第十五章 穴熊力也
雪花を交えた三人だけの屋外活動は、その開始前にアマガエルが乱入したことを除いて滞りなく終了した。その中での最大の成果として、雪花の画風について解決に至ったことが挙げられる。
二つ前の章の中程にて、雪花が左手で絵を描くことに対して僕が違和感を覚えたと記述した箇所について読者諸君は記憶しているだろうか。その違和感は完全に的外れな錯覚というわけではなかったのである。
結論から述べよう。雪花は右手で絵を描くことになった。
雪花は両利きである。これは彼女から直接聞いた事実だ。雪花は右手で文字を書き、左手でハサミを使う。それ以外の全てについてもどちらかに分類することができるが、それらを把握できるのは当人だけであるためここで網羅したりはしない。
雪花は自身が両利きであることを当然ながら承知していたが、そこにひとつ大きな認識の落とし穴が潜んでいたらしい。その道具を右手に持つべきか、それとも左手に持つべきかを決定する因子は、道具の果たすべき目的に依存するという勘違いである。
雪花には創造的な動作に適するは左であるという、ある種の思い込みが先行していた。
紙を切り分けるハサミは左、同じく紙を切り抜くカッターも左、正円を描くコンパスも左らしい。
対して、釘を打ち付けるハンマーは右、紙を留めるステープラも右、文字を書き留める鉛筆も右だと言う。
故に、絵を描くという創造的な行為に際し、この時の鉛筆は左に持つべきだという思考が半ば無意識に形成されていたようである。
しかしながら客観的に眺めると、文字というものもやはり意味を持った図形なのであり、文字を書くために右手を常々用いるのであれば、丸や三角や四角――ひいては、風景や人物などといった極めて複雑な形状を有した図形――を描くにもまた、右手の方が適しているのではないかという仮定もまた想定するべき事柄であった。
二日前に行われたそのような話し合いの末、雪花は左手にではなく右手に鉛筆を握り、千夏先輩の指導の下、河川敷の大枠をスケッチブックに描き起こしてみたわけだが、そのクオリティは美術室にて左手で描かれた一枚とは比較にならぬほど上出来なものであった。
かくして、雪花の致命的な欠落部分は、彼女の美的感覚に内包される矯正し難いところにではなく、より手の出しやすい表面的なところにあることが判明し、その結果、僅か数時間足らずの短い屋外活動を一度経験しただけで、その画力は見違えるばかりに上達したわけである。
もっとも、最初の一枚と比べれば相対的にという話であり、絶対的な技量という面に関してはこれから要改善だという厳しい評価は千夏先輩の弁である。
さて、我らが美術部が大きな収穫を得た二日後のこと、僕の教室の朝一の様子まで場面を進めることにしよう。
その日は前日の夜から始まったぬるい雨が続いており、梅雨の到来を分かりやすく宣言していた。窓を叩くほどでもない静かな雨がしとしとと降り注ぎ、空には薄暗い色の雲が隙間なくびっしりと敷き詰められている。それでいて気温は中途半端に高く、屋外は使い終えた直後の電子レンジの内部のような熱気と湿気が漂う状況にあった。
このような不快指数の高い日の朝には決まってシュウが僕の席の傍にへたり込み、朝礼が始まるまでの僅かな時間を共有して、どうにか気を紛らわせようとするのである。
僕からすればそのような時にこそ自席で独り大人しくしていた方が心身の不調の改善にどれだけか役立ちそうに思えたが、何かと話題に事欠かないシュウから都度供されるくだらないモーニングコールを左耳から右耳へと通過させることをそれほどまでに嫌っていなかった僕は、毎度のように彼の話題に対して適当な相槌を添えながら付き合っていたのである。
「何か、違うな」
左手の頬杖で頭を支えながら僕がそう尋ねると、シュウは指先で毛先を弄った。
「髪型のことか? 嫌なもんだ、こんな湿度の高い日はどうしてもうねるんだよな」
「だったら短くすればいいだろ……そうじゃなくて、制汗剤のことだ。前に新しいのを買ったって言ってなかったか」
