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第二十二章 もうひとつの家

 十月半ばの外気は、僕にとっては最も健康的な温度に感じられた。立っているだけでも汗ばむような暑さでもなく、上着で着膨れせねば表の郵便受けにも用事を済ませに行けないほど寒くもない。そのような適度な秋に満足しつつ、七美市立図書館の自動ドアを反応させ、館内へと踏み込んだ。


 少し前までは冷房によって作られた人工的な涼しさを毎度のように感じていたはずだが、いつからか館内には空調による換気のみが働くようになっており、僕の身体が屋外から館内へと移動しても温度差による圧は感じられなかった。

 高い天井の各所に用意されたメッシュの奥からは、新しいのか古いのか……

 流行っていたのかそんなことはなかったか……

 どこかで聞いたことがあったかもしれないしなかったかもしれない――生憎、僕は音楽には疎かった――……そのような歌詞のない曲が静かに流れている。

 公共施設特有の無難な消臭剤のにおい……

 新旧混在する蔵書の各ページにて熟成された紙のにおい……

 自宅の居間よりも嗅ぎ慣れたにおいが館内には広がっており、非日常の一幕に巻き込まれた僕の内面をすっと落ち着かせた。

 そのままの勢いで適当な本の一冊でも手に取って窓際の指定席に腰かけようかという考えも少し過ったが、ここを訪れた本来の理由を失念しているつもりはなかった。

 僕は玄関口から右手へと向かい、壁際に備えられた貸出カウンターに顔を出した。

 カウンターには館内の書物を検索するためのコンピュータが左右に一台ずつ置かれ、片田舎の公共施設であれど時代の波には乗り遅れていないことをアピールしているようではあったが、来客側から見て一段下がって直接は見えにくくなっている従業員側の手元には、製作途中の紙製の貸出カードやそれに印を付けるためのボールペンなどがごちゃごちゃと転がっており、完全な電子化は程遠いことを知らしめていた。

 そのカウンターに人は座っておらず、奥で開け放たれた扉の先に従業員たちの本格的な作業机と、何人かの様子がうかがえる。

 誰もが大なり小なり見知った顔ではあったが、この一件に関して相談するにあたり、より適任の顔を想像していた僕は、カウンターのベルをちりんちりんと鳴らすことなくメインフロアへと歩を進めることにした。


 メインフロアは児童向けの絵本が集められたブロックと、大判印刷された芸術品の写真集を揃えたブロックが、それぞれ最も離れた対角に用意されている以外には、本棚ばかりが整然と並べられた簡素なレイアウトである。

 中央を貫く通路の左右に大きな本棚が並び、それらの側面には蔵書の分類と五十音順のどこに属するかを記したポップが貼られている。

 その本棚のどこの合間からでもよい、右を向けば解放感のある大窓を正面とした壁際の個人席が横一直線に並び、左を向けば幾つかの小さなソファと、裏手に整備された控えめな庭を眺めることができる窓が準備されている。

 僕はこの図書館で読書に耽る際、決まって右手に用意された大窓を前にした席のひとつに腰を下ろすが、今回ばかりは別の用事があったため、右だけではなく左にも視線を配りながら中央の通路をゆっくりと進んでいった。

 中央通路の終端までたどり着き、美術品や骨董品の資料集の棚が並んだ右に注目し、そこで僕は尋ね人の姿を認めることができた。ぱたぱたとはたきを振るい、蔵書の天辺に舞った埃をひとつひとつ払い落す背中に声をかけた。


「んっ……おやっ、今日も来てくれたの」

 振り返ったかほ姐さんは少し意外気に挨拶を返した。

 たしかに、僕は暇があればこの図書館へと頻繁に足を運んではいるが、それでも連日のように通っているわけではない。長期休暇期間であればともかく、この何の変哲もないただの一週の平日に、昨日今日と続けざまに顔を出したとあれば、かほ姐さんのその反応もどれだけか自然なものであった。

「ちょっと、用事がありまして」

「へぇぇ、気になるなぁ。もしかしてあれかな、前に読んでた小説のこと」

「それはもう読み終えました」

「それじゃあ、次に読む本はもう決めた?」

「いや、まだです。何に手を出そうか、迷ってまして」

「有名どころだけどあれはどうかなぁ、人を選ぶんだけど、えっと、なんだったな……タイトルが……そうそう、ハイウェイの森ってやつ」

「それだと近未来のディストピアみたいな情景しか浮かばないですね」

「あれぇ、違ったっけ……ちょっと待ってね、思い出すから」

「いや、いいです。言いたかったであろうその本は読んだことがあるので」

 おすすめの本を探しに来たわけではないと話題を切り替えると、かほ姐さんはこれまた意外気な様子と共に姿勢を正した。僕が読書以外の目的で図書館を訪れることも、この場でせっせと仕事に勤しむ彼女にわざわざ声をかけることも、そのどちらも滅多にないことであった。

「海月は今日、ここを訪れやしませんでしたか」

「海月ちゃん? いいや、見てないなぁ」

「そうですか。まぁ、そりゃそうか」

「本を読むより、身体を動かす方が好きだもんねぇ」

「あいつも少しくらい活字を追った方がいいだろうに……ありがとうございました。どうぞ、埃掃除にお戻りください」

「海月ちゃんに何かあったの?」

「大したことでは」

 気になる気になると、かほ姐さんは僕に詳細を求めた。

 そもそも僕自身が具体的な内容を知らずにここに立っているため、かほ姐さんが期待するまでの仔細について述べることはできそうになかった。

 しかしながら、この時のかほ姐さんはさながら河原に渦巻く蚊柱が如く執拗に、追加の情報を催促してきたため、僕は十分な手持ちはないと念押しした上で先の自宅での一件について彼女に話した。

