第十四章 温度
二日後の天気は季節感を狂わせんばかりの威勢であった。
六月中旬ながらも外気は三十度に達し、自室の窓を隔てた一枚先で渦巻く熱気が家全体を湯煎するかのように室温を高めていた。
自室の片隅に鎮座する古い扇風機を回してもぬるい空気がかき混ぜられるだけで体温は一向に下がらず、むしろ首振りに合わせて体感気温が頻繁に乱れることで疲労感ばかりが蓄積する始末である。
……こんな時間からなんて暑さだ。
枕元の置時計は九時少し前を指していた。
掛け布団を足元側へと追いやり、その上に足を乗せるようにして僕はベッドの上で横たわっていたが、熱気による寝苦しさと肌の湿り気が絶え間なく湧き続けることによって身体の活力は行動せずとも失われる一方であった。
動けば汗を吹くが、動かなければ背中の下のシーツがだんだんとぬるくなって居心地は悪化していく。
……少し早いが、まぁいいだろう。
僕は追い立てられるかのようにベッドから立ち上がり、外出の用意を始めた。
美術部の屋外活動は現地集合にて十時からとの予定だったが、蒸されるばかりの一室にこれ以上はいられない。閉塞した室内よりも、開放的な屋外の方が空気の通りはどれだけかましだろう。
クロゼットを開き、薄手の生地で織られた長袖のジャケット――貧相なレパートリーの私服の上辺を取り繕うため、僕は外出時には常々これを組み合わせている――を羽織った後で、さて、こいつを一枚余分に纏う必要は本当にあるのかとも考えたが、わざわざハンガーにかけて戻すのも億劫だったためそのまま扉を閉めた。
学校から出された課題を済ませるべく机の上に置きっぱなしにしていた筆入れと、学習机に備え付けられたブックスタンドに寄りかかるA3サイズのスケッチブックを取り上げ、これらを片付けるための適当な入れ物を探そうとしたが、それもまた面倒に感じて止めた。荷物が軽くても容器が大きければ意味がないだろうという、実に合理的な判断であると自身を納得させて、通学鞄以外にまともな袋を所持していない現実には見て見ぬふりを決め込んだ。
そして、大して中身の入っていない薄い財布と、昨夜充電し損ねたことでバッテリー残量が七割程度となったスマートフォンをそれぞれジャケットの内ポケットに突っ込んで、いずれは生命体が活動不可能なまでに室温を上げ続けているのではないかと疑わしい自室から逃げ去るように階段を降りた。
家を出る前に居間に顔を出すことを決めた。外出から戻るのは午後になるという旨を家族の誰かしらに伝えるためだ。
閉められていた扉を開くと、廊下に満ちていた自然の熱気とは真逆の人工的な冷気がわあっと押し寄せ、目視では認識できぬ形で肌の上を湿らせていた汗が一瞬で引っ込んだ。
ソファの上の定位置では海月が寝転がり、覇気に類するすべてをかなぐり捨てた状態でだらだらとスマートフォンを眺めていた。タンクトップとショートパンツという姿は完全に夏場のそれである。本日の外気温を考慮すればさほどおかしいとは言えないかもしれないが、冷房を惜しげもなく循環させた居間におけるその格好は、本来の暦のことも勘案すればやはり多少行き過ぎていることだろう。
途切れることなくぽこぽこと通知を鳴らす画面からちらりと目線だけをこちらに向けて、海月は意外そうに口を開いた。
「……めっずらしい。兄ぃが早起きするなんて」
僕は休日に朝食を摂らない。平日よりも活動量が少なくなる休日において、三食を徹底することよりも睡眠時間を長く摂ることの方が有意義だと考えているためだ。
そのため、僕が休日の朝に顔を出すということは、それ即ち何かしらの用事があるために他ならないが、僕が余計な運動を嫌って出不精であることについては海月は勿論のこと、僕の特異体質のことを知らない両親も承知済みのことであり、従ってこのような形の遭遇に対して若干の驚きを家族から向けられることも事前に想定されるパターンのひとつであった。
「あれ、母さんは」
「昨日の話、聞いてた? バイト先で急に一人欠けたから代わりに出るんだって」
思い返せばそのような話を夕餉の折にされたような気がした。
加えて、僕の父親は業務の都合上、土日ではなく日月が定休の職に就いている。
