第二十三章 兄妹
かたくり広場は最寄りの小学校のすぐ傍に構えられた公園である。
その公園のどこが入り口でどこが出口か、明示されているわけでもないので表現が難しいが、最も出入りの便が良い部分を正面にして内側を見渡すと、右手には遊具やベンチがどれだけか並んでおり、左手にはコンクリートで舗装された地面をフェンスで囲んだ領域がある。
車道とは距離があるためか今時にしては珍しくボール遊びが禁止されておらず、空の下での活動に飢えた子どもたちにとっては絶好の遊び場ではあったが、午後の六時を過ぎてカラスが鳴くようなこの時間帯において人の気配というものは殆どなく、微かに残された夕暮れの赤みと閑散が混ざって広がるばかりである。
そのかたくり広場の左手側から、たんっ、たんっ、たんっと、大まかな等間隔を刻む無機質な音が響いていた。
硬質ゴムが地面と接する瞬間に生じる、昂揚の音。
これと似た音を僕はよく知っている。表面塗装されたフローリングにボールが跳ね、投擲者の手元へと戻る動きに必ず付随する……ドリブルの音であった。ミニバスに通っていた頃に一体どれだけの回数をこの耳にしたのか、思い出す気も、数える気も、到底起きない。
ほぼほぼ規則的なドリブルの音が止み、暫しの静寂を跨いだ後、がしゃんと、一際大きな響きがあった。ボードを叩く音は無く、ゴールリングとネットが歪むばかりの、三点獲得を祝福する切味の良い歓声。
バスケットボールは速やかにフルーツキャップの下部から排出され、たんっ、たんっ、たんっと、滑らかなコンクリートの上を物理の法則に従いながら跳ねる。
ボールは投擲者の元へと都合よく転がって返ってきたものの、当の本人は心ここにあらずといった調子で足元を通り過ぎる球を無視したため、その動きを代わりに拾い上げるべく僕は屈んだ。
「ナイスシュート」
本心の感想を述べると、海月は顔だけをぱっと振り返りながら驚いた表情を見せたため、僕は手元のボールを投げようと引いていた右手を治め、代わりに人差し指の先端上でするすると回転させた。
戦局を瞬く間に分析して全で回すか個で進むかの判断ができるシュウとは異なり、僕はさほどプレーは上手くなかったが……指先でボールを回す手遊びだけはミニバス在籍中にやたらと上達し、久しぶりに触れた今でも衰えてはいなかった。
「どうして、わかったの」
「体育館は予約無しだと個人では使えないからな。それ以外でバスケットゴールが使える場所は、近くだとここくらいしかない」
「バスケのために出て行ったかどうかまでは分からないじゃん」
「意味もなくガレージを開けたりはしないだろ。自転車の代わりに持ち出されたものが必ずあるはずで……それが、こいつだったからな。すぐに見当がついたよ」
十字と楕円の溝が全周に彫られた、ノーブランドのバスケットボール。指先で勢いを失い始めたそのボールに回転を加えて安定性を延命すると、朧ながらも溝の形状が判別できるようになっていた状態が、再び勢いに呑まれて地の色と溶け合った。
「探偵気取り? それは、ちょっと小説の読み過ぎでイタいよ」
「依頼主の期待に沿えているあたりは名探偵に違いないだろう」
「それじゃあ、お母さんが依頼主ってわけ」
「と、かほ姐さんが」
それを聞くと海月はばつが悪そうに目を伏せた。
海月もまた僕と同じように、いつ何時でもふわふわとした対応で接してくれるかほ姐さんとは、辺りにぴんと気を張り巡らせることに余念のない母親よりも、ともすれば仲が良いと言えた。
先の僕はその点も考慮した上で、かほ姐さんに本件の概要を明かすことを決めていたのである。
母親と僕から何を言われても、今の海月にはどこ吹く風といったところであろう。
だが、そこに日頃懇意にしている者の存在が介入すれば、さすがに無下にはできまい。幼少からの付き合いであるかほ姐さんのような、裏も雑念も無いような者の耳にも入っていると伝えれば効果覿面と言えよう。
海月は「暫くしたら帰る」とだけ言って、僕の手元のボールを催促した。
僕は「一緒に帰らないと町内全域に恥を晒すことになる」という旨を、ボールと共に投げて渡した。
海月は心底うんざりとした顔付きで、それでいてこの後の身の振りようを決めあぐねているかのように、ボールを受け取ったその場でゆっくりと、ドリブルを始めた。
どうしてこうもまぁ、面倒ばかりが集うものか。
