第二十四章 告白
時は流れて、翌年の四月半ばが本章の扱うところである。
大きく場面が変わることを許してもらいたい。
前章における妹の家出以降、僕の周りでは際立って大きな事件も出来事もなく、極めて平凡かつ無難な日々がゆるゆると通り過ぎるばかりであったがためである。
驚天動地の大波乱を求める読者からすればさぞや退屈ではあろうが、泡立つところもないなだらかな水面のような日常は僕にとって何よりも尊いものであった。
身体に余計な砂が浮かぶ発端が現れないことも喜ばしいが、当初危惧していた以上に心の均衡が乱れずにいたこと……これが大きい。
胸中には相変わらず灯が続いていたが、それが大きく爆ぜることも、周囲に飛び火するようなこともなく、僕は胸の奥の恋心から発せられる熱から静かに――晴れた午前の木陰で目を閉じ、時間を気にせずに日光浴をするかのような気分で――暖を得ることができていた。
雪花への想いの扱い方に一時は悩んだが、毎日のように美術部へ顔を出し、他愛もない話と素人ながらの創作活動に勤しむことで、僕は相応の満足を得ることができていた。
彼女が目の前でにこりと微笑むとき……
思いもよらぬ話題や出来事にはしゃぐとき……
その全てにおいて身体の端々が砂に成らずに済んだとは言わないが……
それでも僕は健康を維持することができていた。
千夏先輩が卒業して美術部員が二人だけになろうとも、その程度の緩やかな関係性をどうにか保つことができていたのである。
ところで、前章の海月の件だが、得意科目などひとつもないと情けないことをぼやいてはいたが、それでもどうにか受験勉強を乗り切り、本年度にはここ青藍高等学校へと無事入学を果たした。
青藍高校は別段名門というわけではない。七美市という立地を中心に考えると、自宅から通学するに便が良い範囲には主に五つの高校が候補に挙がり、入学試験の合格ラインで語るならばその中で上から二番目と言ったところか。
それ故に、合格したからと言って家族親戚一同ひっくり返って喜び騒ぐというまでの難関でもないわけだが、そうは言っても僕の妹としてはよくやった部類の快挙であった。
あの日、帰宅した海月は勇気の出しどころというものを学んだらしい。
そろそろと居間に顔を出した直後、年甲斐もなくわぁわぁと泣きながら自らの無神経を謝罪しつつ抱きついてきた母に対し、海月もまた「今日までの考え無しの対応」を謝った。
母親に不要な心配を与えるであろう雑草を早期に刈り取り、本心の上に除草剤を撒いて景観を取り繕う。その努力をひけらかすまではいかずとも、理解してもらうために伝えるべきであったと、海月は口に出して説明した。
それ以降、母の心配性はやはり続きはしたものの、最盛期よりはどれだけか落ち着いたかのように僕には感じられた。
海月もまた、胸中を暴露したことにより、兄妹関係の不格好な演出に努力を割く必要がなくなったようである。
僕は美術室や図書館に入り浸る時間を少しだけ短縮し、早めの帰宅を心掛け、その分を妹の受験勉強の助言へと配分した。その労力が高校受験の成功へと少しでも寄与していたのであれば、これ以上に報われることはない。
海月が青藍高等学校を望んだ理由は、シュウと同じ高校に通いたいというシンプルなものであった。そして、もしもそれが叶うのであれば、躊躇うことなく玉砕覚悟でシュウに告白するのだと、そうも豪語していた。
果たして、その野望のための環境は現実のものとなった。海月は確かに青藍高校に合格し、初日のオリエンテーションで配布された四月中の猶予を与えられた入部希望用紙に、その日の内に女子バスケットボール部と書き込んだ。
さて、その申請は滞りなく受理されたことにより、海月は晴れてシュウと同じ学校かつ同じ部活――性別分けされているため全くの同一ではないが――に、ミニバス以来に所属することができたわけである。
海月がこの機を逃すとは僕には思えなかった。
妹が近いうちに何かしらの行動に移すであろうことは、全く似通ってはいないと承知ながらも兄として薄らと想像が及んでおり、やはり家族の血には非科学的ながらも特異な一点が存在するのではないかと改めて感じた次第である。
『放課後、橋まで来てくれ』