そのような事情があるために翌日の土曜は両親不在の時間帯が発生してしまうのだと、たしかそのような形で心配性の母親が切り出していたはずだ。
僕は居間の氷河期について納得した。なるほど、この海月の様子を母親が見たならば、風邪を引くからだのなんだのと小言を挟まれ続けるに違いないが、心配性の権化が夕暮れ時まで帰ってこないのであればどうということはない。
「ちょっと外に出てくる。帰るのは午後になるかな」
「ん。 ……えっ、私のお昼ご飯は」
「好きにすればいいだろ。冷蔵庫とか戸棚とか……探せば何かあるんじゃないか」
海月はがばっと起き上がり、想定していた展開とは違うという文句でも言おうとしたようだが、いや待てと再考に入って静かになった。
大方、コンビニで好きなものを買い込んで、一人だけの我が家で気兼ねなく過ごせる未来を幻視でもしたのであろう。それはそれで歓迎すべきと納得したのか、海月は何でもなかったといった様子で、ソファの上であぐらを組んだ。
「絵でも描きに行くつもりなの」
僕の手元に気付いたのか海月がそう尋ねた。
今日の目的は絵を描くに際して最低限必要となるものが常識を飛び越えて欠落している雪花に対して、千夏先輩が風景画を描くにあたっての基礎を教えるというものであり、僕の存在は食玩にくっ付いたラムネ菓子の如く、熱心な美術部員たちのおまけでしかない。
しかしながら、スケッチブックと筆入れを手にしていれば、その人物がこれから本格的に絵を描くのだろうと想像して当然である。僕は海月の問いに首肯した。
「ふぅん。っていうか、まだそれ使ってるの」
「思ったより重宝してるぞ」
「物持ちが良すぎてキモい」
スケッチブックの表紙と親指に挟むようにして握っていた筆入れを目にした海月が、消費社会の暗部とも取れる不条理を述べた。
……自分が作ったものに対して随分な言い草ではないか。
僕は手元の筆入れに同情した。まさか制作者からそのような口を向けられるとは。
古着を再利用して作られたこの円筒状の筆入れは、僕が中学一年の時分にて海月から贈られたものである。
家庭科の授業を経験して裁縫の奥深さに魅せられたのか、当時小学五年の海月はどこぞから母親の裁縫箱を引っ張り出して、既に当日から二週間を過ぎていた僕の誕生日プレゼントを今更ながら熱心に作り始めた。
ただ、素材としてサイズアウト間際の冬用ジーンズを選んだのは、素人の選択としては無謀であり、そのことを何となく察していた僕は海月の裁縫を止めまではせずとも、対面に座って眉根をひそめながらはらはらと見守っていた。
僕の懸念は案の定現実のものとなった。海月は切り出した分厚いデニム生地を縫い合わせる際に、目測と力加減の両方を見誤り、左手の親指の側爪郭部分を下から上へと……あぁ、これは生涯二度はお目にかかりたくないが……六号のメリケン針にてぶち抜いてしまったわけだ。
その後、泣きながら完成品を拵えた後、海月が針の類に近付かなくなったことについてはわざわざ言うまでもないため詳細は割愛したいと思う。そして、これも余計な説明かもしれないが、かのような光景を目の前で見せつけられた僕にもまた、先端恐怖症の気が宿ったということをついでに報告しておきたい。
そのような経過をもって贈られたこの筆入れだが、機能性という面においては正直なところ優れているとは言えない。細い径の内部にはペン類の二、三本がせいぜいであり、コンパスやハサミといった体積を取るものは当然のこと、消しゴムや定規といった小物すらその種類を選ぶことになる。
だが、僕はそれで満足であった。もとより筆箱に大層なものは入れていない。カラフルな四色ボールペンも、貼って剥がせる付箋も、針を使わないステープラも必要ない。鉛筆とそれを削るためのペンナイフがあれば、学業における大抵のことは滞りなく済ませることができるのだ。
故に僕は以前に使っていた市販品の筆箱が寿命を迎えて以降、この筆入れを使い続けているわけだ。赤い刺繡糸によって縫われた底面の一部には先の惨事で散った血痕が端の方に染み付いているが、元のデニム生地の濃い色のおかげで一目では気付かれることはない。そして、これもまた生地の強みか、受け取ってから四年を勘定してもなお、この筆入れは使用に耐える程度には品質を保っていたのである。