心配性の母親に、反発係数の高い妹。
……それと、あぁ、僕もそうか。
海月の左手からボールが落ちて離れるに合わせて、僕は前方の背中へと踏み込んだ。
地面に跳ね返ったボールが再び浮上する横っ腹を右手で掻っ攫い、手元に引き寄せながら、駆ける両足はそのままに一息に直進し、正面のボードへと飛び上がる。
一杯に伸ばした右腕の先端からぽろりと零れるようにはみ出したボールは、僅かな山形を描いてリングの内側に潜り込み、べんべんと不格好な音を二、三度響かせてから僕に二点を与えた。
僕がまともに決めることのできるやり方はレイアップシュート、これくらいしかない。
「び、っくりしたぁ……何、いきなり……」
「1on1だ」
「はァ?」
「十本先取で終了、でどうだ。僕が勝ったらさっさと帰ろう」
「冗談。なんで兄ぃとやんなきゃいけないの。それに……」
「負けた後のことを先に考えるのは不毛だぞ」
「そんなこと気にしてない」
「じゃあ、決まりだな。気合い入れろよ、あと九本で帰宅コースだからな」
「はっ? ズッるぅ……ちゃっかりさっきのも数えてるし」
てんてんと転がっていったボールを拾い上げ、ドリブルしながら3ポイントラインの外側を沿って、僕は間に妹を挟む位置で再びボードに相対した。
海月は眉を寄せながらもその場で半身を前に突き出すように構えたため、その運びをホイッスル代わりとして、僕は手元のボールを叩く威勢を強めた。
小柄な海月が更に屈むと、ボールを奪いにかかる手の位置は地を這うかの如き低さとなり、その低空に対応するために自らの腰と手の位置を下げようとすると、不慣れな体勢によって敏捷性がどうしても失われてしまう。
そのバランスの乱れの一瞬を突いて海月は僕の手元からさっとボールを回収すると、次の瞬きをする頃にはもうゴールボードの目の前まで距離を詰め、ひょいと投げ上げて一本を決める、そんな調子であった。
形勢はたちまち逆転したが、それでも善戦した部類であった。
大人気ないと言われるだろうか。僕はバスケプレーヤーとしては物足りないだろうが、それでも海月よりは二十近くは高い背丈と、腕の長さを最大限生かしながら、妹の手が直接は届かぬまでの離れでボールを保持して、間隙を狙うことを徹底した。
僕に長距離シュートの腕前が備わっていればより効率の良い圧力も掛けられただろうが、先に述べた通りゴールリング間際での一本しか期待できなかったため、一度ものにしたボールを手放さぬよう緩急をつけてじわりじわりと前進するしかなく、よって僕と海月のどちらが点を獲得するにしても、その一本あたりの時間と疲労はなかなか重い部類であった。
「――……八対四っ! あと二本っ!」
「やるなぁ、リーチ差には、自信がっ、あったんだが……」
「むしろそれしかないじゃん……ほんっと、やりにくいなぁ……」
「心外だな。僕だって、狙おうと思えば狙える」
「じゃあ、やって見せてよ。それで外れるのを待った方が、早っ、そう!」
ぱっ、と海月が右へと半回転し、その動きに釣られて左を警戒すると、意識の薄れた僕の右隣を小さな影が潜り込むように通り抜け、立て続けにゴールネットを揺らした。
「九対四っ! これはもう、私の勝ちだろうねっ」
「まだまだ、勝負はここから、ここから……」
「そうだっ、私が勝ったらのこと、決めてなかっ……た」
ボールを拾い上げた海月が始点へと戻り、半回転を交えたフェイクを再度決めようとしたようだが、その動きは緩み、反転まで至らずに途中のまま終えた。
急な脱力を見せた機を逃さず、僕は動きの鈍くなったボールを取り上げ、直前の海月が取ったようにボード間際まで前進してレイアップシュートを決めたが、先と異なる点を挙げるとするならば、そのオフェンスの背を追う者がいなかったことであろうか。
「九対五、か。これは接戦と言える、かな」
「止めやめ。ここらで終わりにしよ」
「どうした。あと、一本だぞ」
「別に……もう勝ったようなもんだし」
「このままだと歯切れが悪くなるぞ」
「いいよ、それで。だから……」
「一人で五回もシュート決めるのは寂しいものだな……九対、六、っ」
「もういいから、帰ろう」
「僕が勝たなきゃ帰らないんじゃなかったか……九対七っ……!」
「気が変わったの。だから帰ろうよ、兄ぃ」
「十本先取で、終了だからな……九対っ……八……」
「もういいって」