五時限目を終える鐘が鳴り、暫くした頃合いだろうか。滅多に通知を示さない僕のスマートフォンが制服の胸ポケットの中で振動し、触らずとも一時的に明るくなっていた画面には上記のメッセージが表示されていた。
この「橋」と言うのは、青藍高校の校舎を構築する連結棟の最上階のことである。
以前、校舎の全容について簡単ながら記載したと思うが再掲しよう。本高校は上空から見下ろすとアルファベットのHの形となっている。東校舎と西校舎が縦線に、その二つを繋ぐ連結棟が横線にあたる。
校舎それぞれには三階の上に屋上が存在するが、連結棟にはこれがない。教職員室などを有する連結棟は東西の校舎の二階部分を屋内で接続する単一階層の構造である。
しかし、連結棟は校舎同士の三階部分もまた接続している。簡単なフェンスと日除け程度の屋根が真っ直ぐに張られた、屋外に晒されている一本道である。その様子がさながら連絡橋のようであるため、生徒が「連結棟の屋上」と呼ぶことは少なく、「橋」と呼べば大抵の場合は意味が通じる。
その橋へと僕を呼び出すメッセージの発信者はシュウであった。
故に、僕はその通知を横へとフリックして当該アプリを起動した後、今度はそのままアプリをバックグラウンドから削除した。
わざわざ丁寧に返さずとも、読んだということが相手側に伝わればそれでよい。
その点、既読機能は僕にとって大層便利な仕様であったと言える。
「返事はしなくてもよいんですか」
ひとつ前方の席に腰を下ろし、椅子ごと身体の正面を振り返っていた雪花がそのように気にかけた。
青藍高等学校の教室は文系理系の区分の他に、それぞれを更に二分するように分けられている。本格的に国公立大学を目指すか否か、当人の志望と学力を勘案してその振り分けが実施される。目指す側の生徒が割り振られる教室はAクラスと呼ばれているが、僕と雪花は文系側のAクラスに、シュウは理系側のAクラスに本年度は配属されていた。
故に、僕とシュウの教室は違っており、彼の毎朝のちょっかいや雑談も新年度に入ってからはご無沙汰であると同時に、直接話す機会もその頻度を昨年よりかは少なくしていた次第である。
「あぁ……シュウだったから別にいいよ。放課後の話だったし、既読さえ付ければ勝手に判断してくれる」
「えっと、たしか、バスケ部の部長さんでしたよね」
「そうそう。去年、遊園地にも一緒に行ったアイツだよ」
「楽しかったですね。海春さんにあの時に貰った猫のクッション、机の上に飾ってるんですよ」
「へぇ、ホントに。あのスッとぼけた顔のクッションが目の前に置かれてたら、落ち着いて勉強する気が失せそうだけど」
「それが可愛いんです。本物の猫は触れなくても、気分だけでも味わえますし」
「本物の猫、ね」
すやすやと眠っていた顔を上げて、大きな欠伸をひとつした後、また丸くなる毛玉……
金獅子ペットランドにて、買取手のお目にかかるいつの日かを夢見ていたあの仔猫を思い出した。合わせて、その動きに釣られて自身もまた負けんばかりの大きな欠伸を漏らした雪花の姿も。
「どうかしましたか?」
「いや、思い出したら僕も欠伸が出てきそうだ、って」
「それは、忘れてください……」
「とても珍しい雪花の欠伸顔だから、忘れるのはちょっと勿体ないかな」
級友として、美術部員として、それなりの期間の交友を紡ぐ内に互いの呼び方が少し変化した。
僕は彼女のことを「雪花」と、雪花は僕のことを「海春さん」と、名前で呼ぶようになっていた。
この自伝の地の文における彼女の呼び方と、僕が実際に彼女に声をかける際の呼び方が遂に一致したことになるわけだが、知り合って一年程度の間柄の相手を敬称に値する末尾も付けずに名で呼びつけること……これは僕にとって非常に珍しいことでもあった。
長年の親交を持つシュウと、その関係を経由して度々顔を合わせることがあった力也。その二人くらいしか該当する例が存在しなかったのだが、こと雪花に関しては……彼らに接する態度と同じように飾らずにその名を呼ぶ方が、僕の中では「しっくりと」きたのである。
雪花についても、僕に対しては名で呼んだ方がより「しっくりと」来るところがあったらしい。彼女は常々、苗字にさんを付けて人に声をかける。これもまた雪花の中における他人との線引きのひとつだと言う。いつ何時の別れを一層寂しいものとせぬように、彼女は知り合いとプライベートを共有することも、呼び捨てで気軽に声を掛け合う仲を望むことも、しないようにしていたとのことだ。