「いい加減に新しいの買ったらどうなの」
「学校で使うにも、絵を描くために持つにも、これくらいで十分なんだよ。それに、このサイズ感の筆入れは案外市販されてなくてね」
「あっそ。まぁ、好きにしたら」
「大切な兄宛ての贈り物をありがたく使わせてもらってるだけだからな。そう照れなくてもいいんだぞ」
「そうやってなんでも分かった風を装うの、ほんっとウザい」
海月は再びソファの上に身を投げ出すと、背もたれ側に身体の正面を転がしてスマートフォンを弄る作業に戻った。少しばかり目を離していた間にも新たなメッセージが幾つも受信されていたらしく、ホーム画面の下部に固定されたメッセージアプリの右肩には新着の数を示す赤い数字が二桁単位で表示されている。
僕が「今年の誕生日プレゼントはまだ受け付けてるぞ」と声をかけると、海月は背中を向けたまま、画面を弄っていない方の手の中指を無言で空に突き上げたため、これ以上の兄妹間コミュニケーションを諦めて居間を後にした。
海月はどうしてあれほどまでに捻くれてしまったのか、兄としては哀しくもなった。近所で噂になるほどのとまではいかずとも、昔はもう少しくらい仲良く同居していたような覚えはあったが、そのような過去の尊さなど今は見る影もない。
居間から出ると暫し忘れていた熱気が再び満ちていたものの、洗面所に立ち寄って顔を洗うことで体感温度はぐっと抑え込まれ、不足していた活力のどれだけかが返却されたように感じた。
その行動力が失われる前にさっさと家を出た方が得策だろう。
玄関の靴箱を開いて適当な運動靴を一足――そもそも、履物の類は運動靴とサンダルの二足しか持っていないが――を用意して屈みこむ。
……いや、捻くれたのはむしろ僕の方か。
土間で靴紐を結びながら、僕は日頃の自分の振舞いを反省した。
外の熱気は玄関から身を乗り出した直後の僕をうんざりさせ、外出欲求を自宅の奥深くへと押し返しかねないものではあったが、ひとたび自転車に跨ってペダルを五、六回ほど力一杯踏み込んだならば、ひゅうひゅうと耳元を駆け抜ける涼しさが心地よく、漕ぎ出す直前のぐずぐずとしていた態度は瞬く間に路肩へと降り落とされて遥か後方へとその姿を消した。
自宅を離れて図書館へと向かう。エントランスを正面とした丁字路を右に曲がり、間髪入れずに左へと舵をきると、右手には区画整理の施された青々と波打つ田畑がざあっと広がり、離れた奥には立派な高架橋が進行方向とほぼ並行に走っている。
都会と呼ぶには遠く及ばず、しかしながら公共事業にも満足に取り掛かれないほど不自由な田舎でもない、各地に見られるありきたりな地方の風景だと言えよう。
十字路を右折して先に望んだ高架橋の下をくぐると、県内を通過する最大の国道から分岐した別の国道へと接続している。
高架下を抜けた直後、薫風はなりを潜め、アスファルトとゴムの存在感が一気に増し、応じるように交通量も跳ね上がる。
擦れ違う車両の風切り音……エンジン音……クラクション……ガスの臭い……
近代的な異物が煩わしくも、舗装された道路は目的地近郊までほぼ直線に伸びていて、アップダウンはなく平坦であり、歪な段差や危険なひび割れも少ないため、サイクリングには実に適した性情であった。
そうして飲食や被服のチェーン店が両脇に立ち並ぶ太い直線を暫く走り、適当な脇道を見つけて右折することができれば、もはや僕が日頃通う青藍高等学校まで迷うことはない。後は緩やかな斜面を少しばかり上るだけで正門と、隣接する駐輪場が見えてくる。
とは言え、目的地は高校ではなくさらにその先にあるため、通学時の癖のままに坂の方へと曲がってしまわぬよう意識しながらそのまま直進を続けて、家屋が散発的に立ち並ぶ路地をくぐり抜けると、そこで左右の開けた一帯にたどり着くことができる。
目下には水の流れが静謐に輝いており、その上を跨ぐようにしてこの川の名を冠した橋のひとつが架かっている。橋へと乗り上げる手前には砂利の敷かれた歩道が左右に続いているが、本日の集合場所はまさにその砂利道と隣接する堤防上の一角であった。