「あぁ、それは昨日で使い切った」
こいつは制汗剤のことを霧吹きに詰めた水道水か何かだと思っているに違いない。
「今はミントのやつなんだ。これも結構気に入ってるんだけどさ、どうよ」
「かけ過ぎなんだよ、言われなくてもすぐにわかる」
「柑橘系が苦手だって言ってたろ。わざわざ変えてやったんだ」
「そういう気遣いは自分の彼女にでも向けるんだな」
「それじゃあ、これは来る日のための予行練習ってとこか」
「言ってろ。力也を見習ったらどうだ。見た目とは裏腹に香害とは無縁だぞ」
余計な一言が混ざっているぞと、シュウの隣の大男が僕の失言に文句を返した。
机の右脇で入道雲のようにずんと立ち昇る彼の巨躯は、シュウの背丈と並ぶことによって、僕の席を本来照らすはずであった教室の蛍光灯の光を大部分塞き止めてしまっている。窓の外の高いところには同じく日光を遮断する雲が広がっているため、そのために右と左の両方が十分な明るさを確保できず、従って僕の席周りは教室内の他と比べて一際薄暗い一角と成っていたであろう。
「すまない、口が滑ったよ。あまりに立派な体つきなものだから、つい」
「海春は細過ぎる。もう少し鍛えるべきだ」
「そいつは悪いね。諸事情で運動からは距離を置いてるんだよ」
「自宅用の筋トレ用具があるぞ。必要なら持ってきて貸してやる」
「そんなの担いで登校したら、それこそあだ名がゴリッキーで定着するんじゃないか」
「む……それは困る」
ゴリッキーは、もとい、力也は、太字用フェルトペンの軸よりもなお立派な彼の指を顎先に添えて考え込んだ。角ばった短いスポーツ刈りが僅かに前方へと傾ぎ、その頭上からようやく少しばかりの直射が得られたものの、姿勢はすぐにもとへと立ち直り、再び影が机を覆った。
以前より二、三度ばかりその存在についてほのめかしていたが、この人物についてもう少し詳しいところを本章にて説明したい。
この男、名を穴熊力也という。
身長はなんと百九十を数えて更に端数が出る。力也が隣に立てば、長身のシュウでさえもその首に角度を付けねばならない。
力也の趣味は筋肉作りである。この青藍高校からさほど離れていないところに居を構えているため、雨の日だろうが風の日だろうが、毎回の登校には己の脚力をもってランニングに臨んでいるという。彼の自室は僕のそれと同じく簡潔な様子らしいが、唯一異とするところとして、床にも壁にも筋トレ用具が準備されており、余暇の大半はこれと戯れることを良しとしていることは、いつかシュウから聞いた話だ。
そのような嗜好によって鍛えられた力也の体躯は、身長と組み合わさることでまさに大型の獣のようなそれであり、彼自身の部活動にも存分に発揮されている。
力也はシュウと同じくこの高校のバスケ部に所属しており、世代交代を重要視して早々の引継ぎを常とするバスケ部の現副部長として活躍している。確かな実力と実直な性格を有するため部員からは大層信頼されているようであり、勝敗などに対して気楽なところを持った部長であるシュウと比べると、同程度か、もしかするとそれ以上の人望がある。
そのような人気者にはシュウに対するアキやアッキーなどと同じく、別称なり愛称なりが自然発生するのが常であり、そうして流行りかけているのが前述したゴリッキーというあだ名である。だが、当人はこれをあまり気に入っておらず、どうにか方向性を逸らさんとひっそりと苦心しているらしい。
と言うのも、熊かゴリラかといった屈強な肉体からは素直に想像し難いが、力也は淡いパステルカラーやデフォルメされた小動物などといった柔和なものが好みらしく、現にシュウと共にバスケ部の朝練に励んだ帰路である今も、彼の逞しい全身からは男臭い汗のにおいではなく、ベリー系制汗剤の果実感豊富な甘い香りが、十分に意識を向けなければ気付かない程度、微かに漂っている。
「俺はゴリッキーが一番しっくりくるんだがな、ダメか」
「ダメだ。名が体を表し過ぎている」
「結構なことだと思うがね。中と外がちぐはぐなよりかは」