その雪花が、僕が呼び方を変える際に、彼女もまた下の名で接してよいかと内を明かした時……僕は自身でも驚くばかりの昂揚をそこから得た。
歯車は、双方の歯がかちりと組み合わさらなければ滑らかには回転しない。僕が雪花の呼び名を変え、雪花が僕の呼び名を変えたことにより、この歯車には互いがより「しっくりと」適するように感じる調整が施されたと言える。
滑らかに噛み合う歯車はそうでないときと比較すると、より安定し、より摩耗しにくい状態となる。手探りながらもそのようなより良い関係性へとたどり着けたことに、僕は安堵し、歓喜したのである。
「それで、小松原さんと放課後に待ち合わせなんですよね」
少し血色が良くなっている耳元を髪で隠し、雪花はかつての油断から話題を逸らした。
「そんなに大層なものでもなさそうだけど、まぁそうなるかな」
「部活はどうしましょう」
「先に行ってていいよ。いや、もう今日はむしろ閉め切ってもいいんじゃあないかな」
「私はまだ諦めてないですよ。まだ、新入部員が入ってくれるかも……!」
「部員の獲得に逆転ホームランはないよ」
「……でも、ちゃんと部室は開けておきます」
「了解、美術部長さん。早々と用事が済んだら、その後に僕も顔を出すかも」
「独りきりだと寂しいので、ぜひ」
総部員数二名の片方、兼、美術部の現部長である雪花にこの後の予定を告げると、六時限目の予鈴がもう間もなくであると、教室前方の壁時計が示していた。
雪花が椅子を戻して前を向くに遅れて、僕は噛み殺していた大欠伸をさっと済ませた。
そこに気配でもあったのか、雪花は顔だけを再び振り返ったが、僕が適当にはぐらかすと深追いはせず、今度こそ正面を向いて次の授業の準備を始めていた。
橋は東校舎と西校舎の三階を繋いではいるものの、ここを突っ切って対岸まで向かう生徒はそうそういなかった。
そもそもの話、東校舎の三階にも、西校舎の三階にも――こちらに関しては美術室が含まれているため、僕に関して言えばもう少しばかり価値はあるが――、利用頻度の高い教室は殆どない。各教室や移動教室などといった、授業の主体となり得る一室はほぼ全てが両校舎の一階および二階に組み込まれており、よって二階を接続する連結棟の内側には便があっても、三階を繋ぐ外側に関してはさほどでもなかったのである。
しかしながら、利用者に恵まれないこの一本道を、シュウは気に入っていたようである。
それこそ、そこにあるだけの屋上とは異なり、一応ながらも通行や運搬の助けにはなっている橋に関しては、高い位置にありながらも安全性のために封鎖はされておらずいつでも利用することができる。
小高い丘に建てられた青藍高等学校の三階の高さに該当するこの橋から下方を望むと、近隣の住宅街や木々を超えて、交通量の多い複数車線の道路や、更にその向こうに並ぶ山々の輪郭までもがはっきりと識別できる。
時間に余裕がある時……あるいは埋まっている予定に気分で穴をあけたくなった時……シュウは欄干に身体を寄せて、ぼうっと遠くを眺めることを好んでいた。
そして、僕を呼びつけたその日の放課後もまた想像していた通りに、シュウは橋の中程にて景色を望んでいたものだから、僕は何の気なしにその隣に立ち、彼とは逆に背中を欄干に寄り掛けながら、今日初めての対面の挨拶を投げかけた。
「来てやったぞ」
「わざわざ、すまない」
「コンニャクで背中を撫でられた気分だよ、気色悪いな……どうしたんだ、改まって」
「何も。ただ、フツーに感謝しただけさ」
「そうか、ならいいけど……」
ここから飛び降りたりはしないでくれよと僕が念のために釘を刺すと、そんなことはしやしないさとシュウは返した。
片手間の雑談でもない限り、シュウはいつも相手を真正面に置いて話をする。しかしながら、この時の彼は景色に目を配ったままであり、僕と目を合わそうとはしなかった。それが妙に引っ掛かり、僕をどこか不安にさせたのである。
……母親の心配性が感染したのかもな。
子の性格は親に似ることが多いと聞く。今更ながら僕にもその影響が出始めたのか、無駄なことを考えてしまった。