もっとも、この辺りに関係する人間であれば、ここより西に三百メートルも離れていない地点に、数年前に改修されて立派な様相となった大橋が架かっていることを知らぬわけがないため、青藍高校に少しばかり近いという地理的利点がなければ、今回の集合場所はそちらの堤防沿いになっていてもおかしくはなかった。
僕は自転車を降りて砂利道へと転がしてから自立させ、ジャケットの内ポケットに片付けていたスマートフォンを取り出して時刻を確かめた。バックライトの灯った画面には九時二十分と表示されており、想定していたよりも随分と道中が円滑であったことを示している。
僕は誰かを待たせることは大層嫌うが、自分が待たされる分には一時間でも二時間でも――まぁ、さすがに半日以上も放っておかれればその時の心境次第ではあるが――平気な性分であったため、このような早々とした集合を常に心掛けていた。
故に、ここからの四十分に対して悲観的な見方はしていなかったものの、先ほどスマートフォンを掲げた際に目に入った、両方の手のひらの汚れについては持て余していた。
……筆入れよりもグリップの方が先に替え時か。
通学に使っている自転車のハンドルには滑り止めの黒いグリップがきつく巻かれているが、表面の加工はとっくに限界を超えており、内部の柔らかな素材が所々の裂け目からはみ出している。何製かもわからぬそのくしゃくしゃした部分がハンドルを握り締めるたびにほろほろと分離し、汗に溶けるようにして手のひらを黒く滲ませるのである。
加えて、今日の暑さの中をジャケットを被った姿で疾走したことによって、普段の通学よりも僕の心拍は幾らか元気であり、薄皮一枚が砂塵化したことによるきらきらとした青白い砂が何粒か、これまた手のひらの溝に張り付いて一層見栄えを悪くしていたのだ。
もうどれだけか若ければ、衣服の一切を投げ捨てて、後先考えずに目の前の川へざんぶと飛び込んでもどうにか許されるだろうが、齢十七にしてさすがにそのようなやんちゃを発揮するつもりは起きず、ならばせめて川べりまで歩を進めて手だけでも洗わせてもらおうかと考えていたのだが、
「あれ、宇佐美さん。随分とお早いですね」
かのような投げかけが背後からなされ、僕は斜面に投げかけていた片足を引っ込めた。
「白金さんこそ、またお早い到着で」
「初めての場所には余裕をもって着くようにしているんです」
「奇遇だね。僕も似たようなものだよ」
「宇佐美さんもここには初めてなのですか」
「いや、三度目くらいかな」
「それでは、どうしてこんなにも早く」
「いつも五分前行動を心掛けてるからね」
とてもゆったりとした五分ですねと、雪花は左腕にはめた小さな腕時計の針に視線を落としてくすりと笑った。
オーバーサイズの白いシャツ型ワンピースからは手足が控えめに覗いているが、それらは彼女の名にある通り、雪色をした花弁かのように僕の目には映った。
身体の前で組まれた指先には白猫の柄をあしらったトートバックが掛けられている。全体の形状は内側から均整に大きく膨らんでいるものの、それでいながら蓋のない上端から内容物が散らかっていることはなく、いつの日か我が家の廊下に打ち捨てられていた海月のエナメルバックとは正反対の上品な印象を受けた。
頭上には服と同じく真白の生地で作られた帽子がバランスよく乗せられている。年季が入ることで味を出しているそのキャペリンハットの山は、小柄な雪花の頭と比しても少し小さいように見える。反面、その円を囲むつばはかなりの幅広を有しており、日よけとしての機能は遺憾なく発揮されていると言えよう。
細い脚の先端は三つ折りの靴下とハイカットスニーカーによって小さく包まれているが、いずれも純白の中にワンポイントがぽつりと落とされた程度のデザインであり、そういうわけであるからこの日の雪花の格好は、まさしく上から下まですっかりと白の中にあった。
隣へと歩み寄った雪花は帽子のつばを指先で軽く押し上げた。多少の身長差に加えて大きく張り出したつばの陰があるため、そうでもせねば互いの表情を直線状に結べないためである。
大きなシルエットの帽子によって、小柄な彼女は相対的に見て更に一回り小さく感じる。
正面に揃った二つの瞳が僅かな角度と共に下から見上げている。