「そもそもだ、アキ。お前がこんな呼び方を初めに言い出さなければだな……」
「俺が言い出さなくても、絶っ対に別の誰かがこのあだ名を付けたと思うぜ」
「そんなことはないだろう」
なぁ、と力也が僕に同意を求めたが、正直なところシュウの言い分の方に分があったため、具体的な何かを返事とすることなく沈黙を貫いた。
「まぁ、その件はまた今度にするか。それで、本題なんだが……」
「毎回そう言ってはぐらかされているような気がするぞ」
「いやいや、別のあだ名普及作戦についてはちゃんと考えるって。そうだな、それじゃあ今日の帰りにでもまたあそこに寄ろうぜ」
「俺はラズベリーアンドブルーベリー・アラモードだな」
「ベリーの気分だからって、間違えても今日のデオランドを飲んだりするなよ。なぁ、海春もたまには一緒にどうだ」
かのような可愛げのある嗜好に彼の味覚も好みが似たのか、力也は甘味が大好物とのことである。シュウもまた苦味を嫌っており、部活の終わりには高校近くのデパート内に屋号を構えるクレープ店へと、大男二人並んで足繁く通っているそうだ。
ところで、力也がなぜ甘味処巡りと筋肉作りという相反する二つの趣味を持つのか、その点も説明をしておいた方が親切であろう。
正確なところを述べれば、力也は身体を鍛えることではなく、甘味を食することが第一の趣味である。しかしながら、甘味を胃に納めればそれだけ余計なものも贅沢な肉として身体各所にへばり付く。力也も運動家である以上、好きなだけ甘いものと付き合うには、それに見合った追加の燃焼が必要であり、そのために積極的な運動に励んでいる次第だと語る。もっとも、今では脂肪よりも、想像以上にはまったらしいトレーニングによって身についた筋肉による体重増加の方が遥かに上回っているが、実用性の面においては後者の方がどれだけか望ましいに違いない。
ちなみに僕は彼らの誘いをいつものように断った。甘いものを食べるとすぐに胸焼けを起こすためである。
「で、本当に話したいことってのはなんだ」
僕の方から催促してやると、シュウは待ってましたと続きを話し始めた。
「デザインを頼みたいんだよ。これは俺個人じゃなくて、バスケ部としての依頼だ」
「先に聞いておくけど、大事になるならこの時点で断っておきたいんだが」
「大層な話じゃないんだ、まぁ聞いてくれ。この高校には公式サイトがあるんだが……って、それはさすがに知ってるよな」
「まぁな。続けてくれ」
「で、そこから各部活動がそれぞれ更新している部活動紹介を兼ねたページにリンクが貼ってある。これも知ってるよな」
「あぁ」
「それじゃあ、話は早い。そのバスケ部のページに載せるちょっとしたイラストをひとつ描いてもらいたいんだ。美術部である、お前にな」
「そろそろホームルームの時間だな。席に戻った方がいいぞ」
まぁ待てまてと、シュウが食い下がったので僕は仕方なく追加の情報を求めた。
シュウと力也が話した内容を以下にざっとまとめることにしよう。
青藍高校の各部活動はそれぞれが管理する活動公開日誌――誠に寒いことだが、本高校の教職員たちはこれをブログとかけて「部ログ」と呼んでいる――を有している。このページは顧問の確認を最低一度は挟む必要があるものの、基本的には部員の手によって好き勝手に執筆され、適当なタイミングで更新されることになっている。
当然ながらバスケ部もこの部ログなるものをひとつ管理しているが、さて、その内容があまりにむさ苦しく硬い印象だというのがこの話の発端である。
部ログの管理を各部がそれぞれ行う以上、その部活動に所属する誰かしらが一定の管理者権限を有し、実際に記事の内容を打ち込んで形にする必要がある。件のバスケ部の場合、その担当者はシュウと力也の二人が、部長と副部長という本来の役割と兼任しているとのことである。
そこで、彼ら二人は部活の暇を見つけては本校のコンピュータ室に足を運び、適当な事柄を不定期に更新しているとのことだが、そこで前述した問題――即ち、記事の内容が面白みに欠け、部活動の魅力を伝えることができないのではないかというもの――が、身内であるバスケ部の顧問から投げられたとのことである。