「それで、人気のないところに呼び出しておいて、話ってのはなんだ。告白だとかぬかすなよ」
「あぁ、告白だよ」
「……はっ?」
冗談が偶然にも的を射た時、人はこうにも間抜けな声が喉から出るのかと、僕は新たに学ぶところがあった。
「察しが良いヤツだな、お前は。助かるよ」
「待てよ、一旦、脳内を整理させてくれ……」
「やっぱ、兄となれば妹のことも何となくわかるもんなのか」
「ん……何で、海月の名が出てきたんだ」
「むしろ、何で海月の名が出てこないと思ったんだ」
「あぁ、そう……把握したよ。話を折って悪かった、続けてくれ」
シュウは改めて続けたが、内容としては極単純なものであった。
今朝方、下駄箱に一通の便箋が納められており、放課後に会ってほしいという旨が差出人によって綴られていたとのことである。
その差出人が僕の妹らしい。
シュウと海月の二人がメッセージアプリを通じてぽこぽこと時折会話を弾ませていることについては僕も承知していた。その妹が、電子上の利便性ではなく、敢えて紙面上の手間に託すような内容とあらば……シュウも僕も解釈は一致した。
シュウの報告に対して僕はさほど驚きはしなかった。
「はぁ、ついにその時が来たか」と、それくらいの感想であり、これであらゆる面に踏ん切りがついてよろしいと……どちらかというと待ち望んでいた節すらあった。
その成否について――これは海月には悪いが――兄としてどちらを願うというところはなかった。
親友と妹が結び付くことによる僕の身辺付近の変化と、結び付かなかったことによる変化。そのどちらも大なり小なり喜ばしい部分と厄介な部分の両方を含有しており、美味しいところだけを得ることはできないであろうこともまた予想できていたためである。
それならば、せめてどちらに転ぶか早めに確定してほしいというのが、身勝手ながらも非当事者からの意見であった。
「一応確認しておくが、僕は海春だぞ。海月じゃあない」
「んなことは分かってる。紛らわしいって言えば、まぁ……そうかもしれないけどな」
「分かってるんだったら、それこそ何で僕を呼んだんだ。律義に許可を求めなくていい。勝手に持って行くもよし……興味ないねと言って捨て置いてもよし……好きにしてやってくれ。シュウがどちらを選んでも、僕は納得するよ」
「お前は良く出来たヤツだな」
「よせよ。だから話はここで終わりだ」
「でも、俺はそうはいかない」
シュウは欄干から身を離し、僕と完全に相対した。
一点に僕の黒目を捉え、斜めに高い位置から一直に視線を結んでいる。
こんなにも背が高かったかと、改めて思わせた。
「俺も、海月が好きだ」
「……僕じゃなくて、本人にそう言ってやれ」
「今朝からじゃない。もっと前からだ。海月が高校に入学する前から、お前の秘密を共有した時より前から、ミニバスで初めて挨拶した……その時からなんだよ」
「どういうことだよ、つまり……」
……つまり、ずっと前から二人は相思相愛だった?
そんなことがあるかと、僕は記憶を手繰った。
海月はちょくちょく訪れるシュウと何とか接点を求め、交流を深めようと……何かと理由を付けては僕の部屋を訪れては居座ろうとしていた。その言動から……少なくとも海月に関しては、シュウからも好意の矢印を向けられていたということに関しては気付いていなかったか、自覚がなかったのであろう。
シュウもまた、僕の部屋で海月と顔を合わせるにあたり……まさに友人の妹と接するように、素知らぬ顔で挨拶を交わし、話題を振ってやり、会話に混ざることができるよう気を遣っていた……ように僕には見えた。
だが、実際は違ったわけだ。
シュウは海月と会うために僕に話題を振り、僕の部屋を訪れ、僕に贈り物の仲介を任せた。
そういう認識で合っているかと確認すると、シュウは首肯した。
「はっ……それじゃあ、お前が向けられている好意に随分と鈍いヤツだと思っていた僕の方が……真に鈍感だったってことか」
「…………」
「だけど、それなら何で鈍いフリをしていたんだ。どこかで気付いていたんだろう、海月がお前のことを気に入ってるってこと。シュウにとってはプラスでしかない……一体、誰の為に隠してたんだ」
「……お前の為だよ、海春」
「僕の……?」
自分の名がここで出てきたことに対し……僕は突然に達観を欠いた。