頭の奥で黄色い火花が今一度ぱちりと響き、視界が一段明るくなったような気がした。
次の話題を考えるために、僕は姿勢を軽く崩しながら両目を緩く閉じた。集中を有する際、僕は決まってこのような不真面目を共にするが、この日は目の前の話し相手を随分と眩しく感じたことで、そのような癖が平時よりも幾分早く表在したらしい。
「その手のひら、どうしたんですか」
先に口を開いたのは雪花であった。
「あぁ、これは……自転車のグリップがもう限界みたいでね」
「拭くものを持ってきてますので使ってください」
そう言うと雪花はトートバックの脇腹に縫われたファスナー部分から新品のウェットティッシュを取り出して乾燥防止のシールをぺりぺりと剥がし、そこから二、三枚を引き抜いて僕に手渡した。
こびりついた繊維と砂粒を拭き取ったそれをズボンのポケットに突っ込もうとしたところで、残骸を渡すようにと雪花が催促していることに気が付いた。彼女は先ほどとは逆側の物入れからゴミ袋を取り出してその中へと捨てた。
「部長さんが来るまでまだありそうですし、座って待ちましょうか」
「良いアイデアだし、僕も賛成だけど、その白い服だと土埃が目立ちはしないかな」
「大丈夫です。用意は万全です」
雪花は小さく四角に折りたたまれたレジャーシートを取り出し、自信ありげに小さく胸を張った。
「必要になるかなぁと思って、いろいろ持ってきたんです」
「ここらは見通しが良いから風も吹くけど、もしかしてペグも持ってきたりしてるのかな」
「はい、抜かりありません」
「そいつはまぁ周到なことで……こっち側を持つよ」
小さな四角を広げると白黒でかたどられた猫が一杯に敷き詰められているデザインが現れた。艶のある表面には撥水加工が施されており、厚みはそこまでないものの多少の伸縮性による破れにくさを有している。横幅は後に来るもう一人を勘定に入れたとて並んで座るに十分足る大きさであり、四隅には銀色のリングで縁を補強されたペグ打ち用の丸穴が確保されていた。
砂利道の端から川べりにかけて、雑草の疎らに生える緩やかな斜面が五メートルほど続いているが、僕と雪花はそれぞれレジャーシートの対角を手に取ってその傾斜へと脚を下ろすと、強風に邪魔されないうちにさっさとプラスチック製の黄色いペグで四方を固定し、各々の荷物――と言っても、僕の所持品は自転車のバスケットに投げ込んでいたスケッチブックと筆入れだけだったが――を置いて重石とした。
無事に設営を終えたレジャーシートの上に並んで腰を下ろした。
左に僕が、右に雪花が座った。
この時、僕は少し前のことを思い返していた。五日前、倉庫前の石棚に二人並んで座って体育の授業を見学していた時のことだ。
人生、どう転ぶか分かったものではない。偶然が幾つかと気紛れがひとつ混ざったことで、このような時間を過ごすことになろうとは。
砂塵化を完全に意識したその日から、僕が新たな交流を自ら望むことはなくなった。
面倒事を隠してまで他人と付き合う利点も、それが露見した際に生じる不利益を上回るだけの理由も見つからなかった。ただ、最低限の社交辞令と、そこに付随する誤差程度の愛想があれば、自分を中心とした世は事もなげに回ると経験則から理解していたためだ。
それなのにどういうわけか、自身の面倒も相手への不利益も度外視して、僕は新たな知り合いの隣にて同じ時と場所を暫し共有する機会を得ているのである。
畏れ多くも敢えて強調したいが、何度も禁煙に成功していると自慢げに語る重度喫煙者や、ろくな帳簿も付けずに累計の戦果を五分だと言い張るギャンブラーと比べれば、上述した僕の信念にはどれだけ太い芯が貫いていると信じている。この決意の固さは僕の心身の健康に文字通り直結しているため、それ以外の大抵の事例に伴う決意――過度の喫煙や資金投入が健康を全く損なわないとまでは言わないが――よりかは真剣であらざるを得ないためだ。
では、なぜ僕は雪花の部活動見学の案内を進んで買って出たのか……
なぜ彼女と同じ部活を望んだのか……
なぜ彼女の一挙手一投足にふと視線が寄せられるのか……
僕はそれ以上の追求をしなかった。