シュウ曰く、ネットリテラシーに欠ける軽率な投稿は避けなければならない。
力也曰く、部活動に関係することを記事にしなければならない。
顧問曰く、魅力が伝わるような面白い記事にしなければならない。
三者の意見は個別に取り上げればどれも間違ってはおらず、むしろそうであって然るべきものではあったが、その全てを満たすとなると途端に実現のハードルが高くなる。勿論、要件を漏れなく満たす理想的な記事などは広大なネット空間においては無数に存在することだろうが、一介の高校生が部活動の片手間に作成する内容の毎回に求めるところとしては、やはり少々厳しいと言えるだろう。
そこでシュウと力也はこう考えたわけだ。記事の方針は今までと変えず、ページ全体の雰囲気の方に手を加えて、見栄えの面でどうにか誤魔化してしまおうと。そこで、文字ばかりで堅苦しい外観に手っ取り早く華を飾るために、少しばかりの絵を僕に用意してもらいたいということだった。
「僕がパソコンの画面に手を突っ込んで、バスケ部のページの片隅にちょいちょいと絵を描けるように見えるか」
「そんなことができるのか。凄いもんだな」
「できないことを言ってるんだよ。鉛筆しか握ったことがないのに、ペンタブの上にどうやってまともな絵を描けると思ってるんだ」
「冗談だよ。俺たちは絵については疎いが、紙の絵じゃなくてデジタルデータの絵が必要になることくらいさすがに知ってる」
なっ、とシュウが力也に振ると、「む……そう、だな」と歯切れの悪い応答が聞こえて、僕の不安をむしろ増長させた。
「ところで、世の中にはスキャナという便利な道具があるのをご存じかな」
「馬鹿にしてるのか、それくらい知ってる」
なぁ、と僕が力也に振ると、「む……」とだけ返事があった。
近頃はコンビニにも設置されているのだ。使ったことはなくとも、存在すら知らないとは言わせない。
僕はシュウの魂胆が理解できた。
そのまま部ログに貼り付けられるような圧縮済みの完成形デジタルデータを用意しろとまでは言わない……そこら辺は自分たちがどうにかするから、トレスの大元となる絵を紙に描いて用意してくれ……そういうことだろうと問うと、シュウはまさにその通りだと指を鳴らして肯定した。
「コンピュータ室にはパソ研の備品のペンタブレットがあって、それに合ったフリーソフトもインストールされている。事前に一言声掛けさえすれば、パソ研はいつでもそれらを貸し出してくれるらしい」
「で、紙に描いた絵をデータ化して、ペン入れなり色塗りなりをコンピュータ室で済ませると」
「そういうことだ。つまり、頼みたいのは最初に言った通り、載せる絵のデザインってわけだ。それ以降の手間は取らせない」
「へぇ。だけど、それなら……」
……そもそもパソ研で絵の上手いやつに頼めばもっと簡単な話だろう。
僕がそう続けようとした矢先、シュウと力也が並ぶことで眼前にそびえ立っていた壁が突然に左右へと二分された。遮られていた蛍光灯の灯りが彼らの間から後光のように射すことで、かの光景はさながらモーゼの奇跡によって大海が割れるかのようである。
小さく頭を下げながら、彼らの間から顔を覗かせたのは雪花であった。彼女の頭の天辺は右と左、どちらに立つ男の肩にも届いておらず、そこから感じる圧迫感か、または威圧感か、そういったものに怯えているかのようにおどおどとした調子で僕と目を合わせた。
「あの、お取込み中すみません」
「いいよいいよ、忙しい話じゃなかったし。どうしたの」
「預かっていたものを直してきました。朝の内に渡した方が良いと思いましたので」
雪花はそう言いながら手に握っていた筆入れを僕へと手渡した。
屋外活動を終えた別れ際、雪花は事前に話していた約束を忘れてはおらず、僕の筆入れを受け取って帰路についたわけだが、その手直しした代物の返却に訪れたらしい。
四年越しの手入れを受けたことにより、僕の筆入れは見違えるように立派な外観に生まれ変わっていた。