非当事者から関係者へ……立場の急な変遷にまだ順応しきれていなかった。
「海月とミニバスで同じチームになって……今更誤魔化さないさ、一目惚れだったよ。何とか気を惹こうと考えたさ。だけど、かなりの人見知りみたいだから、それならば兄であるお前とまずは仲良くなって……そこから距離が縮まればいいなと思ったんだ」
「…………」
「だけど、それまで大した仲でもなければ話すこともそうそうなかったお前と急に近付ける『都合の良いきっかけ』なんて、そうそうなかったよ。バスケ以外に共通の事柄も、なかったしな」
「…………」
「だから、あの日、俺は……あぁ、俺は……ラッキーだと思ったんだ。こんなにも『都合の良いきっかけ』があるなんて、って」
シュウは視線を外し、下へと落とした。
その向かう先はズボンのポケットに突っ込んでいる、僕の指先。
底の縫い目にはざらざらと煩わしい感触が広がっている。
「お前が『砂になる』ことを知って、心配したさ、力になれればとも思ったさ……そのついでに俺の希望も叶えば、なお良いな、って」
「……何が、そのついでにだよ。ついでだったのは……僕への同情の方じゃないか」
ポケットの内側の指先は無意識に固く握られ、手のひらに立てられていた。
その指先が、砂塵化して不安定な手のひらの肉を削り、文字通り食い込んでいる。
ざりざりと、湿った砂浜をスコップで掘り進めていく感触。
どこまでも深く潜り込み、反対側まで貫きそうなまでに、軟らかく、脆い。
「全部……あぁ、そうかよ……今までの全部が、『そういうこと』かよ」
「海春……」
「僕と懇意を築いたのも、このクソったれな特異体質に怯えないのも……そりゃあ当然だよな。全部、回り巡って自分の為になるわけだからな。腹の中じゃあ、ほくそ笑んでも当たり前だ」
「違う、俺はお前の身に関しては本当に……」
「さっき、『僕の為に』隠してたって言ったよな……本当にそう思うなら、どうして今、このタイミングで明かしたんだ。ずっと隠し続けるって選択もあっただろう。そうしなかったのは、シュウ、お前が『自分の為に』黙っていられなくなったからだろうが、違うか?!」
身体のどこにそのような声量を実現できる胆力が眠っていたのか、僕は生涯で最も力強く、遠慮のない怒声を口にした。
憤りが心拍を早くする……そのような経験は僕の人生になかった。
その影響は、走り回ったことによる息切れや緊張によるものとは比較にならず、身体の表面を介してざらざらと、音を立てて僕の砂塵化を進行させる。
先の一声が対面の校舎にまで届いたか、東校舎三階の窓のひとつからは人影が一人、遠巻きにこちらへと注意を向けている。
これ以上、この場で話す内容も、理由もなかった。
僕は橋の一端へと身体を向け、速足にその場を離れた。
橋と西校舎三階を隔てる扉を開けるため、ドアノブを握るべくポケットから手を抜き出す。その動きに合わせて、今までに見たこともない量の青白い砂がばさばさと足元に流れ落ちた。
右の小指と薬指の二本は、見て判別できるまでに、一回り細くなっていた。手のひらには獣の爪が木を抉ったかのように四本の跡がざっくりと引かれ、5mmほどの溝を作って並んでいる。
そのどれもが自然治癒で元に戻る範疇ではないであろうと認めながらも、それでもこの時の僕は、公共物である扉を乱暴に開け放ち、近くの美術室にも、帰路の図書館にも寄らず、ただ勢いのままに自宅の居間に置かれたソファへと身を投げた。
そこまでの道中について、はっきりと覚えているところはなかった。
数時間後、僕は玄関を開ける海月の気配で目が覚めた。
妹の足取りは軽く、下手な口笛を吹くまでに上機嫌であった。
海月は尋ねてもいないのに僕へとその理由を嬉々として語った。
シュウに告白して、成就したとのことらしい。
適当な返事をして僕は洗面台へと向かった。
鏡には僕の酷い顔付きと、崩れて惨めな形となった右手が映っていた。
「――……兄ぃ! ソファが砂だらけなんだけど! 理由によっては手伝わないよ!……――」
理由など話せるわけがなかった。
僕は掃除機を用意するために、黙って玄関へと向かった。
その際、胸元のスマートフォンに幾つかのメッセージが届いていたことに気付いたが、そのどれもが僕にはどうでもよい内容であった。