否、できたかもしれないが、理性よりも聡い本能に従って、そうすることを当時の僕は無意識に避けていたのだ。
「その筆入れは宇佐美さんが作ったのですか」
暫しの沈黙に窮したか、真に興味を惹かれたのか、雪花は僕にそのような質問をした。
「不出来な妹が不出来な兄のために作ってくれたやつだよ」
「それは、優しい妹さんですね」
「今朝そう褒めたら中指を立てられたよ。もう一言余分に褒めてたら次は脛のあたりを全力で蹴られてただろうね」
「そうは言っても嫌いな相手にはわざわざ贈り物はしませんよ。本心は年月が経ってもなかなか変わらないものだと私は思っています」
「どうしてこれがそう歴史のあるものだと」
「かなり使い込まれてますから、なんとなくです」
僕は雪花との間に投げ出していた筆入れを手に取って改めて品評した。
雪花の言った通り、この円筒には未だに筆入れとしての機能が備わってこそいるものの、状態についてまで言及するとなると雲行きが濁るのは間違いない。
そもそもが素人の手作りなのだ。縫合はなんとなくの形が優先されたなみ縫い一択であり、赤い糸の軌跡はぶつぶつと不揃いかつ非直線状に並んでいる。
筆入れの上部にはぐるりとファスナーが一周して上下を二分できるようにされた部分があるが、この箇所は特に負荷がかかりやすいのか、本体のデニム生地との接合を担う裁縫糸が所々ほつれて浮き上がった状態となっている。
そして、これはもう制作者の技量云々ではなくなるが、長きにわたって使用し続けたことによって、頑丈なデニム生地の要所は本来の健全な色を失い、ダメージジーンズに似合うような色へと褪せているのである。
まだ使用には耐えると前述したが、寿命がもうそこまで近付いているということは傍目にも薄々予見できる状態にあった。
「もうしばらくは使えそうかな。底が抜けたらさすがにお手上げだろうけどね」
「糸が緩んでいるところは、一度抜糸して縫い直せば元に戻りそうですね」
「人の物持ちの良さに苦言を呈するような妹なんだ。直してまで使ってたら一層の謗りを受けるかもしれない」
「照れ隠しではないでしょうか。面と向って言えないことって、きっと誰にでもあります」
「そうだと良いけど、まぁ、いずれにせよこいつが綺麗な姿に戻ることはないかな」
「と、言いますと」
僕は筆入れの経歴について雪花に語った。
これが僕の誕生日に贈られたものであるということ……制作の折に海月の指がぶつりと田楽の下準備さながらの外観に相成ったこと……そのような光景を直視したがために僕も妹も尖ったものに対して畏怖嫌煙の念が付きまとうこと……よって、この筆入れが修復される見込みも今後一切ないということ……
僕がそこまで話すと雪花は、「もしよければ私が直しましょうか」と提案した。
ソーイングセットまで日頃持ち運んでいるのかと問うと彼女はそれを否定し、一晩預かってよいのであれば日曜の内に自宅で縫い直して、翌日の朝礼前には返せると計画を述べた。
「嬉しいけど、面倒にはならないかな」
「素敵な部活動を紹介してくれたお礼ということではいけませんか」
「あぁ、その返しは上手いね」
部活動の案内を提案した時の光景が思い起こされた。
「それとも、やはり、外から手を入れるのは止めた方がよいでしょうか」
「なんだっけ。たしか、テセウスの船だったかな」
「はい。部品を入れ替えて新しくなったモノは、元のモノと同じと言えるのか……そういう命題です。大切な贈り物のようなので、思い出によって形作られた同一性を不要に歪めたくはないのです」
「難しい話になってきたけど……どうあれ長持ちするのは確かだよね」
「手を入れないのと比べれば、幾らかは」
「それが船であれ筆入れであれ、壊れてしまえばそこで終わりなんだから、どんな形であれ続くことにこそ意義があると思う。それに僕は、手を加えることで全く同じものではなくなることよりも、白金さんの親切による付加価値の方がずっとずっと大きいような気がするよ」
僕がそのような意見を述べると雪花は、では今日の帰り際に筆入れを預かりますと返した後、正面のせせらぎへと顔を向けた。
僕も釣られるようにして川の流れに目を落として、風が草葉をさらう音や、遠くでぱあぱあと尾を引くクラクションの音などに黙って耳を傾けた。