「これで追い付けるか……九、対っ……九っ!」
「もういいって言ってるでしょ! 兄ちゃん!」
海月は僕が決めた九本目のボールを手元からひったくると、フェンス端のベンチの方へと投げて転がした。無人のベンチの下を潜ったボールはフェンスに弾かれ、ピンボールのように何度かぶつかり合った後に止まった。
離れた車道を駆ける車両の音と、フェンス下の隙間に挟まった枯れ葉が擦れ合う音。
それらを打ち消さんばかりに猛々しい心臓の拍動が、静かなかたくり広場で聞こえる数少ない音であった。
「その呼ばれ方、久しぶりな気がするな」
「座ろう、どこでもいいから……!」
「うぅわ……これは……ちょっとマズいな」
「あのベンチにしよう。歩ける?」
「あぁ、そこまで疲労困憊じゃあない」
心音の乱れをひとたび意識すると同時に、ぶわっと、粉を吹くかのように砂が浮き上がり全身を覆った。
汗を拭うために額に添えた手先の側面は、同じ硬度の石をそれぞれ擦り合わせたかが如く互いに削れ合い、双方の表面が同時に砂塵化してぱらぱらと足元へ散らばる。
両の手のひらの皺には青白い砂粒が汗によって貼り付いている。くしゃくしゃと握っては広げる動作を繰り返すと、表面の砂粒だけではなく、元々の手のひらの部分も崩れて新たな砂が生み出されてしまい、きりがない。それは、さながら玉ねぎの表皮を剥き続ける動作を思わせた。
僕は海月と共に、投げ出されたボールが行き着いた先でもあるベンチに並んで座った。
腰を下ろすと、立ったままの状態よりも遥かに呼吸の回復が速くなり、三十秒程度をじっとしていると、平時とほぼ変わりのないまでに息が落ち着いた。
心拍ばかりは未だ回転数が高く、どっどっと血流を押し出していたが、刺激を与えずとも砂塵化が進行するほどに激しい段階でもなく、よって、僕の崩壊もまたほぼ完全に停止していたと言える。
「落ちたなぁ、体力。こんなに早くバテるか」
「だから、ヤダって言ったのに」
「なんだ。心配してくれてたのか」
「そりゃあ、そうでしょ。そんな……ワケわかんない体質だし」
海月はちらと僕の手元に目を配った。
砂塵化は止まり、後には短くなった爪と薄くなった皮膚による指先が残っている。
指先同士を擦ると、砂粒は離れて落ちたが、これ以上身体の一部が砂になる様子も兆候もなかった。
「こんな気持ち悪い兄じゃあ、そりゃあ嫌われても仕方ないよな」
ひとしきり砂を払った手のひらを高く掲げ、日の沈みを検知したことで灯された外灯の明かりに血潮を透かしてみた。影の黒が強すぎて何も見えはしない。焦げた紅葉のようなシルエットの裏表を、僕はしかめっ面で眺めた。
「気持ち悪くなんかないよ。不思議だとは……思うけど」
「初めて見たとき、思いっきり泣いてたじゃないか」
「あれは、シュウちゃんと喧嘩してると思ったから……!」
僕の特異体質がシュウに知れたきっかけを以前話した際、海月に知られるに至ったきっかけについては後述するとしたが、それについてこの場を使うことにしたい。
小学五年のとある持久走の授業中、周回遅れの僕の肩を激励混じりに叩いたことによって、シュウが僕の秘密の第一目撃者となったことについては第七章で述べた通りだ。
さて、自分たちのことながら、童心というものは怖ろしいものであり、当時の僕とシュウはこの特異体質の詳細について徹底的に明かさねばならぬと同調し、意気込んでいた。
何故か。そこに深い理由なんてものはない。分からないことは解明したい。それがまだ年若い二人の原動力であり、十分な動機であった。
それまで特別な仲でもなかった僕とシュウの交流は大きく進行した。シュウは暇があれば僕の部屋に足を運び、ああでもないこうでもないと、二人して頭を突き合わせ、確かな情報を求める日々に熱心だったわけである。
ところで、この頃の海月は人見知りという性質をまだ有していたようであり、僕が家族以外といるときは基本的に近寄ってくることはなかった。
その傾向を僕は過信していたらしい。
海月はミニバスに入団し、そこでシュウについてある程度は既に認識していたらしい。加えて、同じ人物が何度も僕の部屋を訪れる以上、そこには慣れというものが必然的に生じてくる。
人見知りの容器から、好奇心の量が溢れ出したのか、その日の海月は僕の部屋を訪れた。
