。

 話を聞く限り、僕に断る理由はなかった。

 連休を持て余していた身として、そのような誘いは困るものでもなく、他に同行者がいるにせよ、そうでないにせよ、雪花と外出できるのであればそれらは些事であった。

 だが、僕はこの時点でもうひとつ、追加の情報を得てもいた。

 この日、夕食を終えた僕が顔を洗い、二階の自室へと上がろうとした時のことだ。

 僕の妹は普段通り、居間のソファの定位置に転がっていたのだが、僕が隣を通り過ぎる際に一言、「シュウちゃんに何かあった?」と尋ねてきたのである。

 理由を逆に問うと、海月は「元気なさそうだったし、なんとなく」と答えた。

 知り合いが多いからそのどこかが縺れたんだろうと、僕が粗末な一言を返すと、「それじゃあ、誘ったら一緒に行ってくれるかな」と海月は独り言ち、僕ではなくスマートフォンへと視線を向けて画面をタップし始めた。

 海月が送信しようとしているメッセージがシュウ宛てであること……

 その内容が陶芸祭りへの誘いだということ……

 そして、仮に約束が成立したとして、出かける日は土曜になるであろうことが……僕には予想できていた。

 陶芸祭りは三日間に渡り開催されるが、遠方から訪れる多くの来客の目玉である陶芸品については、それこそ初日の午後を待たずに売り切れることも多々ある。

 故に、さほど陶芸には興味がなく、祭りの屋台や雰囲気を楽しみたいだけの者からすれば、足を運ぶに適するは大混雑が避けられない初日でも、その余波が残る二日目でもない。

 陶芸はおろか芸術関係には全般的に興味がない海月が誘うとあらば、指定するのは今年の開催期間の最終日である土曜で、ほぼ間違いはなかった。

 ……シュウとの同席は覚悟すべき、か。

 本心を語れば、件の揉め事から時間が経っていたこともあり、この時点で僕の内面はかなり平坦なものへと落ち着いていた。

 だが、それでも……霧が晴れているとまでは言えなかった。

 胸の奥底で詰まった煙は日を追うごとに呼気と混ざり、吐き出され、確実に薄くなってはいたものの、以前の完全なる快晴が訪れることは生涯ないのではないかと、そう思わせるところもあった。

 着色した液体に水を継ぎ足して、限りなく透明に近付けたとしても、やはりどこかに色は残るように……部屋の埃を払い落し、一片残らず掃き出したとしても、その頃にはどこか別の場所にまた埃が積もっているように……この陰りは果てのない曇天であった。

 現実の曇り空であれば時が解決するが、内情に覆い被さる非実在の靄に関して……これについては単なる時間の経過が癒してくれるとは、少なくとも僕には思えなかった。


 僕は随分と――とは言え、履歴が語るには二分ほどしか間はなかったが――悩んだが、どこかで踏ん切りをつけることができ、「それならば一緒に行こう」と雪花へ返信した。

 デフォルメされた三毛猫が「よろしくお願いします」と書かれた看板を掲げるスタンプを受け取った後、僕は枕もとにスマートフォンを投げて横になり、目を閉じた。


 ……もとに戻る日なんて、あるのだろうか。


 友情の繋がりをシュウが投げ出したのか、それとも僕から投げ捨てたのか。

 それすらも判然としない現状では、その問いにはまともに答えることができず、暗い瞼の裏へと思考を放棄した。

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