……おい、黙るなよ、僕。何か口を動かせ。
一度でも空白を意識すると、静寂を破るための次の一言を出しにくくなってしまうのは僕の悪癖だ。そうならぬように話す言葉に適度なピリオドを加えたり、返事に取り掛かる前に敢えて一拍を遅らせたりすることで対話のキャッチボールを延命しているわけだが、ボールが完全に手元に収まってしまえばそのような小細工も発揮できない。
僕は左手をジャケットの内側へと伸ばした。
お喋りの最中にスマートフォンに注意を向けるのはマナー違反だろうか。しかしながら、僕は無性に現在時刻を把握したかったのである。
本日の予定を生み出した張本人である千夏先輩が、一分の余裕も、一分の遅れも、どちらも好まず正確な時間に到着することは、片手で数えることのできる程度にしか執り行われてこなかった美術部の屋外活動の実績から既に知れている。それ故に十時までの残り時間は、それ即ち話題を紡ぐ最低所要時間ということであり、その残量がまだ相当にあるのか、あるいはそうでないのか、これからどれほどまでに続くか分からぬ無音期間を明らかにするために知りたかったのである。
雪花の左腕には腕時計がはめられているが、ガラス面に日光が反射して白いばかりであり、僕が座っている角度からでは文字盤が全く判別できない。
それならば「今は何時かな」とでも一言聞けば解決は自明ではあったが、そのような質問をすることによって、僕がこの時間を窮屈に思っているのではないかと雪花に気を遣わせたくなかったがために、僕の小心はその案を棄却した。
だから、僕は極めて落ち着いた素振りで、それでいて緩慢ではない動作によって、スマートフォンの画面を確認しようとしたのだが、手のひらの全面をレジャーシートに貼り付けるようにして置いていた右手の上に、ひんやりとした感触が突如覆い被さったことによって、僕は動作の一切を投げ出さざるを得なかった。
右手の小指から中指にかけて、僕の持ち物ではない左手の指先が上から重ねられている。
現状を把握した直後、僕の心電図の波形は鋭く最大値を伸ばした。
同時に、心臓を震源とする波紋が体内を伝播して全身へと広がる感覚が襲う。
このような内面の波動は僕が砂塵化する兆候そのものであった。この波が身体の末端まで届くと僕を構築するいずれかの部分が、さながら防波堤に波が潰されて飛沫を上げるように、ぱっと砕けて砂の粒を生み出す。
しかしながら、地震の揺れを抑え込めないように、発生してしまったこの波動を抑え込むこともまたできはしなかった。僕にできることは、波動を作り出す一撃である鼓動の高鳴りそのものを生み出さないように振舞い、常日頃警戒することだけである。
……過ぎたことは仕方ない、重要なのは詳細の把握と冷静な行動だ。
「えぇと、その、どうかしたの」
僕は平静を装いながら雪花に尋ねた。
彼女は大きな丸い目の両方をぎゅっと固く閉ざし、九十度を有していた上半身と下半身の成す角をどれだけか鈍角に反らし、唇をふるふるとまごつかせていた。
雪花は具体的なことを口にはしなかったが、そのような様子からして彼女の真意は、僕の手に指先を重ねることではなく、もっと別のところにあることが察せられた。
かたかたと震える細い指先は、雪花が恐怖していることを如実に語っている。
僕は注意深く雪花の周囲を観察した。
右斜め前方にはレジャーシートの上に軽く山を折って揃えられた雪花の両脚が伸びていて……膝にはテーブルクロスのようにワンピースの白い生地が掛けられているが……その小さな二つの丘陵の内、左側の膨らみの上にはつい先ほどまではなかったはずのものが確認できる。
一帯に広がる雑草のような薄い黄緑に染まった丸みを伴う全体像の側面には、草花の根に絡みつく土のような褐色のラインが一本引かれている。ぷくりと膨らんだ本体はてらてらとした水気を帯びており、呼吸に合わせてぴくりぴくりと痙攣のような拡縮を繰り返しているが、頭部から張り出した眼球は瞬きひとつせずにじっとどこか遠くを見つめており、その場から微動だにしなかった。
「もしかして、カエルが苦手だったり、する?」