 海月が発作的に外へと飛び出していったこと……

 その理由については僕にも見当がつかないが……

 自転車はガレージに置き去りだったためそう遠くまでは行っていないであろうということ……

 そのような面倒を起こした妹の捜索のために、望み薄ではあるが図書館も訪れたということ……

「海月ちゃんが家出、ねぇ」

「放っておいてもその内帰ってくるだろうってのに、我が家の心配性がうるさくて」

「それにしたって珍しいねぇ。ひょっとしてこんなことは初めてなんじゃあないかな」

「そう言われればそう、かもしれませんね」

「はーちゃんとどうしてモメたのか、全然わからない?」

「さぁ、僕には何とも……あぁ、でも居間から飛び出す直前に……」

 ……『――……だからっ、考えてるって言ってる!』と、叫んでいたような。

「海月ちゃんは一体何を考えてたんだろうねぇ」

「それこそ全く見当がつきませんが……言い方から推察するに、母さんに痛いところを突かれたことは間違いないでしょうね」

「この時期の悩み事って言ったら、大きなものがひとつ、思い浮かぶけどなぁ」

「受験、か」

「かもねぇ」


 我が妹についての繊細なところではあるが、ここで僕が補足しよう。

 僕と海月が基本的に正反対を向いていることについては以前述べた通りである。性格も、ものの考え方も、身の振りようも、それらの悉くの反りが合わず、兄と妹の間柄ながらも共通項を見出すことは大変に難しい。

 ところで、読者諸君の鼻につくようであれば大変申し訳ないと先に断っておくが、僕の学力は案外悪くはない。我が校に限ってよいのであれば、成績は下からよりも上から数えた方が結構な時間の節約になると、自慢に聞こえぬ程度に宣言しておこう。

 さて、あらゆる点が僕と反する妹だが、学力に関するところも例外ではなく、誠に恥ずかしながら、海月は身内贔屓を目一杯加味したとしても、優れた学力を有しているとは残念ながら言えなかった。

 海月の成績は上からよりも下から数えた方が遥かに早い。中間試験や期末試験が近付くたびに妹の活動が控えめなものとなり、それらが返却される頃には口をつぐんで一文字のまま時が過ぎ去るのをひたすらに耐え忍ぶのは毎度のことであった。

 さて、そのような態度で虚無と擬態していようとも、いずれは己の知性を誤魔化すことのできない正念場と直面する。それが、諸君も経験があろう、受験である。

 かほ姐さんは、海月が受験について何か悩みでもあるのではないかと予想した。

 僕もまたその意見を受け、なるほど確かにと思うところがあり、有力な候補のひとつとして交渉カードの中に加え入れた。


「海月ちゃんは優しいからねぇ。溜めてた分が爆発しちゃったのかも」

「優しい? あいつが? 冗談は小説の題名を間違えるだけにしてくださいよ」

「うっ、私の痛いところを突かなくても……でもでも、本当に海月ちゃんは凄く気の利く娘だよ。はーちゃんに関しては特に、ね」

「どういう意味です」

「自分よりも他の人の事を優先する、ってのは誰にでもできることじゃあないよ」

「海月が、母さんに余計な心配をかけないように振舞っていると、そう言いたいんですか」

「うんうん、その通り。でも、我慢も忖度も遠慮も、ずっとは無理だよ。萎んだ風船は針を刺しても簡単には破れないけど、ぱんぱんに膨らんだ風船に刺されば……パンっ!」

「それが、今日だと」

「かもしれないねぇ」


 その考えを聞いた直後は疑わしかったが、一理あった。

 この話が僕の自伝である以上、海月についても僕に関する部分にのみ触れていたが、俯瞰的に僕の周囲の状況を観察すると、母さんに対する海月の接し方……これは僕に向けるそれと比べると随分と柔和なものであった。

 駄々をこねることもなければ、些細なことで当たり散らすことも、無意味な反抗心を見せることもなかったように思える。

 母が胸中に抱えている不安という薄皮で作られた風船を破裂させまいとするために、海月は自らの胸の風船へと代わりに溜息を詰め込んでいたのだろうか。

 ……それが、ついに割れたということか。


「でもまぁ、結局のところは本人に聞かなきゃ分かりようがないねぇ」

「その通りです。それじゃあ、そろそろ答え合わせに行ってきます」

「探す場所の候補はあるのかな」

「えぇ、既に本命は決まっているので」

「さっすがぁ。それじゃあ、さささっと見つけて、海月ちゃんの話を聞いてあげて」

「努力しますよ。忙しいところ、どうも」


 対面の壁に掛けられた時計は十八時をまもなくとしていた。

 僕はかほ姐さんに礼を述べた後、経路を逆に辿って玄関まで向かい、赤みを失い薄暗くなり始めた空の下へと再び身を晒した。

 ……おおよそ、あそこにいるだろうよ。

 僕は大本命の一地点に目的の人物の姿を想像しながら、図書館を離れて商店街のより賑やかな方へと向かった。

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