扉がぴたりと閉じられて鍵でもかけられていれば諦めただろうが、あろうことか僕は、両親もいなければ妹などいないも同然という認識であったがために、自室の扉をおざなりに閉ざすに留めていたのである。
僕とシュウはびゃあびゃあと泣く声にはっと振り返り、廊下にへたり込んだままパニックを起こした海月を、飴なりジュースなりを渡してどうにかこうにかなだめすかした。
醜く穿たれた兄の背中を扉の隙間から目撃した時……果たして海月はどう思ったことだろうか……それを思うと僕は不憫にならない。
同時に、僕は真っ当な兄には成り得ないということを強く理解もした。
その姿形だけで怯えられるような存在が、どうして妹と良好な関係を築けると言うのだろうか。
だが、今の海月が話す分には、あの時泣き出したのは僕のおぞましい背中を嫌悪したためではないとのことらしい。
それが、つい先ほどまでぱらぱらと崩れていた兄に対して咄嗟に向けた気遣いだったのか、それとも嘘偽りない本心だったのか、確認するには今一度本人に尋ねなければならないのでまたの機会としたい。
「それじゃあ、僕はまだマシな兄でいられてる、ってことでいいのかな」
「マシかは知らないけど……まぁ、それなりなんじゃないの」
「近頃は当たりが強いから、もはや修復不能な関係かと思ってたよ」
「勝手に決めないでよ。一人で何でもできるって、アピールしなきゃいけなかっただけ」
「あぁ、母さんに対してか」
「ん……まぁ、ね」
僕はこの時点でぴんと来るものがあった。
所謂、お兄ちゃんっ子であった海月が、何時頃に態度を転じたのか。
それは、我が家庭において最も面倒を見てやらなければならない相手が、母親であるということを自覚した時だ。
母親の心配性が並々ならぬものであると勘付き……兄の背にくっついて何でも任せようとする自身の性格がいずれその心配性を加速させないようにと……海月は一念発起したのであろう。
内向的性格は活発な方向へと舵をきり、兄とは意図的に違う道筋を選ぶことで自立できているということを、口には出さぬように――出してしまえば効果がないためだ――ひそりと示していたということだ。
だが、人には向き不向きがあるように、海月には勉学がどうしても肌に合わないところがあり、苦労していたのであろう。
そこに、何も知らぬ――正確には、知らされずにいた――母親の一言が刺さった。
かほ姐さんが言ったように、風船はパンっと弾けたということだ。
ただ、幸運なことに、海月には秘密にしておくべき胸中の想いを明かし、蓄積された鬱憤を漏らしてもよい兄が、隣にいる。
僕にも幸運なことに、生涯誰にも明かすべきではない唯一無二の特異体質について、ど
うあれ一定の理解を示してくれている妹が、隣にいる。
……特異体質が海月に知れてしまった一件は不幸であったが、ある意味で幸運でもあっ
たわけだ。
その一件がなければ、僕が周囲に悟られぬよう特異体質を隠し続けていることを、海月
が知ることはなかったであろう。そうなれば、海月はただ一人で胸の霧を貯め込むばかり
で、これからもずっとそうであったことだろう。
兄妹の関係とは、互いの不満を移し合える砂時計である。これは名言にならないだろうか。
かたくり広場の端にそびえる時計の短針は、もう間もなく十九時を指そうとしている。
日は完全に沈み、外灯と家屋から漏れる光が一帯を淡く照らしている。
風は冷たくなり、汗の引いた肌には堪えた。
「さぁ、帰ろう。あと七分くらいで玄関のベルを鳴らせなければ、町内放送で迷子の案内が流されるぞ」
「えぇ……さっき言ってたのは本当のことなの?」
「本当の話。母さんはマジでやるかもよ」
「それじゃあ、早く帰んないと!」
「あぁ。それと、母さんには包み隠さず思っていることを話した方がいいな。たとえ、それで心配性が改善しなかろうとも、さ」
「……うん、そうする」
「じゃあ、行くか。ボールは忘れるなよ」
「あっ、そうだ。私が勝った時の件!」
「……引き分けだろ」
「兄ぃは四本も打ったんだから、私も一本くらいいいでしょ」
「それじゃあ、どうぞ」
ベンチから立ち上がった海月はその場から高く山形にボールを投擲した。
長い滞空の後、すぱっ、と音もなくリングを通過し、次に響くはコンクリートにぶつかり跳ねる音。
「へへっ、私の勝ち。アイスでもおごってよ」
「今は財布も時間もないから、明日な」
「はいはい。さぁ、走って帰ろう。息切れしない程度にね……――」