雪花は唇を震わせるのみでやはり言葉を発しなかったが、何度も小さく首肯することで内心の狂乱を僕に伝えた。
僕は雪花の指先に押さえつけられた右手ではなく、左手の中指と人差し指の二本を揃えて櫂を作り、半身をぐっと捻るようにして左手を彼女の膝付近へと寄せた。
招かれざる緑の客はやはりぴくりぴくりとするばかりで位置を変えなかったが、その鼻先まで指を近付けることで興味の対象が移行したのか、そこでようやく僕の指先の上へと這うようにして場所を動かした。
半身を戻す動作に合わせて指先のリフトをそっと雪花の膝から引き離し、もとの姿勢に返った僕は、下から上へと少し勢いを付けて指を跳ね上げ、かの客を手近な草の陰へと返却することに成功した。
短い草の一束が重さに曲がり、かさかさと音を立てていたが、やがて静かになった。
「もう大丈夫、お客は帰るってさ」
「…………」
「……あぁ、違う。今のは冗談のつもりで言ったわけじゃなくて」
「…………」
雪花は薄く目を開いて呆然とした表情で固まっていたが、暫くすると正気を取り戻したのかきょろきょろと辺りを一度警戒し、次いでどういうわけだか僕のことを気にかけた。
彼女はトートバックの奥からウエットティッシュを再び用意し、片手で僕の右手首を掴むと、もう片手に手にした一枚で僕の指先を熱心に拭き始めた。
その予想外かつ俊敏な動作に驚いた僕は、先ほどまで虚空を眺めていたカエルと同じ様相で、じっと物事の流れに身を任せるままとなった。
「白金さんはどうしてカエルが苦手なの」
「毒が目に入ると失明するんですよ」
「そういった話も聞いたことはあるけど、余程のこと運が悪いときだけじゃないかな」
「その余程が怖ろしいのです」
「そう言われるとこれ以上は何も言えなくなるな」
すっかり綺麗になった指先同士を擦り合わせて乾かしていると、んっ、と雪花が催促し、その問答無用の威勢に気圧された僕は、無駄な抵抗はせずに今度は左手を差し出した。
件のお騒がせものを直接触った指だからか、雪花の手つきは更に丁寧さを増した。
彼女の左手が僕の手の甲を包むように下から支え、折り畳んだティッシュが手のひらの上を何度もなぞる。
僕は非常に恥ずかしかった。
赤ん坊のように粗相を自ら片すことができないつもりはなく、適当にはぐらかしてしまおうかという選択も候補にはあった。
しかし、果たしてどれほどの実害があるのかも分からないような目に見えぬ汚れを、真剣な眼差しと共に取り去ろうと懸命になる雪花を見ていると、その熱意を茶化すつもりはどうにも起きず、ただ黙って彼女の満足の行くようにさせた方が良いかと諦めがついたのだ。
もうひとつ、このような不意のボディタッチに際して妙な緊張が張り巡らされたことにより、僕の口数と動きが極端に少なくなっていたのだが、それについては恥ずかしさによって導かれた健全な反応のひとつだったということにしておこう。
そうして左の手のひらが健康になるにつれ、僕の中には逆向きの願望が芽生えた。
……もう少し、このままではいられないだろうか。
ウェットティッシュのようにひやりとしつつも、やはり確かな温度を持つ、柔らかな手。
僕は人と手をつなぐことを煩わしく思い、ふとした拍子にざらざらとした砂の感触が伝わることを恐れ、拒んでいた。
しかし、意図的に避けていたことで忘れていた人肌の感触が、こうも心地好いとは。
「おおい、結構な会場だな、お二人さん」
遠くからの声に顔を向けると、橋の手前から続く砂利道の始点付近に千夏先輩の姿があった。
ちらと窺えた雪花の腕時計の短針は十の位置にぴたりと重なっている。
僕は思わず左手を引っ込めてしまった。
雪花もまた清掃用具を片付けるべく、手の置き場をトートバックへと移した。
「熱心な部員たちだな、関心かんしん……どうしたお前、顔が赤いぞ」
レジャーシートのすぐ後ろの砂利道に立った千夏先輩は、僕を見下ろすようにしてそう言うと不可解な表情を見せた。
「ってか、なんだそのクソ暑そうな上着は。熱中症になる前に脱いだ方がいいぞ」
……たしかに、さっきよりも熱いような気がする。
上着の袖を折って肘までたくし上げると青白い砂粒がぱらぱらとレジャーシートにこぼれたので、それらが人目につかぬ内にさっと外へと払った。