生地を繋ぎ留める糸は両端の玉を切り落として再利用したらしく、その分だけ短くなった全長を補うべく一周あたりの波頭の数を少し減らしているが、そのように間隔を広げて縫われたもとの糸の下側には、同じ色合いの糸が隙間を極端に詰めたなみ縫いにされて走っている。
加えて、内容物が刺突して徐々に擦り減ることによって薄い色へと褪せた上端と下端の底面には、本来のデニム生地と似た素材の当て布が内側から縫い付けられており、外観はそのままに当面の耐久性を加えられている。
よって、この筆入れは破線と直線による二重補強が施されると同時に縫合跡によるデザイン性をも会得することに成功し、両端の底が抜ける危険性からも脱することができ、原型を損なわぬままに機能性の充実に至っていたのである。
「ありがとう。いや、でもこれは凄いな。既製品だって言われても信じるよ」
「補強のために幾つか生地と糸を足したのですが、邪魔にはならないでしょうか」
「いいや、全然気にならないよ。それより、日頃大したものを入れてもないのに、急かすようだったならごめんね」
「いえ、いいんです。それでは、また後ほど……」
雪花はもう一度シュウと力也に軽く会釈した後、そそくさと自席へと戻っていった。
彼女の机の端にはホームルームの内容を書き留めるための予定帳と、一時限目の授業に用いる教科書類が、既に揃えて置かれている。
……しまったな、余計な気を遣わせたかもしれない。
シュウも力也も良く出来た奴ではあるが、その外面の大きさは当人たちが静かにしていようとも如実に周囲の空間を圧迫しており、彼らの事情や性格を詳しく知らぬ者からすれば、不用意には近付き難い印象をそこから受けたとしても仕方のないところである。
雪花がこの筆入れを朝の内に渡しに来ることは事前に聞いていたため、そうであれば親切を受け取った側である以上、彼女の都合に合わせていつでも応対できるように自らの身体を空けておくべきであったが、そこまで気が回らなかったのは僕の落ち度だ。
「最近は熱心じゃないか」
反省していた僕の隣に再び壁を作るように向き直り、シュウがそう切り出した。
「なんのことだ」
「美術部だよ。入れ込んでないって言ってた割には、面倒見も良さげだしな」
こめかみで雪花の席を指すようにして、シュウが頭部を一度左へと振るう。
実際、雪花を美術部へと案内して以降、僕は彼女と共に毎日のように美術室へと足を運んでいる。誘うだけ誘って自らは参加しないという態度は随分と不躾ではあるまいかという自覚があったからだ。
そのような同調をいつまで続けるつもりなのか、僕の中では具体的な締め切りを設けておらず、いずれ自然な形でフェードアウトするものだろうという認識であったが、シュウが述べたように、僕から雪花への、あるいは雪花から僕への心掛けの機会が想定よりも幾分多かったため、部活動への背信を当初よりも表明しにくくなっていることは事実であった。
「うちの部長が大層気に入ってるようでね。邪魔者扱いされる前にはそろっと抜けるさ」
「お前も気に入られていると思うぜ」
「僕が? それはない。挨拶をしようがしまいが文句を言われるんだからな」
「いや、そうじゃなくてさ……まぁ、いいか。なぁ、力也はどう思うよ」
シュウは僕へ確認を取ろうとしていた内容の続きを力也に尋ねた。
一体何がそうではないのか、前後の脈絡が上手く繋がっていないような感覚があり、僕としてもシュウの考えるところが知りたくなったので、彼らのどちらの意見でも構わずに回答を待った。
「……可愛い」
はぁ、という疑問詞が僕とシュウの口から同時に飛び出した。
その反応に気が付いたのか、力也は後方へと向けていた視線を正面へと戻した。
「どうした」
「いや、俺が聞きたいよ。何が可愛いって」
「む……そんなこと言ったか」
「聞き間違いにしてはかなりはっきりとしてたけどな」
「無意識に呟いたということか」
「そうみたいだな」
「ならば、聞かなかったことにしてくれ。名前が……む、わからん」
「白金雪花、だよな」
シュウが僕に確認を取ったので首肯した。
「そうか。彼女には言わないでくれ。近頃は何がセクハラになるかわからんからな」
力也はそう言うと今度は教室の前方に視線を向けた。ホームルームの開始時刻がもう間もなくに迫っていることを認めた彼は、「図々しい話で悪いが、前向きに検討してくれると助かる」と残して、がやがやと騒がしい教室の中央を窮屈そうに通り抜け、二つ隣にある自らのクラスへと立ち去った。
僕とシュウは暫し黙って見送っていたが、その広い背中が教室前方の引き戸の角へと吸い込まれると同時に、顔を合わせて互いに確認した。
「なぁ、おい。聞いたか」
「あぁ、僕もはっきりと耳にしたよ」
「だよな。いや、しかし、まさかの事態だな。よもや力也が……、」
シュウは目的語の部分を発声ではなく目配せで示し、「のことを、気に入るなんてな」と続けた。
視界の端に映っていた雪花は、波乱に満ちた先の三十秒のやり取りについて知る由もなく、手に取ったシャープペンシルの替え芯を補充する作業に意識を向けていた。
「力也とは中学からの付き合いだが、あいつがあんなことをつい口走るような場面、俺は初めて見たぜ」
「そうなのか。まぁ、確かに……」
長い睫をたたえた薄い瞼に住む、時折見せる伏し目が一層強調される大きな瞳……どれだけかは日に晒して焼いた方が丁度良いまでに白い肌は、ふとした衝撃でも砕け散る繊細な陶磁器かのようではあるが……今まで格別に意識はしていなかったが、主観を極力除いて客観的視点を念頭に置いたとしても、雪花は確かに可愛らしいと形容して然るべきであった。
即ち、僕の見解は、力也が不意にこぼしたそれと見事にベクトルが揃っていたことになる。
この時の僕には、かのような一致に伴う満足が、まず先行していたのである。
「僕もそう思うよ」
力也の呟きが決して世迷言の類ではないということを誰が為というわけでもないが強調すべく、僕は自らの見解を糊付けするかのように後へと続けた。
それを聞いたシュウは、少し前の力也が見せたように、三脚を組んだ指に顎先を乗せてじっと黙りこくって考え込んだ。その顔付きがいつになく真剣なものであったので、熟考の助けにでもならないかと、彼の集中力を断たぬ程度に状況把握に必要な情報を聞き出した。
「力也と白金さんに面識なんてあったかな」
「いいや。俺が知る限りはないな」
「となると、さっきのは……」
「あぁ、間違いない。一目惚れってやつだ」
スピーカーからチャイムが鳴った。ホームルームの五分前を知らせる予鈴だ。
友人との朝一のコミュニケーションに未練を残す級友たちは、彼らの話題に一区切り設けようと、一方は残りの内容を駆け足で口にし、もう一方は耳を傾ける。それらと音量を大きめに調整されたチャイムの音とが混ざり、教室内の喧騒は瞬間的にモラルの上限を超えて膨張する。
シュウは更にもう少しばかり思索に興じ、ついに何かしらの筋道を見つけたらしい。騒がしい周囲の様子と同じように、彼もまた僕に向けて早口で話した。
「さっきの話なんだが、どうだ、引き受けてはくれないか」
「えっ」
「絵の話だ。礼については……まぁ、後で好きに言ってくれればいいからさ」
「僕は構わないけど、パソ研に直接委託した方が楽に進むんじゃないか」
「お前に頼むことに意味があるんだ」
前方の引き戸が開き、眠気を隠そうともせずに大きな欠伸をひとつ漏らしながら、担任の珠洲谷がとろとろと教室へと足を踏み入れた。
級友たちは皆、名残惜しそうに各々の属する集団から散逸し、自らの席へと戻っていく。
シュウは片方の口角を持ち上げながらその場を離れた。最後の一言の真意が汲み取れず、かと言ってこのタイミングで引き留めることもできず、僕は彼を引き留めることを諦めてホームルームに臨む体制を選んだ。
机の脇に吊っていた鞄は通学時の雨で湿気っていたものの、いつの間にか乾いていた。
鞄の中から教科書を全て抜き出して机に押し込む。
その拍子にどこからか砂粒が膝の上に落ちた。
これがいつ生まれたものなのか、心当たりが見つからなかった。